フリッパーズ・ギターと90年代の欠落/新しい生き方は可能か/小説=ロマン
Posted at 11/04/20 PermaLink» Tweet
昨日帰郷。特急の中でとり・みき『クレープを二度食えば』を読了。後半は70年代後半から80年代前半の作画グループなどの画風というか、大島弓子あたりかな?の影響を受けた森山塔(山本直樹)などの初期の画風もこういう感じだったし、そういう感じの作風で、こういうのもあったなあという感じなのだけど、進研ゼミの中三チャレンジに92年に初出だという表題作は圧倒的によかった。タイムマシンもの、過去にさかのぼることによって起こる因果律のパラドックスを扱っていること自体には時代性というかもう昔のものだなという感じはもちろんするのだけど、そこに描かれている青春の永遠性というか、そういうものには素直に感動させられる。「おたくにはいいおたくと悪いおたくがいるんだぜ」というようなセリフとか、今だとどう受け取られるかよくわからないせりふもあるのだけど、90年代初頭という微妙な時期の微妙な雰囲気のようなものがよく出ているし、1984年からやって来た少女の懐かしさのようなものもとてもいい。1992年は、まだボディコンワンレンが滅んでなかった時代なんだなと思う。
クレープを二度食えば(リュウコミックス) | |
とり・みき | |
徳間書店 |
とり・みきというマンガ家のことを最初に知ったのはいつのことだったか。80年代の後半だったと思うのだがはっきりは思い出せない。芝居をしていたころに「面白い」と誰かが言っていたのをそうなのかと思って『吉田さん危機一髪』を買って読んでみたのだが、当時の自分にはややハイブロウだった感じがする。テンポというか間合いが詰まっていて速すぎるのだ。唐沢なをきなどと笑いの質が似ているし、今ではこういうのもありだなと思うのだけど、当時はよくわからず、結局その後特に傾倒することはなかった。
『クレープを二度食えば』には重要なアイテムとしてフリッパーズ・ギターの曲が出てくる。私はこのバンドの名前自体を知らず、Wikipedia先生におたずねして漸く小沢健二がやっていた渋谷系の元祖みたいなバンドだということを知ったくらいだ。私は渋谷系というものは全く聞いていないので全然知らず、UKインディーズのリアルタイムの影響を受けているとか、今読んで今更驚いたりしている。YouTubeでDolophine Songを少し聞いてみて、やはりこれは自分のよく知らない世界だなと思う。このあたりの曲を聞かなかったためにきっと90年代以降の音楽シーンが全然わからなくなったんだなと言う気がした。取りあえず遅ればせながら、『ヘッド博士の世界塔』をマーケットプレイスで注文してみた。
ヘッド博士の世界塔 | |
フリッパーズ・ギター | |
ポリスター |
しかしこの題名もそうだが、どうも何というか青春の袋小路というか、そんな感じがするなあ。当時の自分が何を聞いていたか振り返ってみると、一番好きだったのは間違いなく戸川純で、あとはYMO系統のものを割合聞いていた気がする。洋楽ではもともとビートルズはずっと聞いていたが、ポール・マッカートニーの新譜は80年代半ばまでは追いかけていた。ああ、ポールを追いかけなくなってから自分の中の音楽思考の幹みたいなものがはっきりしなくなってきたんだなあ…ユーリズミックスは聞いてた。あとは、ディープパープルとかレッドツェッペリンとかの中高生のころ聞いたものの方が、新しいものより好きだったかもしれない。
何というか、90年代って「終わりなき日常」の時代なんだなと思う。バブルは崩壊してもまだ不況は深刻化していない、そういう頃。やはり95年が境目で、時代は暗転して行くけれども、音楽に現れる若者の心情みたいなものはどんどん行き止まりの、袋小路の、出口がない感じになって行っていたような気がするな。そして私は、そういうのはあまり好きじゃなかった。尾崎豊が嫌いだったのもだいたい同じ理由だと思う。戸川純なんかはその行き詰まりが別の形で表現されていたと思うのだけど、ああいうのは好きだった。そして、パープルとかツェッペリンが好きなのは、あの右肩上がり的なハードロックがどんどん伸びて行く時期の明るさみたいなものがどの曲にもあるからなんだろうと思う。あのツェッペリンの飛行機事故も、新たに伝説を加えるだけで、ハードロックはどんどん伸びていろいろな枝葉をつけて行った。へヴィメタとか分化し始めるとあんまり好きではなくなったのだが、やはり初期の明るいどんどん伸びる感じが私は好きなんだなと思う。
