ジェームズ・ディーンがエリザベス・テーラーに告白したこと/私的所有権と自我の観念

Posted at 11/03/26

ぼーっといろいろなことをかんがえたり。というより、やることが多くてまともに文章を書いている時間がなくて、こんな場当たり的な長さの文章をとりあえず書いている。

小路啓之『ごっこ』の1巻を読み終わり、その続きのスーパージャンプの連載も全部読見返した。今の連載が、破局に近づいてきた感じがあって、それで最初から読み直したくなった、ということがあるんだなと思った。一つ一つ味わうのに骨が折れるし、なんていうか自分の自我みたいなところに食い込んでくる部分が結構あって、唸らされる。読めば読むほど、この人のほかの作品を読みたいと思ってくる。

なんというか、私はどうも幼児虐待、性的虐待を含む、ということに対して、何かびん、と感じるところがあるんだなと思う。それが自分が子どもの立場でなのか、親の立場でなのか、第三者の立場でなのか、よくわからない。いわゆる学校でのいじめとかにはいやなことだけどすごく関心を持つと言うことはないのだけど、幼児虐待に関しては何か思うところが自分の中にある。

そんなことをなんとなく自分の中にあるなあと思ってなんとなくネットを見ていたら、エリザベス・テーラーがジェームズ・ディーンから、母の死後に聖職者から性的虐待を受けていたと告白していたと言う記事が出ていて、ちょっと唸った。彼の悲劇的なパーソナリティーとか、破滅的な生き方とか、その起源がそういうことにもあるのかなと思わされて、そこはなんかわかる気がした。

ウィキペディアで小路啓之という人を調べてみると、他の作品もそれぞれ骨がありそうな感じだ。なんとなく、昔の吾妻ひでおを思わせるところがある。最初はヨヨちゃんにも天パーの「ぼく」にもなんか違和感があったのだけど、最近はすごく魅力的に見えてきている。

***

久しぶりに大沢信亮『神的批評』を開いて柳田國男の章の続きを読み始めた。柳田の農政から民俗学への関心の成り行きを小林秀雄の『私小説論』を媒介に語っていくところが面白い。

なるほどと思ったのは、「私的所有」という概念が近代的自我意識、「私」意識の成立と深く関わっていると言うこと。つまり絶対主義に対抗する啓蒙思想が打ち立てた人権の概念は私的な「所有権」の主張こそを梃子にしていると言うことで、最初の私小説がルソーの『告白』であるという小林の見立てはなるほどと思った。近代資本主義社会の中で私が私であるためには私は「私」を「所有」しなければならない。所有するものがない者は資本主義社会では「無」であるからだ。圧倒的な資本の攻勢に耐えて自分が自分であり続けるためには「私」を所有しつづけなければならない。そのために、頑ななまでに自分にこだわりつづけなければならない。私小説は、その切実な必要によって生まれた、ということだろうか。そういう意味では、近代的自我というものは、不幸な生い立ちだと言えるかもしれない。

まあちょっと簡単に思ったことだけ書いた。角度は違うが、佐々木中も大沢信亮も近代そのものを問い直す視座を持っていて、70-80年代に読んださまざまな本よりも実はラジカルな問い直しがあるのではないかと言う気がする。まあ残念なのは時代のプロセスに対する実際の経験が不足していると言うことではあるが、そういうものと距離をもてる世代であるからこそ、より大きな見方が出来るのかもしれないとも思う。

幼児虐待の問題が自分に響いてくるのは、自我の成り立ちの問題と幼児虐待の問題が本質的に危機的な部分で絡んでいるように思われるからだ。そのあたり、何か大きなテーマに行き当たる可能性もあるのではないかと思えてきている。

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