四十代の結婚を男が書いたらどうなるか/「日本画を考える会」と「テクニックの希求」/アンパンマンのマーチとか18世紀のオーボエとか

Posted at 11/05/03

昨日は深夜にブログを更新。まとめてたくさんのことを書いたのでなんだかばらけているが、いくつも面白いテーマが散在していた。一つは40代のトラウマを乗り越えての結婚という話で、これは今朝気がついたのだが著者ご本人からコメントをいただいていた。既にそれに気がつく前にきのうのブログに感想を書いたのだけど、先にコメントに気がついていたらもう少し詳しく書いたかもしれない。

電撃結婚への道
藤本チカコ
PHP研究所

私などのブログでも、著者ご本人からのコメントをいただくときがときどきあって、これは書いていてなかなか励みになる。やはりそうなんだなと思うけど、作者というものは自分の作品を世の中がどう受け入れてくれているかというのは気になるところなのだ。『電撃結婚への道』は大変面白かったし、ご本人としてはご主人の生態を書く作品にしたかったそうなので、ぜひ次回作はそういう方面も挑戦されたらいかがかと思う。

このテーマ(40代同士の結婚)の作品は尾形未紀『四十婚』についで読んだのは二作目なのだが、やはり奥が深い話になるんだなと思う。尾形さんの方は他にもたくさん作品を出されているからかそういう「きつい」部分に関してはさらっとした印象があるが、この二作ともご主人の方がバツイチでご本人が初婚というのも何かの偶然だろうか。あるいはそういうポジション(というか境遇)が書きやすいということもあるのかもしれない。私もバツイチでいまのところ再婚計画は進捗が見られないが、これらの作品は参考になるだけでなく人生の深みを知るのに役に立つなと思う。

四十婚 アラフォーではじめての幸せ結婚式 (BANBOO ESSAY SELECTION)
尾形未紀
竹書房

こういう作品を男が書いたらどうなるだろうか。藤本さんが書いているように、やはり男のプライドが邪魔をしてなかなかうまく書くのは難しいんじゃないかという気がする。変に格好つけたり回りに気を使ったり、あるいは本音を書いても女性の本音は読者に受け入れられやすくても男の本音は拒絶されやすいという傾向もあるから、なかなか書き方が難しいのではないかという気がする。まだ見たことはないが、どんな感じになるんだろうか。もし自分がうまく行ったとしてもそういう体験談として書きたいかというといやあ書くとしてもなるべくさらっと書きたいなと思ってしまうし。結果、こういう本の読者は女性が多いとは思うが男でもまだまだそういう計画を持っている人はいるはずで、そういう意味で男から見ても参考になる作品だと思う。

***

そうそう、書くのを忘れていたけど、私のブログは作者からのコメントをもらうことはときどきあるのだけど、編集者からのコメントはいただいたことがない。そういうものなんだろうか。

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中野ブロードウェイ、Hidari zingaro「日本画を考える会」。この企画はもともと村上隆氏が日本画の意味、意義、社会に対するコミットメントを考えようということで若手の日本画の作家たちに呼びかけて実現したもののようだ。昨日も書いたが、実際に展示された作品群について村上氏は「悪い意味で主題が全く見えない」とコメントをしているので、それを踏まえて見させてもらったのだけど、確かに見た限り、主題というものはあまりよく分からなかった。特に、なんとなくほのぼのとした感じがいい絵だなと思ったものが実は重いテーマを描いていたということを後で知ってびっくり仰天したりして、ちょっとさすがに掘り下げが浅いんじゃないかと思わざるを得なかった。他にも自己満足だと感じられる作品や小奇麗にまとまっているが、だから?という作品などがあり、どうしてこういうことになるんだろうと思ったり。

