モーニングページとブログ/ひらめくことと書くことと小説を書くこと/絵とは東方の三博士がベツレヘムに向かって夜道を歩いているようなもの

Posted at 11/05/18

【モーニングページとブログ】

毎朝モーニングページを書いている。これはその時に思ったこと、考えたことなどを200字詰めの原稿用紙掛けのノートに毎日最低3ページという基準で書いているのだけど、書くことがたくさんあるときはどんどん増えて行って、朝15分くらいでささっと書いて終わりにすることもあれば考えては書き、考えては書きを繰り返しているうちにずいぶん長くなってしまうこともある。このノートは100ページだから毎日3ページなら一月で一冊になるのだけど、今のところ大体半月で終わるのが普通のペースになっている。しかしそれは平均であって、一週間少しで終わる場合もあるし、一月近くかかる場合もある。

月曜日からモーニングページを書く量が多くなっている。月曜日には16ページ書き、火曜日には20ページ書いた。今日水曜日は、23ページになった。三日間で半分以上書いたことになる。

私はブログの方も長いときにはかなり長く書いているから、両方を合わせるとかなりの量になる。それでもモーニングページは形になりにくいこと、公にしにくいことを中心に書くし、ブログの方は読んでもらいたいこと、あるいは読んでもらってもいいことを中心に書くのだけど、その境界は曖昧だ。モーニングページに書いていてこれは面白いからブログにも書こうと思うときもあるし、モーニングページを書いている途中で思いついたこと、あの本が面白かったとかそういうことはモーニングページに書かずにそのままブログになだれ込んで書いたりすることもある。

モーニングページの中で書いていたことを小説にしたこともあるけど、なかなかそういうふうに動かないこともある。モーニングページを書いているときというのは半分向こう側の世界に行ってるようなときが多いのでこんなふうに長く書くときはけっこう思考やら想像やらがあふれ出ているときなので小説という明確な形を与えにくい感じがする。結局のところ、小説は描写がいのちだなと思うのだけど、描写のストックがいま少し足りないなという感じがする。描写を書きためているうちにそれがひとりでに動き出す、というような感じがする。アニメのイメージボードみたいなものだろうか。書きたい小説の感じは今あるのだけど、それはストーリー優先というよりは描写優先になりそうなので、もっと描写を書きためて行かなければいけないと思う。たとえば港の見える丘の上の気持ちのいい家に住んでいる男の子と女の子の双子の話。描写を積み重ねて行かなければ。


【ひらめくことと書くことと小説を書くこと】

何か迷っていることの答えを探しているときや、あるいは新しい発想を探しているときに、外で答えを見つけるのでなく、自分の中で答えを見つける場合には、二つ方法がある。ひとつは「ひらめき」で、私の場合は寝起きにそういうものが見つかることが多いので起きぬけの時間は大事にしている。もう一つは「書くこと」で、書いているうちに発想が育ってきて、自分でも思っていなかったようなことを考えるようになることだ。後者の方をフィクションを育てて行くようにして書いて行くとそれは小説になって、まるで思ってなかったことを書いていくことになって面白いわけだが、「勝手に登場人物が動き出す」というのはそういうような現象なわけだ。書くことには論理的な連関とか、言葉そのものの持つリズムとか、頭の中とは別の自律的な言葉の働きによって自己運動して行くところがある。ブログを書いている人は誰でも、自分が考えていなかった結論に至って驚いた経験はあると思う。これはある種嬉しくなってしまうワンダー体験でもある。

じゃあ「ひらめき」というのは何だろうと今考えてみたのだけど、ひらめきと言っても何にも根拠がないわけではなくて、自分の中に何かがあるから閃くわけだ。その問題について頭の中で化学反応が起こってこういうことなんじゃないの、という感じのことが起こるのだと思うのだけど、それが特に論理的な連関でなく起こるのでその跡を追いかけにくいのだけど、あのこととこのことの何となく並べてみたりしているうちにそういうことが起こることが多い気がする。ということはつまり、ことばの論理的な連関でなく、その内容自体の近さ遠さを頭の中で空間的に近づけたり離したりしているうちにこれってこうじゃん、という結論に達するのではないかという仮説を立ててみた。

