佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』読了

Posted at 11/02/21

昨日帰京。特急の中と帰宅後とで、ずっと佐々木中『切りとれ、その祈る手を』を読んでいて、最後に来てだいぶ疲れが出て苦しかったのだが、11時ごろにようやく読了した。読了したらこうして感想を書くことになるわけで、そういう意味ではまだ読了しない方がよかったかなと思う。読んでいる途中ではそこまでのところをとりあえず区切って考えられるのだけど、読み終えてしまうと全体について考えてしまう。この本は、とても内容豊富な本なので、一度にぜんぶ考えるのは大変なのだ。でもやはり、一つのテーマで貫かれてもいる(ブレを感じるところもあるのだが、それは自分の読みが足りないせいな気がする。そういうこと――自分のせいか作者のせいか――がよく判明しないのが読了直後というものだが)ので、ぜんぶ読んでの感想というものも重要になってくるだろう。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話
佐々木 中
河出書房新社

なんか、文壇(いや論壇か)のケンカ的なことに関する言及がかなり多くて、あんまりそういうことに付き合いたくはないのだけど、それがまた彼の論旨にかなり関わりあってくることなので、我慢して付き合わざるを得ない。そうなると、彼の論旨を納得すると言うことは論壇におけるケンカにおいて彼のサイドに立つということになりかねず、そのへんがめんどくさい構造になっている。下手にそんなことに触れない方が読みやすいのに。そういう意味では日蓮の辻説法みたいな所がある。「真言亡国、禅天魔」って言う感じなのだ。

なんていうか、最近の思想家にしたらかなり硬派だと思う。行動を強いるところがある。行動と言っても要するに、「読め、書け」ということなのだが。日本の戦後の思想界というのは、いくつものムーブメントが起こり、そしてそれを乗り越えて新しいものが生まれてきたり、またその思潮の行き着く先がテロ事件をもたらしたと解されて勢いを失ったりして、ある意味萎縮した状態になっていたのだなあと思うけれども、その萎縮を解き放て、爆発しろ、という思想界の岡本太郎みたいなところもあるような気がした。

まあそれが彼の自分の畑だから仕方ないんだろうけど、西欧のものを引き過ぎる所がちょっと私には残念な感じがした。西欧の、彼の言う中世解釈者革命―いわゆる12世紀ルネサンス―以降の西欧が営々と築いてきた巨大な達成を乗り越えろ、革命を起こせという進軍ラッパを吹いているような感じがするのに、言及しているのが西欧、せいぜいムハンマドや仏典までというのはちょっと片手落ちではないかなと思った。

最後にウォルター・ベンヤミンの心に残る詩句があったことはきのうも書いた。あの、「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」ということばだ。しかしこれだって、もっと身近な――少なくとも私には身近に感じられる――表現で言えば、「同行二人」ということだろう。四国路を行く遍路は一人で旅していても決して一人ではない。常に弘法大師と二人連れであるからだ――という表現は、全く同じだ。佐々木の引いている「友」は具体的な、実際そばにいる友人ではない。もちろん、そういう友人が闇夜を照らす光になることもあるが、彼の言っている友はブランショであり、フーコーであり、ルジャンドルであり、ニーチェなのである。弘法大師空海ではいけない理由はない。

この本の構成は、第3夜までは書いたけれども、第3夜の「読め、母なる文盲の孤児よ――ムハンマドとハディージャの革命」に続いて第4夜は「われわれには見える――中世解釈者革命を超えて」となり、いわゆる12世紀革命がすべての近代社会の枠組を用意した、という話になる。つまり、すべては文字で書かれた情報として扱われる、という枠組を。情報で掬い取れない部分に暴力が生まれ、情報でも暴力でも掬い取れない部分に主権が生まれた、という。主権というのはsupremacy, sovereignty のことで、つまり至上権、ということだ。主権というとそのグローリアスな部分が余りはっきりしないという気がして私は至上権という言葉を使うのが好きなのだが、これはイギリス史の今井宏先生の影響だ。余談。つまり現代社会の枠組たる「情報・暴力・至上権」の三位一体は、11世紀末に発見されたローマ法大全(ユスティニアヌス法典)を一世紀以上かけて読み下し、教会法に適用して行った気の遠くなるような営々とした試みの上に築かれている、というのが眼目である。だから、情報か暴力か主権か、というような争いではこの枠組から抜け出すことができず、結局は暴力革命、暴力闘争を超えた新しい「革命」を成し遂げることは出来ない、ということが作者の主張ということになる。

