絵を受け取る/レディ・ガガのメッセージ性/自己プロデュース
Posted at 11/06/27 PermaLink» Tweet
【絵を受け取る】
ジェムストーンの魅力 (GAIA BOOKS) | |
カレン・ハレル他 | |
産調出版 |
昨日。午後横浜に出かけ、額装を頼んであった絵を受け取る。思ったより大きくて重かったが、仕上がりはよい。昨日は日曜日でルミネのアフタヌーンティーに入れなかったのでそごうの別のティールームに行ったのだが、そこは大人しかいないような喫茶店で、落ち着いていてよかった。その人が近々渡欧するということでそういう話やら、画題とも関わりのあるジェムストーン、あるいはスピリチュアルよりの話や自己プロデュースの話など。だいぶ長居をしたが、時間が経ってからもう一度ルミネに行ったらアフタヌーンティーに入れたのでそこでもう少し話をし、有隣堂に寄って帰宅。『ランドリオール』の通常版18巻(限定版はamazonから郷里の方に届いているはず)とカレン・ハレル他『ジェムストーンの魅力』(ガイアブックス、2009)を買った。
Landreaall 18巻 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス) | |
おがきちか | |
一迅社 |
家に帰ってから寝床の横の棚の上がちょうどよかったので絵を置いて、お香を焚いたり光を当ててみたり。なんか曼荼羅にお灯明を上げているみたいだなと思ったが、まあそんな感じもしなくもない。
【レディ・ガガのメッセージ性】
夜中にレディ・ガガの"Born this way"のPVを見ていて呆然としてしまう。なんというか、彼女の曲は見るたびにしてやられたと思うし、こういうことをやるのかと思うのだけど、何というか妙に親近感があって、なんなんだろうなあと思っていたのだけど、基本的にやり方の方向性が自分たちの芝居の作り方に似ているというか、それをすごく徹底しているのだということに思い当たった。人間というものは一人一人違うもので、一人一人がその身体的な面白さというものを持っている。小さいころから訓練を受けてきた歌舞伎役者や徹底的に身体を訓練したダンサーの技量というものはもちろん見るべき価値のあるものだけど、それだけが見るべき価値のあるものではない。どんな優れた役者でも、子役の何気ないひとことに食われたりすることはよくあることだ。つまり、その人間一人一人の面白さ(こういうふうに生きている、というその人間の面白さ)がちゃんと引き出せたら、それは訓練した人間の技量とはまた違う意味で見せられるものがある。レディガガのやっていることは徹底的な訓練というよりも、どう見せたら自分が見られるに値するものかというほうに主眼が置かれているわけで、それはファッションだけでなく動きとか振りとか歌い方とかさまざまなところにその拾い上げがある。
そこが結局"Born this way"のメッセージ性につながるわけで、自分たちはこんなふうに生まれ、こんなふうに生きるんだというマニュフェストになる。こういうふうに生きる、ということ自体を組織するということ自体が才能で、そういうふうに言ってみてもなかなか出来ることではない。自分たちが芝居をしていたころはそういう形にしても「カリスマを作らない」ということが一つの不文律としてあったと思うのだけど、レディガガは積極的にカリスマ(教祖性)を引き受けていることが大きな違いで、それはまあもちろん良し悪しはある。まあ引き受けているというより、そこに積極的な決意があるというべきで、そこが彼女の自己プロデュースの本質でもあり、またロックスターであればこその表現でもある。
しかし、障害者であろうとゲイであろうと性同一性障害であろうと…というのを歌詞に入れてしまうところがすごく現代的というか、こういう形での社会意識というものをロックミュージックに入れていくと言うことはやはり"We are the world"以来の転換がなければなかったことだ。もちろん彼女の存在自体がマドンナやマイケル・ジャクソン、デヴィッド・ボウイや先行するさまざまなものを受け止め、それをガガ的に表現していくその爆発的なバイタリティがあって初めて可能なものではある。そういう意味でこういうパフォーマンス、こういう存在自体が現実のものとしてここにあるというのはすごい時代なんだなと自分としては思う。
おそらくは彼女の存在は世界が経験しなければならない何かを体現しているのだと思うのだけれども、これから先どこへ行くのかはどきどきするしかない。
【自己プロデュース】
やはり彼女は自己プロデュースということにすごく意識的で、それはすごく面白いなと思う。しかし、自分のやりたいことをやろうとしている人は多かれ少なかれ自己プロデュースに関しては意識的なんだなということを昨日友人と話していて思った。