ポール・マッカートニーがジョン・レノンより好きだったのはやはり彼の方が音楽というものを信じている、その明るさが好きだったんだなと思う。それが80年代後半からちょっと怪しくなってきていて、リンダが死んだ後のアルバムなんかは聞いていて辛いものがあったなあ。
ああ何かこういうことって書いていても単なる四方山話になってしまう。90年代の自分の中に思い浮かぶ音楽というのは中島みゆきとかサザンとか前の時代から生き残っている人のものばかりで、渋谷系も知らなければ安室奈美恵とかも(もちろん耳に入りはしたが)全く興味がなかった。音楽がただ煩いものに感じられるようになったのもあのころだった。自分にあってない仕事をしているということが世界が理解できなくなった一番大きな理由だったんだろうなあと今では思うが。
私は、自分がしっかりしたものを持ってない人間だなあということを子どものころからずっとコンプレックスに思っていた。だからしっかりとしたポリシーを持っている人に憧れていたし、好きになる人もそういうタイプの人が多かった。逆に近くにいる人でもいろいろと融通のきくタイプの人はどうも軽く見てしまうところがあって、逆にそういうところがその人の凄さなのだということを見落としていたことが多かったなと思う。
だから自分もポリシーを持った人間になりたかった。一番手っ取り早くポリシーのある人間を気取るのは、世の中で流行っているものを否定することだ。自分に自信のない若者はそうやって流行りものを否定して見せてその場限りの称賛を得ることに腐心するものだが、私などはまさにそういう痛さを存分に発揮していたところがあったなと思う。
若いころはそれでも十分時間があるし、自分の好きなものを集めてその中で生活することも可能だった。何しろ時は80年代だったから。でも働きだすと時間はないし、そして世の中は音楽も含めて何もかも変って行く。ムーブメントを作るのが自分の世代でなくなって来ると、世の中が「おい、そっちの方へ行くなよ!」という方向へ動いて行く。過去の上の世代を否定して行きがっていたのが、現在の下の世代を否定して自分をポリシーのある人間のように見せようとするようになって行く。そのころから、新しいものに耳を閉ざすようになって行ったんだな。すがるようにからみつくダニーボーイに耳を塞いで。
でも本当は「耳をすませば」でなければならなかったんだなと思う。自分が嫌いでも嫌いなりに、そういうものが流行る世の中なんだということをもっとつかんでおくべきだったんだなと今では思う。あんまりおもしろくないことで、面白くない仕事をしている身には全くやってられないことではあったなと思うけど。でも時代を生きるということは、その時代の面白さだけでなく、時代の嫌さも引き受けて行かなければならないという面はある。80年代は楽しみ過ぎたのかもしれない。あのころまでヴェールに包まれていた何かが、90年代には釜の蓋が開いた。それは冷戦構造の崩壊であり、バブルの崩壊であり、終末論の崩壊であり、成長神話の崩壊であり、安全神話の崩壊であり、平等神話の崩壊であり、人間は理性的だとか青春は明るいとか言ったさまざまな神話が次々に崩壊して行ったように思う。
自分の外でそういうことが起こっていることが、自分の中にも無意識のうちに反映されていたのかもしれないし、まあ教育現場というのはそういうものの最前線でもあったし、特に底辺校というのは社会の矛盾のようなものがストレートに反映する場所だから、相当きつかった。原発の作業員とくらべるのはいくらなんでも失礼なんだけど、でも社会の矛盾を孤立無援で引き受けているという点においてはおんなじだなと思う。当時アメリカに何度か行ったけど、90年代のアメリカは繁栄を謳歌している時代で、日本よりはるかに明るかったなあ。80年代にヨーロッパに行ったときには日本の方が進歩はしているなと思ったものだったけど。
そして私は1999年に仕事をやめて、世界は2001年に911を迎えて。時代はまた新たに曲がりくねったステージに入って行くのだけど、私は90年代がよくわかってなかったから00年代になるとさらに分からなくなった気はする。
自分が世界に居続けるための努力をしている中で、それが少しでも形に成りだしたのはこの数年だけど、ようやく過去を振り返る余裕が出てきたように思う。過去は振り返らず未来に向かって物を作って行くだけだという人もいるけれども、自分にはそういう方法は取れないなと思う。つまり、自分の生きてきたこの20~30年間を振り返ることで自分が今どういう場所にいるのかをちゃんと確認しない限り、自分が今やらなければならないこともはっきりしないような感じがする。つまり、見落としが多すぎるのだ。この20年の間にも。今一番意識している大きな見落としはジブリ作品なのだが、それだけじゃないな。この20年間子育てをしてきた人にとっては、リアルタイムに子どもが付き合ってきたもの、好きになって行くものを親としてみていて時代の風を感じ取れたという部分もあったんじゃないかなと思う。自分にはそういうものはないから、視点が単眼的になっているなと思う。
