自分で迷信を作ってみる/ジョイス『ダブリナーズ』読了/「来世であいましょう」最終回/何を語るべきであり何を語るべきでないか

Posted at 11/05/15 Comment(1)»

【自分で迷信を作ってみる】

土曜日というのは週の終わりで、一区切りつくことが多いのだろうか。日曜日は安息日ではあるが、前週の後片付けと新しい州の容易が自分の中で行なわれる感じがある。今日は仏滅。最近結構六曜を意識しているのだが、普通の解釈とは違って自分で勝手に意味づけている。今日は仏滅。仏滅は、お釈迦様が入滅した日だが、ということで生や死についてをはじめとして本質的なことから広々とさまざまなことを沈思黙考する日、というふうに自分では位置づけている。つまり、積極的に行動を起こすというよりは考えを深める日、という位置づけだ。

大安はまあいいことがあるといいのだけど、まあ多少調子に乗ってもいい日ということかな。でもそこで見えてくることが現実というか、調子に乗ってもいけるようならその方向に世の中あるいは自分の周囲が動いているのだし、ささくれ立つ空気があるなら方向修正した方がいいという感じだろうか。赤口というのは子どものころ六曜を調べたとき、物事をはじめるのによい日とあったのでそれは今でもそう思っている。先勝は午前中がよい日というけれど、自分としては積極的に前に出るのがよい日、というふうに考えていて、友引は友達に働きかけたり世の中に働きかけたりするのによい日、という風に考えている。いや考えてるだけでうまく行くとは限らないけど。この日に葬式をするとあの世の友に引かれていってしまうというけど、そんなパワーがあるなら現世で使わない法はない。ただそういうイメージもあって、よいことも悪いことも引っ張ってきそうなので用心した方がいい日ではあると思う。

先負は負けるという字がついているので印象がよくないが、一日おきにプラスマイナスだと考えるとプラスの日になるので案外いい日なんじゃないかと思う。午後がいいといわれるけど自分の感じでは別に午前でもそう悪くない。結構穏やかに過ごせる日という印象が強い。

ああ、そういえば最近そんなことをなんとなく考えていたんだなと書いてみて思った。自分で迷信を作るのはわりと好きみたいだ。自分で作った迷信は自分で変更可能なのでやっぱりこうかなと思ったら修正することも出来る。人の作った迷信に囚われると自分の中に根拠がないので振り回されてしまうが、わりと適当に自分で作ってみた方がいいんじゃないかなと思う。よくジンクスというけれども、あれは「悪いこと」を想定してしまうから縛られてしまうんだと思う。ちょっと注意するとか、慎重になるとか、そういう程度に抑えておけばいいんじゃないかな。こういうのって人間が生きていく上での皮膚感覚みたいなものだし、観念的に縛られてしまうと非生産的だけど、なんとなくこんな気がするということは結構大事にしたほうがいい気がする。っていうか私はそんなふうに考えるところはある。


【文章に題をつけてみるがつけようがなかったりする】

いつもブログを書くときは文章を大体書きなぐってから更新報告をする際にさてなんて題にしようと思い、あまりに多岐に渡っているときなどどうしようかと思うのだけど、こういうことを書いたよと一番言いたいことを題にすることが多い。だからその文章のメインの話題と関係なくても面白い表現が思いついたらそれで更新報告したりする。だからあとで読むと何を書いたのかわからなくなったりすることもあるのだけど、まあ何を言いたいと明確に意識して書いているとは限らないので、まあそれはそれでいいんだろうと思っている。

今日は試みにそれぞれの文章に題をつけてみることにした。あることについて書いていてこのことについては大体いいかなと思ってそれで終わりにしたあとでじゃあこれ、みたいな感じでつけてみているのだけど、大をつけようとすると自分の中の感覚が全然違うというか、「吐き出し志向」よりも「まとめ志向」のほうが強くなるな。カッコよくいえば前者はブレーンストーミング的、後者は内容構築的ということになる。私の吐き出しはブレーン(脳)の中にあることだけではない気がするが、それじゃ何かというとハート(心)だったりスピリット(霊ないし精神)だったりもするという感じかな。もっと低級な次元のことや心の底に溜った溝浚いみたいな内容になることもあったりして、なんていうかほとんど人間の思考の各層の観察記録みたいなものなんだけど、客観的な感じというよりは主観的な感じで書いているわけで、その主観が泥に塗れている感じがいい。なんかでたらめに自分を突き放してるな。どうも今日はそういうノリになっている。

