目線を高く持つこと
Posted at 11/05/22 PermaLink» Tweet
【仕事の電話】
昨日帰京。特急の中で仕事の電話が入って対応に困る。職場の電話を私の携帯に転送にしてあるのだが、特急の中だとトンネル区間も多く、すぐ途切れてしまう。しかも問い合わせの電話だったので、ゆっくり説明することも出来ず、結局帰宅してから掛け直すことにした。そうなると10時になってしまうので、それもまた気が引けるのだが、今日日曜日は出かけるとのことなので遅くてもいいということだったから結局帰宅後掛け直した。しかしそのせいで帰りに書店に寄るなどは出来なかったので、まあなんだなと思う。しかし実際のところ、問い合わせがあるというだけでありがたいことだ。商売が成り立たないとこういう勝手なことも言ってられない訳で、ありがたいことと思うようにしている。
【目線を高く持つこと】
ここのところのことをずっと考えていて、自分の目線をもっと高く持たなければいけないなと思った。ということはつまり、今まで自分の目線が低かったなと思ったということだ。いつからそうだったのか考えてみると、父が亡くなってからずっと、ということかなと思ったが、いろいろ考えているうちに、今までずっと本当の意味では目線が低かったのではないかという気がしてきた。
もちろん、目線をある程度保っていた時期もあるのだけど、それはテンポラリなもので、必ずしも一生保つべき目線の高さを意識していたとはいえないような気がする。
目線の高さとはつまり、「何のために生まれて、何のために生きるのか」を決める、ということ。志ということだ。その答えはどこにあるかというと、もともとどこにも存在しないものだ。自分の中を探したってでてこない。自分で選ぶしかないし、自分で決めるしかない。やってみて違っていたら変えるしかない。
「やりたいこと」をやるというと自分の中にあるものになるから自分の中を探すことになるが、「何のために生きるのか」は自分の中にはない。生まれたときから「俺はマグロの流通に一生を賭ける!」と思って生まれてくる人間はいない。いろいろなものに触れ、いろいろなことをやってみているうちにこれをやってみたい、と思ってそれに取り組んでいくだけのことだろう。そういう意味で言えば就職もまたそういうものを探す一つの機会に過ぎない。日本ではその意義がいまだに過大評価されているところがあると思うが、やりがいを感じていない人がその仕事をやっているという状況はその仕事にとってもあまりいい状況ではない。これが「天職だ」、と思える仕事が早く見つかればそれは幸運なことだ。その出会いが10歳で来るか、60歳で来るかは分からない。よく分からないまま仕事を勤め上げ、第二の人生ではじめて天職にめぐり合うことだってあるだろう。
感受性が豊かなのはいいことだが、いろいろなものに動かされ、動揺し、振り回されることはあまりいいことではない。日々のニュースに一喜一憂し、周りの人の振る舞いがいちいち気に障ったりするのは感受性が豊かというよりは自己が確立していないということになる。特にいまのような震災後のおのおのの議論が喧しい時期には、容易くいろいろな意見に絡め取られていく危険性が高い。
自己がしっかりしていないから、やりたいことがはっきりしていないからそういうふうにぶれるのだ、と考えてみても、じゃあ具体的にどうしたらいいのかということが分からない。
ここ数日毎日何十ページもモーニングページを書いていろいろなことをずっと考えていた。きのうも21ページ書いた。その中で、これは私の場合ということになるかもしれないけど、目線をもっと高く持たないといけないというように思うようになったのだ。
何かの行動をするときに、「仕方ないからそうしよう」と思うのはよくないな、と思い当たったということ。それは負けを認めている。人に言われて、あるいは状況にせまられて、仕方ないからそうするというのは、人に言い負かされた、あるいは状況に流されたということに他ならない。同じ結論を出すにしても、それがよりよい選択であり自分はそれを推進する、という心構えを持たなければいけないなと思った。無意識のうちに言い訳をしないこと。本当はやりたくないのに、という気持ちを残さないこと。どんな大変なことでも、それはたましいの進化のためにはいい経験だととらえること。
【自分の心の中にいるのは弱い自分だけではない】
いままで、というかここ数年、どうもぐずぐず考えることが多くなっていて、ブログでもそういう調子の文章が多くなっていたのだけど、きのうモーニングページを書いていて、それはモーニングページの使い方の問題だということに気がついた。モーニングページは心に引っかかったこと、ぐずぐずした気持ち、いやだなと思ったこと、変だとは思うのだけど自分では抑えられない気持ちなど、なんでも書く。それは「たましいの排水」という言い方をしているけれども、自分の弱音をちゃんと吐き出すというところに意味がある。しかし、その「心の姿勢」が一日の一貫した姿勢みたいになってしまっているところがあった。とにかく「弱い自分」に正直でなければいけないと。