***
現代という時代は、枠の中に入りたがっている人が多い時代なんだなと思う。少なくとも80年代は、誰もが枠の中から出たがっている時代だった。いいおたくと悪いおたくという言い方がやはり80年代的な感じがするのはそのせいだろう。今だったらおたくにいいも悪いもなく、おたくはおたくだ、と自分自身でもカテゴライズして終わりになっている気がする。そういう枠を破ろうとしないのがおたくということなのかもしれないが。
世の中の何かに所属するということが昔に比べてすごく困難になってきているから、所属しようという情熱というかバイアスがすごい。就活とか婚活とかも昔なら恥ずかしくて口に出せない言葉だった気がする。だから自分から進んで世の中の枠組みから外れても好きではずれているのではなく入れなかったのだと思われるようになっているし、そういう意味で自分のやりたいことをやりたい人にとってはやりにくい時代だと言えるかもしれないし、逆に自分のやりたいことで生活を立てるためには起業したりちゃんとコーディネートされるためにセミナーに顔を出したりフェイスブックに登録したりとまめな努力をするのが当たり前みたいな感じになってきていて、昔みたいにただ漠然と就職しないで遊んだり放浪したりしてみる、というふうにはならない感じがあって、まあしっかりしていると言えばしているのだがこちらから見ると世知辛いとか夢がないとか思ってしまう時代ではある。枠に入ることを選択した人たちには枠に入らない人たちに対する憧れのようなものがあるから、そういうロマンチックな見方でそういうものを見る傾向はやはりあるわけなのだけど、枠に入らないということはそんなロマンチックなものではないのだよと見せつけているのがたとえば村上隆何かなのであって、そういうのもある種の定番になりつつあるなとは思う。
逆にいえば、生きる上での未開の地、生き方のまだ未開の部分というのはもうほとんどなくなってきたということなのかもしれない。どんな生き方をしてももう誰かがすでに道を開いているというか。学問が新たな研究をニッチを探さなければできないように、誰もやったことがないことをやる、というのは難しくなってきているんじゃないか。
しかし時代は常に新たな展開をしていて、時代に要求されてやらなければならない新しい分野がどんどん出て来るということはあるし、そういう意味では新しい仕事はどんどん出て来ているのだけど、生き方そのものが新しいということがどのくらい出て来ようがあるのかなという気がする。
逆にいえば、何をやるにしてもある程度のマニュアルがあって、それをうまく使えば何とかやれる、という点では昔より好きに生きやすくなっているという点はあるだろう。そういうものの組み合わせた結果として昔では想像もできないような生き方が可能になっているという点はあるが、何というかそれは昔の「枠にはまらない生き方」とか「天衣無縫の人生」というものとはかなり違う気はする。
あ、何か生き方について考えていたりした。びっくり。
まあやっぱりね、なんだかんだ言ってもロマンというものがなければつまらないんだよね、人生ってものは。
と書いてみて思ったけど、『クレープを二度食えば』が面白いのは、結局それなんだなと思った。正直、途中で落ちは見える。半ば職業病のようなものだが構造的に物語を読む癖がついているとそういうものはよく見えるようになるし、今のように「フラグ」を確認しながら読む人が多くなると、そういう意味での面白さのようなものは今の読者にとってはあまり多くないかもしれない。でもなんというか、ここにはロマンチシズムがあるのだ。小説の面白さというのは、結局この現代では成立が著しく困難になったロマンチシズムがいかに成立するか、それをいかに語るかというところにあるのではないかと思う。この話のロマンチシズムの成立の根幹は「8年間待つ」というところにあるのだと思う。そしてそれが1984年と1992年の間だということが――少なくとも私の個人的にはすごく胸がきゅんとすることなのだ。
「せからしか、ロマンのない小説なんかつまらん!」と声を大にして言ってみたいと思う。ロマンのない時代だからロマンが必要なのだ。読む人の身の丈に合うかあわないかくらいの、少し背伸びしたロマンが書ければいいなと思う。
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