私はそういうことには全然疎い方だった、というのはつまり、自分がやりたいことが何なのかがはっきりしていなかったし、逆に言えばはっきりしなくてもなんとなく生きて来られる部分があったということだ。しかしそれで最後まで生きられるほど業が薄い人間でもなく、若いころからそれがはっきりしないことが最大の課題として意識されていた。
これは最近何度も書いているけれども、純粋に抽象的な思考というか、現実とは関わりのないところからしか本当に新しいものは生まれない、そして本当に自分が興味を持てるのはそういうことだけなのだ、ということをつい最近、ようやく自覚した。というのは、いままでずっと現実とのかかわりの中で出てきたものを組織することで新しいものを生み出す、という方向に引っ張られすぎていたからだ。そして小さいころから、現実のものにあまり興味をもてないということを自分の弱点と感じ、コンプレックスを持っていたし、よくそういうことで叱られたり傷ついたりした。だから何とかそれを克服しようという方向で努力してきたのだけど、結局どれもあまりうまく行かない。というより何をやっても根本的にたましいの荒みを止められない感じがあった。
手探りの中で本当に生きていると感じられる瞬間を経験できたのは芝居を作っているときであったわけだけど、芝居にもすべてを賭けられない感じがあってそれはなんだろうという自問自答がすごく長く続いた。
結局、フィクションを一から作っていく楽しさ、面白さというものが一番自分のベストだということがようやく最近になって自覚されてきた。つまり現実→思考という方向性の追求が思考→現実という方向に重きを置くことに180度転換したわけで、つまりは地動説から天動説への逆コペルニクス的転回なわけだが、それには自己認識として理性的人間から感情的人間への逆デカルト的転回があったわけだ。近代から中世へ。近代科学から錬金術へ。みたいな。何か書いてることがだんだん怪しくなってきたが。
まあそれはともかく、そうなるとようやくここで自己プロデュースということが問題になってくる。正直今までそういうことが全然ピンと来てなかったのだけど、個人の才能を貪ることで成立している現代社会で自分の持てるものをどう表現しやりたいことをどう実現していくかということは中途半端なことではない。友人は既に高校生のときからそれを自覚していたというからすごいなと思った。考えてみると芝居をやっていた頃の仲間もみな今考えてみるとそういうことにすごく意識的だったし、大学や大学院の同級生たちも自分の学者としての売り出し方にすごく意識的だった気がする。まあぼんやりふわふわしていたのは私くらいのものだったなと思う。生き馬の目を抜くような都市の(才能)バザールにおいて、にこにこその取引を眺めていたおのぼりさんの村人のようなものである。
結局人間の才能というものは、おそらく最初はそれぞれそんなに違いのないもので、そのわずかな違いが生い立ちの中でどんどん違う形で育って行き、あるときから意識的に自分で方向性を定めて形を得て行くものなのだと思う。自分の才能はこれだ、と早くから意識できる人はそれを早くから伸ばせるという利点があるし、早くから伸ばして早くから仕事ができるという長所がある。逆に、これと言って目立つものもないなあと思っても、努力によってそれを伸ばすことは出来るから、努力に努力を重ねて余人の追随の許さない力を身につけていくことも出来るし、また社会で一般的に必要とされる能力や学力を身につけることでこれと言った才能はないけれどもある程度社会で幅を利かす生き方ができるという方向性もある。というか、今一般的に「教育」という分野で求められているのはそういう方向性だろう。
才能なんて不確かなものだし、あるかないかわからないし、あっても発揮できるとは限らないし、そんなものに頼るよりも学歴だ、という発想は確かにへえとは思うけれども、正直私はつまらないし、それでは、少なくとも自分自身は生きていてもつまらない。まあ私も人並みに学歴を身につけたからアレなんだけど、まあ私の場合は方向性がはっきりしないから何でも出来そうなものを、という選択のし方で、まあそういう意味で分野的にはあまりよい選択が出来なかったなと今では思う。やっぱり18歳のときまでに抽象志向か現実志向かとか、そのくらいのレベルでは自分をはっきりさせておくべきだったと今では思う。自分の中学高校時代がもっと安定的なものだったら多分そのへんははっきりさせられたと思うけど、まあ、でもそれが結果的にうまく行ったかどうかはやっぱりよく分からない。まあこのへんを次の小説のテーマにでもするべきなんだろうなと思う。