しかしきのういろいろ考えていて思い当たったのは、自分の中にいるのは「弱い自分」だけではないということ。あたりまえのことだけど、「弱い自分」を正当化してしまうと積極性のある自分が動きにくくなる。私が「ものを書きたい」と思い、「表現したいと思ったこと」は、自分の中のどろどろしたものだけではなかったはずだ。しかしそれを書かなければならないという気持ちに囚われすぎていた。「書かなければならない」というバイアスがかかっていたのと、実際書いても書きつくせないほどいろいろなことがあったということもあるし、書けば書くほどそういうことに目が行ってそういうことを書き続けてしまうという悪循環、そうなると普段も他の人を見たりしていてもそういうイヤなところばかり見てしまうという悪循環から抜け出せない状態になっていたなあと思う。
これはまあ性格の問題もあるし、おかれている状況の問題もあるのだけど、自分の中で何がまずいのか、それがつかめない感じがしていた。しかしここに来て描写の重要性を強調する保坂和志や、目に見えないものを書くために目に見えるもののデッサンを繰り返し、目に見えるものを描くことで目に見えないものを描き出そうとするバルテュスの言葉を読んでいるうちに、自分が自分の心の中のことばかりを書いているのは不適当なことだということをようやく気がついてきたのだ。
モーニングページに、「気持ちのいい季節になってきた」と書こうとして、それにブレーキをかけようとする自分に気がついて驚いたのだ。心の中以外のことを書こうとすることを規制しようとする自分がいることに気がついて驚いたのだ。
実際人間というのは、というか特に私は、一体どういうことに引っかかってしまうか本当にわからないなと思う。
【モーニングページというアメリカ的方法】
ずっとやりたかったことを、やりなさい。 | |
ジュリア・キャメロン | |
サンマーク出版 |
The Artist's Way (Inner Workbook) | |
Julia Cameron | |
Tarcher |
「モーニングページ」というのはアメリカのジュリア・キャメロンが書いた"The Artist's way"(邦題『ずっとやりたかったことを、やりなさい』で基本ツールとされている自分の状態を常に記録し振り返るための方法で、毎朝3ページ、ノートに何でも心に浮かんだことを書く、ということになっている。これを私は2007年10月から続けていて、現在102冊目になっている。
モーニングページの意義は、日常の中でついついごまかしてしまう自分というものをニュートラルに記録していくことで、自分の中に表現できないものを溜め込まないこと、自分をごまかしているうちに本当に自分がやりたいこと、自分がやるべきことがなんなのか見失ってしまったときに心のうちをもう一度見直して本当はどうなのか、ということを考えることが出来るところにあるのだと思う。特に弱音は普段言えないから、こういうところに書いて自分の中にはそういう自分がいるのだということを見失わないようにするという意味があるのだと思う。自分の弱さをちゃんと認識しておくというか。
しかしこれはある意味、アメリカのような激烈な競争社会から生まれたものだという側面もあるように思う。もともとアメリカはチャレンジし、勝ち残ることによってしか生き残っていけない社会だから、自分の中の引っかかりなどはかかずらわっていてはいけないと思いがちで、なおざりにされてしまい、その結果精神分析医が大流行ということになるのだろう。
日本でもそういう状況の中に身を晒し続けている人にとっては自分を振り返るのにすごく有効なツールだと思うが、日本でこの本をてにしている人たちはそういう激烈な競争社会の中で生きているというのとはまた少し違った状況の中にいる人のほうが多いのではないかという気がする。
つまりそれは、「自分が何をやりたいのかよく分からない」という人たちではないかと思う。だから「ずっとやりたかったことをやりなさい」といわれてもそれが分かれば苦労しないよと思い、それを探るためにモーニングページを書く、という人が多いのではないかという気がする。
ポジティブを強制される荒っぽい社会だからこそ自分の中の心の震えるような小さな部分が見落とされがちであるという状況でモーニングページは有効だが、心の中の小さな動揺のことばかり考えている人がモーニングページを書く心の姿勢の中ばかりにいたら心の中の動揺から抜け出せなくなってしまう。
