小説について考えると言うこと

Posted at 11/05/08

昨夜帰京。帰り地元の駅の文教堂により、ジェームズ・ジョイス(柳瀬尚紀訳)『ダブリナーズ』(新潮文庫、2009)を買って帰る。これは帰りの特急の車中で読んでいた保坂和志『小説の自由』(中公文庫、2010)に出てきて面白いかもしれないと思ったので。ジョイスといえば難解で有名だが、私がわずかに読んだことがあるのは、高校のときだったか英語の教科書か何かで出てきたユリシーズの断片で、それは特に分かりにくいと思った覚えはなかったのだけど、『小説の自由』に引用された「死者たち」の一節もそんなに分かりにくいとは思わなかったので、何とかなるかなと思って。今のところ読んだのは最初の「姉妹」のお終いまでと最後の「死者たち」の途中まで。保坂の示唆により、映像を思い浮かべながら読むと自分だけの洋画劇場が展開してなかなか面白いかもしれないと思った。ダブリンの町の風景が私が想像しているものと同じかどうかは分からないが、文字面を追うだけよりは字幕付きの映画を想像して見たほうが面白いと思った。

ダブリナーズ (新潮文庫)
ジェームズ・ジョイス
新潮社

「姉妹」、最後まで読んであれ?と思う。何を言いたかったんだこの話は。みたいな。まあ、向こうの小説は落ちがよく分からないことがよくあるのでそういうものかなとも思ったが、やはり発狂してたらしいよ的なラストは、受け取り方によっては衝撃的なことなのかなとか一応思ってみるが、ちょっとしっかり腑に落ちるわけではない。まあビートルズの歌詞とかもノルウェイの森とか結構難解だったりするし、謎を謎として読んでおくのもまあいいかもと思った。映像はきれい。(私の中のものだからお見せできなくて残念だが)

小説の自由 (中公文庫)
保坂和志
中央公論新社

保坂和志『小説の自由』78/409ページ。思ったより面白く、読み易い。いろいろな小説が引用されていて、勉強になるなと思う。最も印象に残っているのは「まえがき」の冒頭の一句、「私にとって小説とは「読む」もの「書く」ものであると同時に「考える」ものだ。私は読んだり書いたりする以上に、小説について考えることに時間を使っている。」という言葉だ。このことは最初に読んだときにはあまりぴんと来ないのだが、読みすすめているうちにとても重要なことを言っていることがだんだん分かってくる。

私が芝居をやっているとき、演出と話をしていて、「24時間芝居のことを考えていれば絶対うまくなる」ということを言われたことがあり、実際その頃は本当に芝居のことばかり考えていた。下手をすると彼女と同衾しているときも芝居のことを考えたりしていたわけで、あのころの経験が自分のものを作るときの感覚の土台になっているなあと思う。

それに比べると、今の自分は小説を書く時間も限られているし、読む時間も限られている。それに、考えると言っても自分の作品のネタのことばかり考えているだけで、あまり発展性がない。芝居をやっている頃は、とにかくがんがん芝居を見に行ったし、映画も見に行った。芝居も小劇場だけでなく商業演劇も舞踏も歌舞伎もバレエも見に行った。映画は参考になりそうな、という意味でヨーロッパ映画が中心だったが、ギリシャやグルジアや韓国や、芸術映画といわれたものは見られるものは何でも見に行った記憶がある。それに比べれば、今は小説を書いていると言ってもそれだけ浴びるように小説を読んだり考えたりしているかというと全然足りないなあと思ったのだった。実際何作か書いてみると、自分の書けることのストックがあまり多くないというか、書きたいと思ってもうまく書けないなこのジャンルは、みたいなものがあまりに多い。芝居の戯曲なら書けるのになぜ小説は難しいのか、いろいろ考えていたのだけど、それもこの本を読んで解決した。

小説というのは、芝居で言えば単なる台本ではなく、演出も、役者の演技も、舞台装置も、全部やらなければいけないのだ。台本はラフスケッチというか、少なくとも私のやってきたやりかたでは大まかなことを定めるだけで、細部まで書き込むのは演出や役者の演技の役割というスタンスで芝居を書いていたから、小説ではそれに比べると桁違いの書き込みが必要になるのだということが分かってきた。結局、何も調べないでそれだけ書き込める場面など、そんなにたくさん持ってないから、書ける場面が限られてくる。また想像上の世界でも、設定が甘いとすぐわからなくなってしまうから難しいのだ。舞台出身のせいかどうしてもそこに既に舞台があり、役者がいるという前提で考えてしまうのだけど、小説はどんなものでも出せるだけに逆に自分の中でははっきりしている人間も書かなければ小説内には現れないわけで、やはり書き方が全然違うんだなと認識させられた。だからその書き方のストック、バリエーションというのはやはり小説を多く読んでいることが必要になるんだなと思う。自分の書いているものと直接関係ないようなものでも読んでおけば何かしら反映されるものがあったりする。そして読んだ小説の場面を反芻したり、あるいは鮮やかに想像したり、場面を説明する言葉を繰り返したりすることがいかに大切かということがわかってきた。やはり絵を分かろうとしていた時期は手当たり次第に絵を見に行ったし、音楽を知りたいと思った時期にはとにかく曲を聴いたわけで、小説を知りたければとにかく読むしかない。そして考えることが大事なんだとあたりまえのことを再確認できた。