昨日のブログに簡単に感想を書いたので村上氏にツイッターでそれをお知らせしたら、「丁寧に展覧会、観てくださってありがとうございました。展示作品のダメさの一つに「テクニック」への希求の無さがあげられます。本来日本画の素材は扱い方が難しく、素材をコントロールするのに四苦八苦なはずなのですが、その辺無視。これ、僕らの世代の前の世代のモードなんです。」という返信をいただいた。

それを基に考えていてちょっとわかったのだが、確かに「テクニックへの希求のなさ」というのは大きな問題だと思った。若い頃はどうしても頭でっかちなものを作りがちで、それは別に今の若者に限ったことではなく、そうなってしまう一つの原因はテクニック不足にある。年を取ってくると逆に悪達者というか出来ないことをしないで適当に稼げる絵を描いたりする次元に陥りがちなのだが、これは要するに両者とも「テクニックへの希求のなさ」、つまり勉強をやめず、稽古を怠らず、描ける範囲を広げ、その表現の可能性を広げるための基になるテクニックを追い求めるという「画家としての基本、初心」が足りない、欠けていることに問題があるわけだ。

だいたい人間というものは大人になってから「あの時もっと勉強しておけば良かった」と思うものだが、本当はそのときからでも勉強はすればいいのだし、やめてはいけない。釈迦は死ぬまで瞑想していた訳だし、イチローも工藤も絶対に練習を怠らない。甲野善紀氏の文章など読んでいると、稽古というものが実現する可能性の凄まじさというものについて身震いさせられる。

もちろん大人は仕事をしなければ行けないし、仕事が忙しいと勉強している暇はない、ということになりがちなのだけど、目の前の仕事に終われているうちに世の中の動きについていけなくなってしまうような人はだんだん仕事の面でも満足にこなせなくなって行く。
ビッグコミック連載の「憂国のラスプーチン」(佐藤優原作)の第17話にこんな件がある。東大で学生たちに講義する憂木(佐藤)は、「エリートとは国や社会に対し責任を背負い、その意味を自覚して権力を行使する人だ」という。そしてなぜ日本にエリートが少ないかというと、「激務のせいで勉強をやめてしまうからだ」という。そして入省から十数年後の外務官僚たちはキャリア職員は過度に尊大に、専門職員は異常にいじけてくるのだという。それは、「自分に自信がなくなってしまう」からだと。なぜそうなるかといえば、それは「勉強をやめてしまうからだ」、というわけで、これは全くなるほどなあと思った。自信の裏づけになるのは勉強しかない。それは画家にとっては「テクニックの希求」というひとことに収斂される。このマンガ、最初は『国家の罠』のコミカライズに過ぎないと思っていたが、案外いけてる。扉に原作・外務省のラスプーチン佐藤優、作画・ホラー界のゴーゴリ伊藤潤二、脚本・漫画界のイワン雷帝長崎尚志とか書いてあってちょっと悪ふざけしているのだけど、結構侮れないと思った。

憂国のラスプーチン 1 (ビッグコミックス)
伊藤潤二
小学館

話を元に戻すと、やはり私なども影響を受けているところがあるけれども、テクニックとか勉強とかを軽視する世代があった。それを村上氏は「ぼくらの世代の前の世代のモード」と言っている。これはいろいろな分野を十把一絡げには出来ないが、おおむね団塊世代、68年の世代を中心とする、勉強・技術・テクニックを否定・軽視し、問題意識のみを肥大化させたあの世代、あのムーブメントのことを指しているのではないかと思う。その発想が「ゆとり教育」につながったような。われわれの世代も受験地獄の否定と言った形で明らかに影響は受けているのだけど、今の世代はそれがかなり徹底していることは確かだろう。確かに68年の世代には前衛的な新しいものが多く出てきてはいるのだけど、テクニック的な新しさというのがどれほど出てきたかというとなかなか難しい気がする。当時はしかしその奇想だけで十分評価に値したのが、今はその奇想もなかなか新しいものを出すのは難しいというのが現状だろう。何をやっても誰かがやったものに似ている、というのはある意味遅く来たものの宿命だ。