ああ、こういう文章だと題のつけようがない。


【ジョイス『ダブリナーズ』読了】

のっけからわけのわからないことを書いているが、これはさすがに仏滅の日曜日だけのことはある。というか、きのう信州で仕事を終えて7時前の特急で上京して、その車中で本をぼんぼん読んで読みながらチョコレートをかじっていたのだが、気がつかないうちに空色のベストの上にチョコレートのかけらをこぼしていて、室温が高かったせいで溶け出して汚してしまったのだった。子どもだよ全く。

ダブリナーズ (新潮文庫)
ジェームズ・ジョイス
新潮社

それはともかく、きのうは珍しく朝日新聞を買わなかった。読むものがはっきりあって、とにかく車中でなるべく全部読んでしまおうと思っていたから。というわけで、ジェームズ・ジョイス『ダブリナーズ』(新潮文庫、2009)読了。面白かった、と言っていいんだろうと思う。でもなんていうのかな、それよりも小説オタク、もとい小説好きの人の会話に加わるネタが一つ出来たかな、という感触のほうが強いかなという気がする。いや、一つ一つの短編は結構面白いというか、確かに分かりにくいといえば分かりにくいのだけど、でもやっぱりO.ヘンリみたいな短編の名手という感じもあって、組み立て方も含めて面白いなあと思う。なんていうかそういう知的な種類の読み方をする部分が結構ある。

でもそれだけじゃなくて、短編というのは長編と違っていちいちその世界に読者を引き込まなければならないから結構大変だと思うのだけど、その導入、書き出しの部分がとても巧みに読者を誘導しているなと思った。さすがに20世紀初頭のアイルランドのことなんて全然身近に感じられないわけで、でもその中でも想像しようと思えば出来る情景を引っ張り出させる技術は訳者が相当工夫はしているんだろうけどそれだけでなくジョイス自身の書きぶりも巧みなんだと思う。どの作品も登場人物のキャラクターがはっきりしていて、後半に行けば行くほど登場人物が増えて覚えるのが大変になっていくのだけど、特徴がはっきりしていてわりと覚え易い。話も最初は子どもが主人公の話からはじまり、若者の話になって、年配の話になり、あとは愛や政治や宗教的なことがテーマの話になったりして、そのバランスの広がりや、その配置の仕方自体にジョイスの世の中に対する見方が見えたりして(もちろん書いた当時のということで、ある意味まだ常識的だと言えるのだけど)面白いなあと思う。短篇集はそれぞれの短編の配置の妙がかなりポイントが大きいなと当たり前ながら思った。最近の作家の短篇集はそれがあまり考えられてない、ただいろいろなところに発表した短編が溜まったから出しました、みたいな感じの出し方が多い気がするけど。

一昨日に読んでいた中では「土くれ」が、きのう読んでいた中では「痛ましい事故」が一番好きだったかな。「母親」も面白かったけど。とても面白かったのでネットで調べてみたら、ジョイス自身は「痛ましい事故」を気に入ってなかったという情報があってなんだよそれと思ったりもしたんだけど、それはメロドラマ的にとらえられてしまったからということのようだ。書いたときはいいと思って書いたけど、受け入れられ方が気に入らなかったんじゃないかなと思う。

でもメロドラマでもいいじゃん、と私は思う。何かが起こりかけていたのにそれを押し止めたら別のことが起こってしまった。痛ましいけれども、愛というのはそういうものでしょう?愛というものの形、その見え方がとてもいいなと私は思ったよ。

よくジョイスは前衛的だとか難解だとかいわれるけど、私の印象としては、この短篇集はそんなに前衛的だとは思わない。前衛的というより、描写の技術がとても優れているなとは思う。描写をやかましく言う保坂和志が推薦しているだけのことはあって、こういう読み方をしたら面白いという感覚を思い出させてくれて、すごくよかった。外国の現代作家の作品を試しに読んでみることはあるのだけど、最近の作家のものだと描写は印象に残っても話としてのまとまりみたいなものがぶつぎれになっていることが多くて、どうもそういうのは読む気が失せてしまうんだな。