小説について考えるというのは結局は、どんな小説が面白いのか、あるいは小説の面白さとは何かということを考えることで、今まで読んだ中でもいくつも保坂はテーゼを示していて考えさせられる。一つは、今の日本の小説は三島由紀夫的な「大仰な、押し付けがましい『私』性」にいまだに強く呪縛されているということ。これは私もときどき感じることがあって、自分の小説にあまり強く「私」への言及を求められて戸惑ったことがある。これはそういうものではないのになと思ってもうまく説明できなくて、困ったり。保坂によれば、「大仰なことが文学だと思っている文学信奉の編集者」というのがいるそうで、ああ、そういうものがいまだに文学の世界では強く残っているんだなあと再認識させられたりした。まあ自分へのこだわりというのはもちろん私の中にもないわけではない、というかこのブログなど自分への大こだわり祭りなわけだけれども、でもそのこだわり方もやはり文学の主流?とはだいぶ違う感じがするなあとは思っていて、まあもっといろいろありなんじゃないかという意見には安心する。

それからなるほどと思ったのは「小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類はどうなるのかと言えば、その運動の中にある。」という指摘だった。これは分かり易い。絵画でも、画面の中の視線の運動を作り出すのが構図というものだが、やはりこれには共通のルールがあって、絵は見慣れてくると自然に見ている気がしてくるけれども用意された文法に従って見ている。だから文法が滅茶苦茶な絵はどう見たら言いのかわからず混乱する。もちろんそれが斬新な面白さを生み出している場合もあってそういうのは嫌いではないけれども、なかなか評価されにくい。つまり、絵画は構図によってその視線の運動、感覚の運動を作り出し、映画はアングルやロングやパンによってそれを作り出すし、舞台では演技の遠近法や照明や音楽によって感覚の運動を作り出すわけだけど、小説ではそれを全部文字でやるというところに面白さがあるというわけだ。

その例として上げられているのが志賀直哉の『暗夜行路』の一節とチェホフ『子どもたち』の一節で、『暗夜行路』では視線の流れの本筋と、その周りにちりばめられた装飾的な風景の対比によって雄渾な描写が行なわれ、それが「文章のうまさ」というものだと考えられていて、それはそれでよくわかる。それはそれでよく分かるのだけど、でもやはりそれだけじゃ物足りないということもあるわけで、チェホフは逆にその本筋の雄渾な描写ではなく、一つ一つの細部に注目しないと全体が見えないような描写になっていて、またそれはそれで面白い。たとえばヌーヴェルバーグ以後の映画が本筋よりもわけのわからない細部の描写がすごく魅力的になってたり、一見無意味なカットのはさみ方によって生理的なリズムを生み出したりするのによく似ている。

『ダブリン市民』の「死者たち」もまた前半の燥狂的な場面と後半の静寂の場面の対比によって感覚の運動を作り上げている例として取り上げられていて、ああそういうふうに考えると小説も楽だなというか、まあ魅力的だなというふうに思った。

ただ、やはり自分というものに入っていかないと面白くないと思っている面もまた自分の中にはあるわけで、その両者をどう折り合いをつけるかというのも取り組むべき一つのテーマだなと思ったのだった。

そういうわけで『ダブリン市民』も読んでみたいし、『暗夜行路』やチェホフの短篇集も読もうと思ったり、いろいろなことを考えた。

今日は疲れが出て朝から何度も寝たりおきたりして、結局6時ごろになって出かけた。ついキャンディーズの回顧番組など見てしまったせいもあるのだが。日本橋の丸善に出かけてモーニングページ用のノートを買い、本をいろいろ物色。『暗夜行路』も手に取ったがどうも気が重くなってきたのでやめて、結局昨日読んでいたやなせたかし『人生なんて夢だけど』に出てきた村山槐多の詩集を買った。村山槐多『槐多の歌へる』(講談社文藝文庫、2008)。それからカフェに行ってハヤシライスを食べて、詩集を読む。読みながら、私は、自分がどういうものが好きなのか、いいと思うのかということを再度考えた。

槐多の歌へる 村山槐多詩文集 (講談社文芸文庫)
村山槐多
講談社

「青色廃園」という詩。「我切に豪奢を思ふ/青梅のにほひの如く/感せまる園の日頃に/酒精(アルコール)なむる豪奢を。」の色彩の鮮やかさ、華やかさ。「四月短章」の一節「血染めのラツパ吹き鳴らせ/耽美の風は濃く薄く/われらが胸に迫るなり/五月末日日は赤く/焦げてめぐれりなつかしく」心の奥に入ってきたり、出て行ったりの言葉の運動。字面の華やかな言葉をどう使うか、ということをまた考えさせられたし、こういう言葉をうまく使いこなしたいと思った。

メゾンカイザーで天然酵母パンを買って帰宅。

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