私のピュアリズム

Posted at 11/03/02

3月2日。前回のブログを書いたのが2月28日、正確には3月1日の未明だった。あのときは独白的なブログはもう書かないかもしれないと書いたけれども、どうもなかなかそうもいかなそうだ。まだまだ吐き出さしたいことはたくさんある。それらは多分、多くの毒が含まれているだろうから、「ぜひ読んでね」というわけにもいかない。個人のブログ、というか「日記」で始まった個人サイトというものは、たぶんそういう意味がもともとあるんだろう。

自己治癒、あるいは記述することや交流することを通しての気づきなどが、個人の人格の立て直しに寄与するということはネット時代ならではの自己回復の過程なのではないかという気がする。いわゆるメンタル系、メンタルヘルス系の記述やブログや日記というものは私は読むのは苦手だけれども、液晶画面の文字上に、その人のもだえ苦しみやそれでも生きている息づきが感じられて、ときどきはそういうものを読んで元気が出て来ることもある。それは、最低のぼろぼろの自分を描いたある種の小説と同じく、苦しい、病んだ、最低な、ひどい、誰にも顔を合わせられない自分と同じ目の高さになってくれる友として立ち現れるからだろう。それを通して自分を見る。それと共振することで、自分自身が見えたり、あるいはもう少し進んで自分の立ち直りのきっかけが見えたりする。

逆に、なんとかそういうものから這い上がった後だと、そういう記述は自分の「忘れたい過去」を見ているようでいやでしかたなかったりする。私がそういうものを見ていやだなと思うのは、たぶんそういうことなんだろうな。『蜘蛛の糸』みたいなもので、自分は蜘蛛の糸にすがって天上に上って行くのに、下から上って来る人を見るとぞっとする、というような。人間というものはそういう時に自分の利己性を深く知ってしまう。芥川はそこで糸を断ち切り、すべての罪人たちを地獄にたたき落としたけれども、そうすることで自分自身もおそらく地獄にたたき落としてしまい、「ぼんやりとした不安」から逃れられなくなってしまったのではないかとも思う。

宮澤賢治が早死にしたのもおそらく同じような理由だろう。つまり、自分の根源的に持つ利己性というものが許せなかったこと。妥協できなかったこと。そしてそれが克服できなかったこと。しかし利己性というものを根本的に克服するということが、人間に可能なのだろうか。もし可能であるとしても、それはよいことなのだろうか。徳の高い高僧を見てすごいと思ってもそうなりたいと思うかどうか。思ってもそれはそれこそが利己心なのではないか。などなど。

「世界全体が幸せになるまでは個人の幸福はあり得ない」というのが宮澤賢治の『農民芸術概論綱要』の最も重要な思想だが、それは言葉を変えていえば菩薩志願ということだ。観世音菩薩がすべての人を救済するまでは自分は成仏しない、といういわゆる「弥陀の請願」だ。身近なところで言うと私の父などがかなりこの思想に傾倒していて、ときどき周りのものを慌てさせた。自分の家屋敷を抵当に入れて困っている人に貸そうとか、ちょっと信じられないことをやろうとしたりしたからだ。

私の父はそういう理想家肌の人だったが、私はそういう部分、特にお金に関するところは全然違うなと先ほど財布の中を整理していて思った。これはツイッターでもつぶやいたことなのだけど、主に使っているキャッシュカードが郵便局と地元長野県の地方銀行のもの。クレジットカードはJR東日本のびゅうSuica。東京の金融機関やクレジット会社のカードも持っているのだけどほとんど使っていない。それを見ていると、私の金銭感覚というのはとても泥臭いもので、私にとってお金というものは畑で採れたばかりの泥のついた野菜のようなものなのだと思った。そういう意味で洗練された、お金がお金を生むような、垢ぬけたきれいなお金ではないのだ。だから、お金を使うのもお新香を食べるようなもので、地に足のついたような使い方しかできない。証券投資とかも試みたことはあるが、どうも自分の感覚にぴったり来ないのはそういうことなんだなと思った。

逆にいえば、お金の使い方も自家消費する野菜のように無駄なく使う癖が身についている。ひょっと人に何千万も貸そうというような空中戦的なお金の使い方は私には無理だ。結局、そのお金が土の匂いのする手触りや歯ごたえが感じられる使い方でなければ、私にはできないのだなと思ったのだ。