ジョイスでも「ここで終わりにするの?」と思う短編はあるけど、その切り方自体は抑制されていると思う。最後まで納得は行かなくても、後少し考えればいいかなというところまでは示してくれているし、余韻ととらえられる範囲というか。

やっぱり小説というのは面白くなければいけない、というか、面白くなければ読む気がしない。面白さってなんだろうということになるけど、やっぱり自分の考えてることとどう交錯して来るかということなんだよね。だから万人にとって面白いという小説はないし、でもたとえば今回の震災みたいに多くの人の共通体験があるとそこに依拠して多くの人に読まれる作品というのは出てくるんだろうと思う。20世紀はじめのダブリンの淀んだ、でもどこか動きのある、でもそれに必ずしも関心があるのかないのかはっきりしない、そういう空気の共通体験を伝える、そういう力をこの短篇集は持っている。そのダブリンの様相がどこか永遠性があるというか、別にダブリンでなくてもこういう感じってあるというのが共有できるところが小説の永遠性の根拠になるんだろう。

多分半年後には、日本でもすごいベストセラーになる小説が現れる気がする。それがどういう内容のものかは見当はつかないけど、永遠性を持った何かがそこに現前していると日本文学が世界文学に貢献する何かが出来るんだろうと思う。


【「来世であいましょう」最終回】

コミック BIRZ (バーズ) 2011年 06月号 [雑誌]
幻冬舎

きのうの帰りに地元の文教堂に寄って本を物色すると、「ごく一部の大型書店でしか発売されていない(Wikipediaによる)」という伝説?の『コミックバーズ』があったので買った。小路浩之『来世であいましょう』がついに最終回との情報をどこかで読んで、連載誌上で一度は読んでみたいと思っていたので、迷わず。こういうマンガ月刊誌というのは主な読者がどういう人たちなのかいまいち分からないのだけど、これはどちらかというと男子よりの雑誌のようだ。山田章博が連載していたのが発見なのだけど、なんとなく昔と画風が違う、特に構図の作り方が以前は絵画的だったのが今は動画的になってる感じがする。ちょっと不思議な感じ。

来世であいましょう 3 (バーズコミックス)
小路浩之
幻冬舎コミックス

「来世であいましょう」の最終回は、無茶苦茶よかった。もともとこの人のマンガの作り方は演劇的な感じのするところがあるのだけど、最終回は本当に芝居のクライマックスを見ているような感じで唖然呆然、何度も繰り返し読んだ。唐十郎の『鉄仮面』を思い出したり、あるいは歌舞伎、『妹背山女庭訓』の『道行恋苧環』から『三笠山』の場を思い出した。ナウを殺してしまったキノがナウの肉体を持ち去ろうとする。「仕方ないだろ!中身はかぴあのヤツが持ってたんだから!!」そこにかぴあが現れ、その肉体を奪おうとする。「だから身体くらいいいじゃないか!全部ボクから奪っていくなよ!!」「ダメ!ヒトカケラだってあなたには渡さない!」セリフを書いてみてもぼうっとしてしまう。それを見ていたポワチンが仲良く半分ずつにしろとナウの肉体を引き裂こうとすると、キノがそれを庇って刃を身体で受け止めてしまう。「ダメだ姐さん…こりゃキノの勝ちだ」というポワチンにかぴあは、「なんかやっぱりやだ!!」といってすべてを爆破するボタンを押す…

この21世紀に、こんな、ある意味ベタな、恋愛話を読めるということ自体に感動する。ナウをめぐる争いは恋の苧環の橘姫とお三輪みたいだし、恋に殉じて死んでいくキノは三笠山のお三輪だ(勘九郎時代の現勘三郎が演じたお三輪が忘れられない)。そして肉体の取り合いはまさに大岡政談。ていうか、ポワチン自身が大岡裁きだと言っているのだけど。そしてそれをやっぱりヤダと拒絶しすべてを破壊するかぴあのファム=ファタルぶり。ポワチンが身体を乗っ取ったエチカは「生きてるだけ」になってしまうし、爆破の主犯に格上げされたかぴあは「おつとめ中」だし、ああ、何かこれも八百屋お七みたいだな、そして最後にそもそもの話の発端となったメルシャン様はかぴあとナウの子どもとして獄中で生まれるという、大団円ぶり。ああだからこれは、現代に意匠を借りたマンガ歌舞伎だったのかもしれない。読めば読むほど心が騒ぐ。発売はもうしばらく先になろうが、早く4巻を読みたいなと思う。

いや、こんなふうに歌舞伎に当てはめてみたら見事にぴたぴたとハマってむしろ驚いたんだけど、このマンガは何かに当てはめられるからすごいとか、そういう次元ではないのだ。なにがすごいのかがわからない。そこがすごいのだ。(何を言ってるのか分からないが!)

