パリーグが面白い/本に対する情熱がよみがえってきた
Posted at 11/05/10 PermaLink» Tweet
今日は朝から泣き出しそうな空。気温は低くはないが半袖でいると寒い。でもズボンは面でも足が汗ばむ感じがある。温度調節の難しい季節がやってきた。
朝起きたときには頭の中に空想というか妄想のようなものがあったが、それが本当なのかどうなのか確かめようとした時点でどうも妄想臭いなと思いだし、ネットで調べてみたら何のこと?みたいな感じになっていた。ま、いいでしょ。
きのうの午後に集中してブログを書いていたら、会う約束がキャンセルになったのでさらに『小説の自由』を読んだり『ダブリナーズ』を読んだり。6時半になって出かけることにした。しかしこの時間になるといける場所が相当限られる。さてどうしようかと思って団地の中を歩いていたら普段月曜日は閉まっている自然食のパン屋が営業していたのでそこでジャムとパンを買った。地元の文教堂まで歩いて本を物色しているうちに、面白そうなものがいくつも見つかる。この感じが久しぶりだなと思う。
暗夜行路 (新潮文庫) | |
志賀直哉 | |
新潮社 |
結局買わずに店を出て、地下鉄で大手町に出て、丸善へ。文教堂で見て面白そうだと思った本を二冊買う。一つは前日から買おうとは思っていた志賀直哉『暗夜行路』(新潮文庫、1951)。やはり文章の呼吸というか、そういうものを読みたい気がして。それから大坪正則『パ・リーグがプロ野球を変える』(朝日新書、2011)。最近のパリーグの躍進には眼を見張るものがある。それを、2004年の近鉄の撤退、1リーグ制議論、楽天かライブドアかの問題、「たかが選手が」発言、そして初の選手会ストライキという過程を経てパリーグが蘇っていく道筋が描かれている。ちょうど日本ハムがフランチャイズを北海道に移し、楽天が仙台へ、そして福岡ではダイエーがソフトバンクに球団を譲渡して、生まれ変わった印象があったがそれは印象だけでなく、パリーグはどんどんよくなった。
パ・リーグがプロ野球を変える 6球団に学ぶ経営戦略 (朝日新書) | |
大坪正則 | |
朝日新聞出版 |
もともと熱心な地元ファンのいたロッテ、親会社の低迷によって落ち込んでいたものの復活を見せてきた西武、そしてまだこれからだが新しい力の伸びてきたオリックスと、パリーグの球団はどこも面白い。それをちゃんと取り上げた本を今まで読んだ覚えがなかったので、いろいろ面白いと思って読んでいる。現球団ではロッテが一番古いというのもいわれるまで気がつかなかった。確かに私がプロ野球を見るようになったときには既にロッテはあったが、あとは東映・南海・阪急・近鉄・西鉄だった。今昔の感がある。現在80/236ページ。
ダブリナーズ (新潮文庫) | |
ジェームズ・ジョイス | |
新潮社 |
『ダブリナーズ』は「アラビー」読了。いい。『小説の自由』は163/409ページ。この人の小説観というのは他の本も何度か読んだことはあったけど今ひとつよく分からないところがあったのだけど、この本は薄紙をはがすように小説というものの本質的な面白さがどこにあるのかというのを明らかにしているところがあって、とてもスリリングだし納得できるし面白い。「アラビー」のどこがいいかというと、これも言葉にすると規定しきれずもったいない感じがするわけで、その感じがなぜなのかうまく言えなかったのだが、小説というものには読み終わると遠のいてしまう高揚感がある、という保坂の指摘でそういうことかと思った。読んでいると気にはこれはアレかなとかそうそうああいうこともあるとか、頭の中をフル回転して読んでいるから、読み終わってしまうとあれ?なんだっけ、ということになるのだ。つまり読み終わったときには既にその小説から遠ざかり始めているから、それを描写することなんかもともと無理なのだ。車窓から見えるビュんビュん飛び去っていく電信柱をスケッチするようなものなのだ。でも最後に自己嫌悪によってそれまでの我慢や努力や工夫が全部アレになってしまう苦さみたいなものには苦笑せざるを得ない。物事は物事そのものとしてあるのであって、人間はそれに感動したり苦笑したりは出来るけど自分自身のことでさえ近づけば悲劇でも遠ざかれば喜劇であるというようなものなのだ。ジョイスの視線は遠ざかったり思いがけず至近距離でそれを見せたり、そこが面白いんだろうと思う。
小説の自由 (中公文庫) | |
保坂和志 | |
中央公論新社 |
きのう、『小説の自由』を読んで能動的に文字に書かれていることを想像しながら読むことで小説が格段に面白くなることを知った、というようなことを書いたが、それは今現在の実感としてそう思ったのだけど、読んでいるうちにこの感じはもともと自分が持っていたのにいつの間にかしなくなり、出来なくなり、分からなくなり、忘れてしまっていたことだということに気がついた。もともと私は本をそんなふうに読んでいたのだし、だからこそ子供のころから本の世界に熱中していたのだ。簡単に言えば私は、『本を読む楽しみ』を気がつかないうちに失っていたのだ。最近の自分は、書かれていることが「心の鏡」にどう映るか、というような受身の読み方しかしておらず、それで心に残るものだけを好んで読んでいたのだということに気づく。