それは多分、自我についての考え方でもそういうことになるんだろうと思う。宮澤賢治や芥川龍之介の自我観は透き通った透明なもので、それが利己心などによって濁ることが許せないような、そういう潔癖さがある。それはそれで素晴らしいことだと思うし、その「心映えというものそのもの」がある種のアートとして成立していると思うけれども、どうも信用できないところがある。いや多分、信用できないようなところがないとアートとしては成立できないのだとも思う。何しろアートというものは心を奪って行ってしまうような「人でなし」なのだから…いやまあ、それはそれとして。

何というか、私の自我観も、たぶん泥臭い。そしてその泥臭さが、強みでもあり弱点でもある。汚れやすいと言えばいいのだろうか。汚れるのは仕方ないとしても、汚れが気にならなくなったら終わりだというところが自我というものにはあるように思う。

汚れ方も人それぞれだが、私の場合はルサンチマンによる汚れがひどかったなあとこれもまたツイッター経由で知ったシェーラーのルサンチマン論を読んで思った。これは京大の学生のメモ書きみたいなサイトで読んだことなのだけど、シェーラーはルサンチマンの最大の問題点として「価値の転倒を起こす」ということを上げている。簡単に言えば「ひねくれる」ということだ。そしてひねくれてしまったことを自分で自覚できないようになると、人の幸福を羨むだけの人生になる。ニーチェが最も忌み嫌ったことで、ニーチェは自分で行動を起こせなくなるということをルサンチマンの最大の問題として指摘している。
しかしまあ、汚れることを許容できる自我というのはある意味強い。図太い。度を超すと悪臭芬々になるが、生活人というのは誰であれ多少なりとも自我の汚れに耐えながら生活してはいるだろう。それが潔癖症になってしまうとすべてを消毒したくなり、少しでも自我の匂いがする人を遠ざけたりするようになって友だちをなくして孤立して行ったりするわけだけど。

で、そういうものを含む自我というのはいったいどこから来たのか、ということについて、大澤信亮(のぶあき)『神的批評』の第二章、「柄谷行人論」ではハイデガーを引用して「良心、死、負い目」こそが個人が個人であるゆえんだ、ということを述べている。良心とか負い目とかも土の匂いのする言葉だが、死がなぜ個人が個人であるゆえんかと言うと、死というものについて意味のあることは「私の死」であり、それを経験した人は誰もこの世に生きていないにもかかわらず、誰でも必ず経験することであるからだ。というのはつまり、「私の死」を死ぬのは他の誰でもない「私」であり、その時は誰もが一人だからだ。個人として自分の死を死ぬしか人にはできないからだ。他にも絶対的に個人に所属するものとして、「痛み」というものもあるだろう。死はもちろんのこと、良心とか負い目というのも「痛み」に関係するものだ。痛むということは生きているということでもあり、そういう意味では人は死を所有しているからこそ生を所有している。人が本当に所有しているものは「痛み」だけなのかもしれないとも思う。本当にすべての痛みがなくなるのは死ぬ時だからだ。その裏返しである「快感」もそうだけど。

これはとても面白い考えだなあと思う。痛切な体験、痛切な感覚から哲学を作り上げるというのはとても納得がいく。理論的な理念的な話だけで展開して行くとどこか信用ならないのだけど。

しかしまあ、理想というものもまた存在価値はあるわけで、理想という天にひとすじ伸びる大きな強いものがあるからこそ、人は楽しく生きていけるという面はある。土臭ければいいというものでもない。理想というものは遊びのようなもので、必要でないように見えても必要なものだ。人間が人間であり、ほかの動物とは違うのも、人間が天を見る理想を持つ存在だったからだ。理想が人間を理想たらしめている。理想が人間を動物から切り離し地に足のつかない存在にする危険もまた与えているわけだけど。

自己治癒にもいくつかの段階があって、自分の悪臭を肯定しなければいけない時もあるが、私はそこから抜け出す時が来たのだと思う。しかし、自分の自我自体が、「土の匂いのする自我」であることは、覚えておくべきことなのだと思う。ファーストネームにcultivateの文字が刻まれた、それは私の宿命なのかもしれないなとも思う。なにしろ私の名前の四字の漢字のうち、三字が土に関わる字なのである。私のピュアリズムは、そこにあるのだろう。

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