【心柔身硬の日本人、心硬身柔のアメリカ人】
面白いと思うのは、日本では心に問題があるときでも体とか行動とかからのアプローチが追求されてきていて、アメリカでは心を変えることで行動を変えるというアプローチが追求されて来ているということだ。
野口整体をやっていると、心の問題があるときも多くの場合は本当は体の問題だったと思い当たることが多い。野口晴哉の著書を読んでいても、そういう例がたくさん出てくる。体から心を見るという姿勢が徹底している。私なども操法を受けにいくと、「気が急いてますね」とかすぐ言われるが、そういう心の姿勢が如実に身体に現れているのだ。またユング派の河合隼雄のやっていた「箱庭療法」なども、言葉によるアプローチではなく、砂場をいじったり人形を配置したりと実際に身体を動かし、手で触れることによって「解決」に近づくという方法を取っている。身体主義、行動主義とでも言うべき問題の「解決」の考え方だ。
一方でアメリカでは、「こころ」とか「精神」とか「たましい」とかそういうものを変えることで物事を解決していこうという方向性が強いように思われる。
それはなぜかというと、アメリカ人のほうが「こころ」とか「精神」の「実在」性を信じているからではないかという気がする。だから精神主義的なアプローチになるのだ。
まあ日本も昔はいわゆる「精神論」が大流行だった。アメリカの精神論は結局は神の実在性とその似姿としての人間は当然精神を持つという発想に淵源があるように思うが、日本の精神論は付け焼刃的で荒っぽい。江戸時代後期の弛緩した社会の中から現れた、現実から遊離した国学的ナショナリズムとか、そういうあたりにはじまるわりと底の浅い精神論が多かった気がする。もともと日本は神話でももっと「もの」と「いのち」と「こころ」の区別が不分明な世界から始まっていて、精神と言ってもそれはものやいのちに結構重なっていたりして、スパッとした霊肉二分論のキリスト教とはかなり違う感じがする。
だから日本的アプローチはそういうものやいのちの世界からこころの世界に迫るというアプローチになるが、アメリカではこころはこころ、身体は身体なのでこころには心のためのアプローチ、という方向性が基本になり、またそういう機械的部品的考え方だからこそ細部まで研究が行き届いているという面があるのだと思う。
だから日本ではもともとこころの問題は身体やいのちの問題とそんなに離れてなくてだからなんとなくほうっておいても救われやすいところがあるのだけど、アメリカではそうではないからモーニングページでもまず心を弛めることから始めるのだろう。
逆に、日本では野口整体で活元運動を指導するときに、とにかく「身体をゆるめる」ということ重点を置いて指導するが、アメリカに行って指導すると本当に脱力してリラックスしすぎてしまう人が続出するので活元運動は「身体を引き締める」面もあるのだということを強めに言うのだという。つまり日本人は「身体は硬くなりやすいが心は緩みやすい人たち」で、アメリカ人は「心は固くなりやすいが身体は緩みやすい人たち」だということになるだろう。大体アメリカには「肩がこる」という表現がないというが、彼らを見ているとわりとそんな気はする。身体はやわらかいが心は硬いだろうなと。
【いま必要なアプローチ】
まあだから、日本では心をリラックスさせるというアプローチは当然まずは必要だけどそれだけでは心のもち方として足りないんだと思う。何が足りないかというと、これはだれもがそうかどうかは分からないが、つまり「目線を高く持つ」ということなんだと思う。高い目標を持って自分の耐えられる負荷を高めていくこと。一歩一歩前進していく覚悟。まあ何というか精神主義とかいう以前に昔は当たり前だったことばかりだけど、多分そういう普通の鍛え方が大事なんだろう。
その中で自分を常に振り返ること。そのときにモーニングページがまた改めて重要になってくる。モーニングページはそれが始まりなのではなく、常に自分を振り返るためのツール、前に進もうとする人に有効なツールだ。前に進めないのだとしたら、なぜ動けないのか、動くためにはどうしたらいいのか、ということを考え続けなければいけない。まあそれは既に「前に進んでいる」のだけどね。まあそう思っていたら、確かにいろいろなアイディアがその中から湧いてくる。留まろうと思ってもとどまれなくなる、という言い方をキャメロンはしていたと思うが、人により時間差はあろうが書き続けていればいつかは必ず動き出すと思う。
と、とにかく最近この件に関して思うことをまとめてみた。
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