今週の「とりぱん」/たましいの食べもの/生きかた・死にかた

Posted at 11/04/14

自分も足りなくて、人も足りない。そういう時は本当にそれがなければ生きていけない人に譲らなければならない、というような夢を夢うつつのうちに見た。

こころというか、たましいというものの用い方、といったものがある、と思う。ここのところそれを考えさせられることが多い。もともと、友達が危ない状態のときは何か自分が出来ることを、と思って動くことが多かったのだけど、人の力に何となくでもなっていると、何となくでも守られている、その時は気がつかなくても、あとにってそう思うことがある。

今日は木曜日。朝から天気がいい。こちらはまだ桜は咲いていないが、木瓜や木蓮はもう咲き始めている。水仙のような草本も咲いているし、雲霞が出たり蚊柱が立ったり、春の虫たちの動きはもう始まっている。

今朝は6時前に目が覚め、モーニングページを書いて、車を走らせてファミマでモーニングを買い、職場に出て段ボールや古本を出した。職場に車を止めて湖まで歩く。街角の花や、湖畔においてあるSLや遊覧船、浜に群れる鴫や鴨たち。波立つ諏訪湖の向こうにくっきりと白く北アルプス。光は明るい。

モーニングは、「ピアノの森」の連載が再開。しかも巻頭。中断していたストーリーを再確認するような流れ。次は「ジャイキリ」。ついに呼ばれた。とばして「ReMember」。すごい話になって来た。しかし何と言っても今号は「とりぱん」。おそらくは岩手県の内陸部に住む作者の、震災の記。津波の押し寄せた、おそらくは釜石の街に戻る、おそらくは教員の作者の兄。エサがないと怒る鳥たちとの会話。失うものがない日常を生きる鳥たちと違う人間の弱さ。それでも何かを取り戻すために役割を務める人々。「私はまた普通の日常を描いていこう 失われた町の楽しかった思い出を 空や山や海だって 私たちの強さ弱さとは関係なく 世界はいつでも美しいということを それが私の役割だと思うから」震災三日目に、画像データの形で送られた原稿なのだという。前号で4枚、今号で6枚のひと続き。涙が止まらない。

「グラゼニ」面白い。「レンアイ漫画家」うーん。「う」。大阪の鰻。へえ。「デラシネマ」現実。「ひらけ!駒」負けて悔しい、勝って嬉しい駒せっけん。「島耕作」復興への決意。「神の雫」。うーん。「誰寝」。久々のバラ話。なんかいい。

***

先週末、東京にいるときは、ずいぶん何度も余震があった。不調のことについて話しているうちに、それはこころとかたましいの問題だなと強く思って、心を強く持てる方法についていろいろやってみたりした。好きなもの、気持ちのいいもの、気の晴れるものを買う、というのをやってみたりしたのだけど、そういうときにそういうものに「たよる」と「弱くなる」のではないか、という気がした。もともと人間は「こころ」とか「たましい」というものを持った存在であるのだし、傷つきやすい人間でも本当は自分で自分のこころを守る力は持っているはずだ。

まあそれはそういう「好きなもの」「気持ちの良いもの」を「薬」にたとえた場合なのだけど、そうではなくて「好きなもの」や「気持ちの良いもの」は「食べ物」なのかもしれない。まあそうかな。そういうものは「食べ物」で、たとえば何かの「お告げ」とか、「占い」とか、あるいはオカルトとかそういうものが「薬」なのかもしれない。食べ物は食べ過ぎなければ体をつくるのに役立つようにこころを明るく強くするだろう。でも薬ばかり使っていてはあまり健康的とは言えない。まあその辺微妙で、医食同源という言葉があるように、どこまでが薬でどこまでが食べ物なのかというのは区別がつけにくい部分もある。逆にいえば、それに触れていると元気になるとか心が強くなるとかいうものは「食べ物」で、一時しのぎの慰安にすぎずその時はよくてもだんだん困った状態になっていくのが「薬」なのかもしれない。お酒なども、楽しくて飲んでいるうちはいいが、淋しさを紛らわすために飲んでいるのが習慣化してしまったりするとあまりよくないわけで、心だけでなく体にも悪い影響が出てきたりするわけだ。

私が小説を書くというのも、そういう「たましいの食べ物」を作ろうということなのだなと思う。食べると心があったかくなったり元気が出たり、あるいは頭に来てこころが活性化したり、自分を信じて一歩踏み出す勇気が出たり、動かなくなっていたこころが少し喜んでまた動いてもいいかなという気持ちになったりするような小説を書きたいと思う。こころにとって、良い食べ物を。

霊的なもの、というのは結局、そういうこころとかたましいに関すること、ということなのだと思う。それをスピリチュアルと言ってしまうとある種の特定の雰囲気を持ってしまうしさす内容が限定されてしまう感じがする。大澤信亮は霊的と言わず神的という言い方をするが、これはそういうこころやたましいに関することに高い倫理性とか愛とか慈悲とかの高い価値を加えて言っているのではないかと思ったりした。

私は父が生きているとき、特に父の引退前の何年かはことごとにぶつかっていたのだけど、それは物理的なこととか実務的なこととか、あるいは思想面でも方法論的な部分に関してであって、その向こうにある霊的な世界(何を理想とするかとかそういう意味でこの言葉を使っているが)ではかなり共感できる、しているんだなと最近思う。物理的に衝突するのは父と子の宿命みたいなものだが、案外似たようなことをするという意味では共感性はかなり高いのだろう。

しかし父はやろうとしたことをやりかけでずいぶんたくさん残してくれて、その整理が追い付かない感じがする。こっちだって忙しいのにそんなことに付き合ってられないよ、と思うのだが、ある程度整理しておかないとちゃんと成仏しない感じもあり、不平不満をたらたらいいながら少しずつ片づけている。私が死ぬときは、思い残すところがないようにしておくことが理想だな。やりたいことは全部やった。欲しいものは全部手に入った。伝えたいことは伝えられるだけ伝えた。そんなふうにして死ねたらいいなと思う。後のことは後の人に任せて、それまでやれるだけのことはやっておく。まあそういう意味ではまだまだ全然死ねない。今死んだら自分がどういう人間だったのか、全然わからないままになってしまう。存念を残さないようにやれるだけのことはやりたいと思う。

まあ死に方はその人のタイプだ。いろんな死に方をする人がいるけど、もし自分の死に方が選べるならそういう死に方が理想だし、それはつまりそういう生き方をするということだから、死ぬまでの間はそういうふうに生きて行きたいと思う。

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