まあとにかく、何を身につけるかということ自体で、既に自己プロデュースの道は始まっている。何も出来ないからとりあえずピアノを弾けるようにしておこう、という考え方だってある。今はそれが算数や英会話であるだけで、戦国時代(の武士の男の子)なら弓矢の術や馬の乗り方がそれだったわけだろうし、農民だったらとにかく身体を動かしてさまざまな仕事をすることであり、漁師だったらとりあえず泳げなければならないとか、「生きるために何を身につけるか」ということをただ「自己プロデュース」と言い換えただけといえないこともない。
しかし、身につけた能力はまだ生なものであって、そのまま社会で、というか現実で通用するとは限らない。もちろん社会に、というか現実に出てからも成長し続けなければいけないし、その往復運動を確保するためにも自分をどうプロデュースするか、売り出す、あるいは売り込むのかというのはかなり重要な要素になる。で、多分今の若者の多くは、そういうことでかなり苦しんでる気がする。中学や高校時代から「自分のキャラを作る」ということに苦労しているという話を読んだことがあるが、まあ私も中学時代は暗かった(頭髪は坊主だし運動はろくに出来ないし。田舎の中学で特に一二年の間、運動が出来ないということはかなり致命的だ)ので高校時代は努めて明るく、努めて人に話しかけ、努めて格好つけて人から格好よく見られるように心がける、という程度のことはしていた。まあそれなりに努力したおかげで100メートル13秒ちょうどとか幅跳び5メートルちょっととかマラソン大会上位1割程度には入れるようになってそういう自信もあったしまあ中学も3年になると急に序列が成績順になったのですごく過ごしやすくなってけっこう自己主張もすることが出来てきたという事もあるのだけど。まあ今の若者はもっとキャラを作りこんでいるみたいでそりゃ大変だなと思う。特に若いころは全然自分に不似合いなキャラに憧れたりするのでそのギャップの激しさで失敗する人は多いんじゃないかと思う。
まあ大学に入ってからとか就職活動でも自己プロデュースをその延長で(つまりプロデュースというよりディレクション、製作というより演出的に)考えてしまう人も多いだろうし、それに挫折してしまう人もまた多いだろうし、そうやって首尾よく入社したものの全然無理な演出ですぐ破綻してしまったりする人も多いのではないかという気がする。
そういう意味では、自己プロデュースの原則というか公式みたいなものがある程度あったらもっとうまくやれる人は多いんじゃないかという気はするな。出発点はたぶん、抽象志向か現実志向か、の二者択一から始まるのだと思うけど、でもこれが難しいなと思うのは、そういう設問があったら今では明らかに前者だと思う自分でも後者を選ぶのではないかという気がするということ。つまり「本当の自分」のつかみがたさだ。特に下手に自己演出に慣れている今の若者は自分の演出した部分と本当の部分がわからなくなってしまいがちでそこで精神的危機に陥るということがあるのではないかという気がする。っていうか実際そういう例は芝居をやっている頃からよく見ていたけど。芝居を志す人はもともとそういう自己演出傾向がある人が多いから。
私の場合はもっと身体的な感覚が出発点で、どうしても何かに縛られる、窒息しそうな不自由な感じから解放されたいということだったからちょっと違うが、まあ自分を見失っていたということに関しては同じではあった。
この辺、何かモデルのある目標を持てる人は多分ある意味楽だと思う。しかしモデルがない未踏の道を行かざるを得ない人は実際大変で、友人もそういうことで相当苦労してきたことはまあ私も古くからの付き合いなのでよく知っている。知っているが、昨日話をしてその苦労の深さを多分本当にははじめて認識したんだと思う。
つまりレディガガに憧れてレディガガの格好、あるいはレディガガから発想した格好をして見るのはいいけれども、レディガガがレディガガになる苦労をするのはそれとは全然違う苦労があるということでものすごく当たり前すぎて書いていてアレと思う。
つまりまあ、自己プロデュースの方法自体が創造的でなければならないということだ。友人も中学生のころからカーネギーの本を読んだりしていたというからすごいなとは思う。私など小説という方法を見出してもとりあえず新人賞に応募することくらいしか今のところ思いついていないからアレなのだけど、まだまだもっとクリエイティブな方法はあるのだと思う。あるいは特にデビューした後ではさまざまに。
(さっきから何かPCが挙動不審なんだが、よく理由が分からない。)
このブログなんかまあ本当はいい方法なんだと思うのだけど、今のところ行き当たりばったりだ。とにかく継続は力なりで書き続けているけどね。
っていうことで特に結論はないのだけど、自己プロデュースということについて考えようと思っているとか、多分そういうことなんだと思う。○。
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