つまりひらめきというのは、言葉の持つ論理的な連関とか縛りから自由になってないと生まれないということなんだと思う。一番頭がぼーっとしている寝起きのときに一番発想が起こるのは、論理的思考がまだ動き出してないからではないかと思う。

多分これは、KJ法のB型文章化とA型図解化を頭の中でやっているようなものではないかという気がする。KJ法ほど体系的にやっているわけではないから漏れが多いし効率的にもあまりよくないと思うけど、やり方とかそういうものからも自由ではあるので、寝起きでなければ思い浮かばないような思いがけない発想が出てきたりして面白い。

小説のネタというのは論理的に考えて出て来るものではない。でも突飛なことを思い付いたからと言ってそれがネタになるわけでもなく、今関心があることのうち話になりそうなものとなりそうでないものがあるわけで、なりそうなことをいくつか結び付けているうちにこういう話を書こう、ということになるわけだ。その中にはちょっと突飛な発想もあった方がいいわけで、そう考えると小説を書くというのは人間の思考能力のいろいろな局面をフルに働かせて行う行為なんだなと思う。

こういう文章もそうだけど、普通の散文というのはやっぱり人間の持ってる表現能力や思考能力、発想能力の一部しか使ってない感じがする。小説を書くのはたいへんなことだけど楽しいのは、そういう自分の持てる能力をフルに使う感じがするところなんだろうと思う。

他の人の作品を読んでいると、とにかく「書くこと」によっていろいろなものを引き出して来ようとするタイプと「ひらめき」によっていろいろなものが出てきてしまうタイプと、その両極端の間のどこかの位置で書いてるなと思う人と、いろいろある。ひらめきも実は空間的なものだというふうに考えてみるとあまり神秘主義に陥らずに考えやすくなる。キャラクターが降りてきたり言葉が降りてきたりするときにはやっぱりある種「降臨」という感じがあって神秘的な面白さはあるのだけど、まあそれも慣れて来るとある種の日常かもしれない。


【絵とは東方の三博士がベツレヘムに向かって夜道を歩いているようなもの】

昨日帰郷。『チェーホフ・ユモレスカ』(短編集)と『パ・リーグがプロ野球を変える』を持って電車に乗ったのだけど何となく物足りなくて、丸の内の丸善でジョイス『ユリシーズ Ⅰ』(集英社文庫、2003)を買った。胃の調子がよくないので普通の弁当でなくおにぎりを買おうと思い、お米のふなくぼのやっている「結び庵」でおむすびを買う。鮭と、梅干しと、塩にぎり。塩にぎりはその場で握ってくれるので暖かい。海苔は別になっているので食べるときに巻くのでパリパリだ。それから卵焼き。別の店でしまんと焙じ茶を買う。しかし寝不足で、ご飯を食べてからはほとんど寝ていた。持って帰った本たちをあまり読む気がしなくて、少しずつぱらぱらとしか見ていない。

朝起きていろいろ考えながらモーニングページを書いて、一度読んではいるが気になったエマソン『自己信頼』を少し読み始めてみたのだけど、どうも今読みたいのとも少し違う感じがして、『バルテュス、自身を語る』を本棚から取り出して読み始めた。この本は買ったはいいけれども全然読んでなくて、読み始めるきっかけを探していたのだけど、読み始めてみると今一番自分の中に入って行く感じがする。ぱらぱらと見ていたときに見つけた「私はつねに絵とは「素晴らしいもの」の追求、イエスの誕生時にベツレヘムに向かった東方の三博士が夜道を歩いているようなものだと思っていました。導いてくれる星に従い、そうして出現にたどりつかなければなりません。」という表現が信じられないくらい美しくて心が震える感じがして、これは今読むべきものだと確信して読み始めた。はたしてすいすい言葉が入って来る。シュルレアリストをはじめとする現代絵画の人々を批判している部分は正直よくわからないけれども、彼の伝統に対する思いとか、美しさへの確信とかは心の深いところで共感するものがある。これはやはり読むべき本だ。52/279ページ。

バルテュス、自身を語る
河出書房新社

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by Luke Peterson

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