そしてそれが村上氏が「マンガが日本画の新しい方向性のヒントになるのではないか」とするテーゼにつながっているのだと思う。「絵」においても「アニメ」においても「表現」においても、われわれの世代が読んでいた作品から後の時代のみを考えただけでも、その進歩・発展は著しい。その精密さ、構図、マニエリズムの進行度、徹底的に時代と寝る能力と徹底的に時代に逆らう能力と、その両者から生まれる時代を切り開く力。巨大な量の才能がつぎ込まれ、膨大な作品群が生み出され、それはゲームやアニメーションの形でさらに発展して行った。宮崎駿作品の先鋭度は「ナウシカ」から「もののけ姫」、「千と千尋」へと加速度的に深まって行き、なお凄いことに劇場動員数さえ実写を凌駕したのだ。それは明らかに宮崎駿の作品に賭ける執念がアニメーターの技術や手数、単純に言えば原画数を膨大なものにしたことによって達成されていった、まさに執念ともいえる「テクニックの希求」の賜物であったことは間違いないわけだ。

それはある意味、従来日本画に注ぎ込まれてきたパワーがそちらの方に行ってしまったということなのかもしれない。村上氏のスーパーフラット理論で言えばマンガやアニメこそが新しい日本画なのかもしれないと思う。

しかし大衆娯楽を最終目的としたマンガやアニメではなく、ハイブロウなアートシーンでの評価を必要とするアート作品として、日本画家が修練を積んで行くべき方向の一つとしてマンガがあるのではないかというテーゼはそれはそれで分かると思った。それが好まれるかどうかは別として。しかし立ち枯れていく日本画の新しい可能性としてそういうテーゼが持ち込まれたことによって議論が活発になれば、断固としてそういうものを排除したい人たちにとっても強い刺激にはなるのではないかと思う。

***

やなせたかし「アンパンマンのテーマ」。今まであまりちゃんと聞いたことなかったけど、被災地で歌われているということを聞いて聞いてみたらやられたと思った。

なんのためにうまれて なにをして 生きるのか
こたえられないなんて そんなのは いやだ!
今を生きる ことで 熱い こころ 燃える
だから 君は いくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ
わからないまま おわる そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ どこまでも
そうだ おそれないで みんなのために
愛と勇気だけが ともだちさ

『耳をすませば』に出てくる『カントリーロード』の歌詞もそうだが、日常の虚実皮膜が破られて生きていくことが最大のテーマになったとき、本当に必要とされる歌というのは日常の場面では本当にシンプルなものとして埋もれている歌なのかも知れない。

***

今朝「クラシック倶楽部」でやっていた三宮正満の18世紀のオーボエがとてもよかったのだけど、中でも三宮が楽器製作者の協力を得て18世紀のオーボエを再現していく、その工房の様子を見られたことはとても印象深かった。楽器演奏者にとってオーボエは道具なのだけど、自分の理想の音を求めて100分の1ミリの単位で指穴を削ったりしていく過程を経て「道具」が「楽器」になっていく、という話にとても感動した。確かに自分の文章が、推敲する過程において「文章」から「作品」に、さらに「小説」になっていくという実感を感じることがある。私もまだまだなので、稽古を繰り返し、文章を書き続けて、自分の書きたいものを書くために、さらにテクニックを希求していきたいと思う。そういうことを心の底から思ったのはほんと昨日今日のことだ。一生勉強とよく言うけれども、勉強をやめない限りは進歩する。死ぬまで進歩したければ、一生勉強するしかない。そしてそういう人生こそが、生きるに値する人生なんだろうと思う。

と書くと固くなるので蛇足を書けば、それは放蕩家の人生でも多分同じで、遊びにおいても何か追求すべき、身につけていくべきものはあって、目を養ったり舌を養ったりそれがエレガントに行なわれていかなければならない。そういう意味では遊びをより楽しむためにも「勉強」は必要なんだと思う。とまあそんな話で。

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