編集者の付けたコピーが「愛と感動の最終回!!」だとか「モテてもモテなくてもコレを読め!全国老若男女の夢が詰まった」だの何を言ってるのかよく分からないが編集者自身ももう面白くてしかたなくてとにかく読んでくれと吠えているようなコピーになっていておかしいが、もうそんな感じ。See You the Next Life! 連載は終わってしまったが、夏ごろ次回作が現れるということだし、スーパージャンプの「ごっこ」のほうも楽しみだし。

物語にはまだまだ可能性がある。勇気をもらった。とベタに締めておく。ベタを恐がってはいけない。


【何を語るべきであり何を語るべきでないか】

いかに面白いかということを伝えようとすればするほど文章が空虚になっていくのが面白いが、要するにまあ言葉にしては伝えられない面白さというのがあるということなんだろうな。水戸黄門がどう面白かなんて言葉で言おうとして伝えられる人はいないし、伝えたとしても紋切り型で空虚になるばかりだ。サザエさんやドラえもんもそうだろう。なのに何千万という人たちがそういうものを見て、その話題ならついていけるわけで、感想というもの、面白さというものに関する言葉というのは本当にまだまだ貧しいのだなと思う。結局言説としてはそういうものの流行に対する斜に構えた批判的な言説のみが残っていくわけで、作品の本当のすごさというものをとらえた言葉は生み出されはしないから残らない。古典として残る力があるものをのぞいては、時代を風靡した作品というのも結局一迅の風以上のものではないのかもしれない。

小説の自由 (中公文庫)
保坂和志
中央公論新社

それはともかく、保坂和志『小説の自由』も現在362/409ページ。あともう少しで読み終わる。買ったのが二週間前。コレだけじっくり時間をかけて読むというのも久しぶり。一つ一つ取り上げられているテーマは面白くとても参考になる。今はアウグスチヌスの『告白』に、「散文性の極致」があるというような話をしているのだけど、今日はもういろいろなことを書きすぎたのでこの本の面白さを書く感受性が足りなくなってきた。っていうか『来世であいましょう』について書いている時点で相当足りなくなってはいる。

一つだけ書いておくと、保坂と友人との会話として引用されていた「神はすでに解明されてるけど、中世の人間から見て、現代人の理解が”解明”とは思えないわけだからね」というセリフがあって、「なんかおそろしいことをいってるな」と余白に書き込みしてしまった。有り得んだろう。しかしそういうスタンスで保坂は語っているのかと思うと入れ込んでた相手がまるで邪教徒だったような気がして一瞬読み進める気持ちを失ってしまったのだが、気を取り直して再度読んでいる。まあここで、自分と保坂との立ち居地の差というか、スタンスの違いがはっきりして、それはそれでよかったなと思う。多分それは小説(散文性)と物語性とどちらを重視するかというような差であり、認識・思考と直感・啓示のどちらを重視するかというような差であり、結局結構自分は神秘主義的な部分が強いと思われちゃうだろうなと思うし、まあそれでも「降りてきたもの」をどう表現するかにおいては保坂の指摘は大事な部分が多いと思うし、まあそんなふうに冷静に考えてみるしかないのだろうなと思う。

何を語るべきであり何を語るべきでないか、そこの認識がやはり微妙に違う。そこにそれぞれ、作家としての立つところがあるのだろうし、やはり誰かとどう違うかということによってしか自分はこうだと言えないのだから、それを確認していくことが大事なことなのだと思った。

"自分で迷信を作ってみる/ジョイス『ダブリナーズ』読了/「来世であいましょう」最終回/何を語るべきであり何を語るべきでないか"へのコメント

CommentData » Posted by kous37 at 11/05/15

爆弾のスイッチ押す前のかぴあの顔は、ファムファタルというより夜叉とか道成寺の後シテの顔というべきだな。

"自分で迷信を作ってみる/ジョイス『ダブリナーズ』読了/「来世であいましょう」最終回/何を語るべきであり何を語るべきでないか"へコメントを投稿

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