そして、第5夜「そして380万年の永遠」に至って、その革命というのは、日々読み、日々書くことによってしか達成できない、という。それはそれまでも何度も繰り返されているわけだけれども、つまり、それが生きることだからだ、というわけだ。なぜわれわれは生きているのか、生きている意味は何なのか、という問いに対して、佐々木はニーチェを引いて明快に答える。「(その問いは、)自分が何かの原因であり、行為の種体であると考える思考の過ちから来る偽の問題に過ぎない。君は何かをなし、それが意味を成すのではない。君は「なされている」のだ。「君はなされる!いかなる時でも!」と歌うように彼は言う。つまり、われわれは宇宙の巨大な生成の一部で「あり」、その意味「である」のですよ。」、と。君はなされる。この表現は、カルヴァンの予定説を思い起こさせる。私たちが生きていること自体が神の栄光の現われなのである、という。ルターから始まった話だけに、カルヴァンで終わるのはなんとなく首尾一貫はしているのだが。

380万年というのは、種というものの平均寿命を400万年と見て、われわれホモサピエンスが出現以来20万年であるから、あと380万年はあるよ、という話だ。つまり今日とか明日とか、あるいは10年後とか20年後とかに人類は滅びたりしませんよ、という話だ。

これは第3夜に主に出てきたけれども、佐々木は強く(俗流の)終末論を否定、というより攻撃している。それは現代、つまり自分の生きている時代を特権的なものと考えたい不健全な「絶対的享楽」の現れであると。これはまあ、よく分かる。実際のさまざまな事例から危機感を感じるのはよいのだけど、それを終末論に飛躍させるのは不健全だと私も思う。この当たり、私がなるほどと思ったのは、新約聖書のマルコ伝に、いつ終末が訪れるかはイエス自身さえ知らない、と書かれているということだ。イエス自身は終末を語っているから終末論者ではあるのだが、決してその期限については告げようとしない。「天と地は過ぎ去ろうが、わが言葉は過ぎ去らない。その日その時は誰も知らない。天のみ使いたちも子も知らず、父だけが知りたもう。」天使たちも、神の子たるイエスも知らず、神のみぞ知る、と。そしてそこから佐々木は直截に結論を下す。「終末の期限を区切るものが悪魔である」と。ここはなかなか快刀乱麻を断っていて気持ちがいい。そしてベケットやジョイスを引用して、「終わらないんだ、この世は」ということこそが病んだ終末論に対する近代文学の最も偉大な達成なんだ、ということを言っている。つまりわれわれは永遠に――380万年くらい続く――歴史の中で読み、書き、革命を起こしつつ前に進んでいく、終末論になんかかかずらわっている暇はない、ということで、思考がめんどくさくなって甘美な終末論に逃げてしまいがちな現代人に、あるいは現代論壇に喝を入れようとしているのである。

まあ、それが調子が低くなると宮台真司的な「終わりなき日常」になってしまうんだろうな。一日一日は終末と比べれば特権的ではないけれども、一日一日はそれぞれがそれぞれに特権的であって、決して「日常」ではないと私などは思う。まあこのあたり、まだはっきりしない感じのところもあるが、まあとりあえず今のところ私はそう思っている。

『切りとれ、その祈る手を』という題名は、パウル・ツェランの『光輝強迫』という詩集から取ったのだという。ネットで調べると、こんな詩だ。「祈りの手を/目の/鋏で/宙/から/たちきれ、/その指を/おまえのくちづけで/きりとれ/組みあわされたままのものがいま/息を奪うようにすすんでいく」あなたを、つまり世界を、お前のものにしろ、ということだろうか。いや、そう読んでいいのかな。祈っているあなたを見ろ、その指にくちづけしろ、つまり、祈りを愛せ、ということだろうか。後者の方が近いだろうな。

***

また何か思いついたら書くと思うが、とりあえず今はここまでとしたい。

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