それはなぜなんだろということを考えて見たのだけど、おそらくは、「言葉」というものに対する深い不信にとらえられていたのだろうと思う。それは今でも皆無というわけではないけれども、特に教員時代の経験、生徒の言うことも同僚のいうことも上司の言うことも教育委員会の言うことや文書も世間の言うことも報道の言うこともドラマなどで表現される学校も何もかも意味がない、馬鹿馬鹿しい、真実なんかどこにもない、あったとしても醜いつまらないものばかりだと感じていた頃に、言葉に対する信頼が壊れてしまったのだなあと思う。王様と言う存在さえ知らない子どもたちにフランス革命を教える一方で大学院ではものすごく抽象的な議論をする、というような言葉に関する現実感をどこに持てばいいかというような状況も大きかったなと思う。本を読んでもそのレジメも全然普通に書けず、授業での報告でものすごい長大なものになってしまったり、言葉の一つ一つが全然手ごたえのない偽者のように感じていたことを今書きながら思い出した。
でもものを考えること、自分のことを誰かに、あるいは自分自身に理解してもらうためには言葉を道具として使うしかない。だから信じられなくてもずっと言葉を使い続け、信じられなくてもずっと言葉で世界をつくろうとしてきた。それは回りを振り回すことにもなり、今思うといろいろ申し訳ないことが多かったと思う。1999年にウェブ日記を書き始めてからも何度も中断したり書き方を変えたりがたがたしてきたのも結局はそういうことだったなと思う。しかしそうやって来たからこそ今ようやく自分がここにこうしていられるのだなと思う。何も書かずにいたらわたしはどこに行ってしまっていたか分からない。実際だいぶ変なところにも行った気はするが。
『小説の自由』で保坂はその「現前する表現」の問題に入る前に「私=自我=心」の問題について書いているけれども、その彼の言う三島由紀夫的な「鬱陶しい私」の問題に、私自身が相当、というか文字通り心の底から囚われていて、だからこそこういううおんうおんと自分のことばかり書くようなブログを書き続けてきたのだなと思う。つまり、自分を何とか保ちたいという思いからだけでなく、小説とは「私」を書くものだというその規定に自分自身が雁字搦めになってきたということなんだなと思う。
自分自身の心の鏡に映すような読み方、というのもそのあたりのところから来ているのだなと思う。すべての文字、すべての書かれていることを心のレベル、自我のレベルで引き受けてしまうと、ものすごい嫌悪感が刻まれたり、端から拒否したりということが起こる。そういうことはあまり少年の頃にはなかったことなのでこれが年を取ったということなんだろうかと思ったりもしていたのだけど、そうではなく書かれていることに対するスタンスの取り方の問題なんだと思った。こちらから積極的に想像していく読み方をすれば、馬鹿げたどろどろしたものを読んでも噴き出すくらいで済んでしまうし、面白くなければやめてしまうだろう。以前もたとえばそれこそ三島由紀夫を読んでいて心で受け止めすぎてそれ以上読めなくなるというようなことは実際にあったことはあったけど、まあ読みにくいものを無理して読むこともないのだ。
読む楽しみというのは結局そういう能動的な読み方にある。それは文字や言葉を道具として使い、道具として大事に使うことであって、それにとらわれたりそれに頼ったりすることではない。頼るから信じるの信じられないのという問題が起こるのであって、使い方が問題なのだ。
いままで自我の問題に囚われすぎていたから、小説というものをそれを通してしか見られない、考えられないところがあったけれども、保坂の言うように文字に書かれたことを能動的に想像してその情景を目の前に現前させることによって始めて表現が成り立つ、という、小説とはそういう表現形式なのだというレベルに立つと、小説もまた他のジャンルのアートと全く同じものとして取り扱えるんだということが分かって、すごく嬉しくなった。自分の中で、小説だけが違うものであるなら、他のアートを捨てなければいけないのかなあという無意識の淋しさがあったからなんだなと思う。自我を描くという特性がなくなる訳ではないにしても、他のアートと同じようにある意味物質的なものとして小説をとらえることが出来るなら、見なければいけない方向性のようなものが分裂せずに済む。それは自分にとってはとても救いになることだ。
まあそんなこんなで、本に対する情熱が蘇ってきたことで、本屋に行くと面白そうな本ばかりという状況が久しぶりに出てきたことはとても嬉しい。言葉に対する不信感はゼロになったわけではないけれども、言葉を道具として信頼して大事に使い、それに賭けることによってしか生きていけない。言葉の怖さというものもまた自家薬籠中のものとして収められるようになったら、より素晴らしい文章を書けるようになると思う。頑張りたい。
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