実家の地デジ化/朝吹真理子『きことわ』のすごさ

Posted at 11/01/28 Trackback(1)»

朝、水道は凍らなかった。モーニングページを書いて、職場に出てごみ捨てなど。自宅に戻って自宅のごみを捨て、朝食。自室に戻って小説を少し書くが、どうもあまりよくなく。登場人物たちがどこかに行ってしまった感じがする。その行動や思いを書いていてもなんか空々しい理に落ちた感じになる。また彼女らに戻ってきてもらわないと続きが書けないという感じだ。短編は一気に書かないとそういうところが困るのだが、一気に描く時間がなかったりするとどこかに行ってしまってそれっきりということになる。困った困った。

10時半過ぎに出発。松本でからだを見てもらいに。結局、頭が緩んでいないとのこと。要脚湯と言われ、そういえばこの冬は脚湯をしていないなと思い当たる。今夜からやろう。時間がないため、近場でそばを手繰ったが、これが旨くない。鴨南蛮を残したなんて初めてだ。長野県は案外そばには当たり外れがある。まあ東京でもうまい蕎麦屋ではないと分かっているところに割り切って行くことはないわけではないのだけど。高速に乗って岡谷に出、ヤマダ電機で実家用の地デジ対応テレビを見る。32インチのLED画面のパナソニックと、やはりパナソニックの2チャンネルデジタルレコーダーとテレビ台。ヤマダのポイントやらエコポイントやらいろいろついて何が何だかよくわからないが、とりあえず10数万支払った。来週の水曜に設置に来てもらう。思いのほか時間がかかってしまって大忙し。職場について立て続けに大きな仕事があった。

きことわ
朝吹 真理子
新潮社

朝吹真理子『きことわ』、現在64/141ページ。感覚的な言葉の羅列の方に気を取られてしまって、人間関係がうまく把握できていなくて、途中で話の筋が分からなくなってしまった。貴子(きこ)と永遠子(とわこ)の関係が従兄弟だと思い込んでいて、話がつながらなくなってしまったのだ。それで最初から読み返して、別荘の所有者の娘と管理人の娘、という関係なのだということをようやく把握した。何かそういう関係って、現代小説だとなかなか思いつかない、ノスタルジックな関係だなと思う。

この人の文体もまた、なんだかノスタルジックなところがある一方で斬新な表現も多く、すごく不思議な感じがする。こういうのが新しい日本語の表現になって行くのだろうかと、そんな可能性すら感じる。日本語の文体的としては村上春樹なんかよりもはるかに力があると思う。夏目漱石や森鴎外が近代日本語の文体を作ったのと同じように、朝吹真理子は21世紀の現代日本語の文体を作っているのではないかと、そんな気すらする。島田雅彦と石原慎太郎という両極の作家をはじめとして審査員がほぼ一致した受賞作であったということは、深くうなずける。これは、ものを書いている人間にとったら脅威にすら感じるような文体なのだ。読めば読むほど驚く。「一行を読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。 われかつて閨秀小説の語を嫌ふ。これを読むを欲せず人のこれを評するを聞くをだに嫌へりしなり。一葉何者ぞ。」と香川照之が、もとい正岡子規が樋口一葉を評したけれども、朝吹真理子もそんな感じで、読めば読むほど可能性をたたえた豊饒な文体に飲み込まれそうになる。

しかし逆に言えば、この文体を味あわないと「内容」とか「中身」とかになると面白いのかどうかは全く別の問題で、たとえばそれは町田康とか川上未映子とかの文体が好きか嫌いかというのと同じような次元での問題でもある。私は彼らの文体は正直言ってきつい。芥川賞受賞作は一応読んだが、ほかの作品を読みたいとはあまり思わない。筒井康隆の同種の文体的な試みはまだ読めないことはなかったけれども。この3人はみな大阪系で、関西語からの日本語革新のアプローチと言えるのかもしれない。それに対して、朝吹真理子は標準語、東京語から出た革新のアプローチであり、私にとってより受け入れやすいということはあるのかもしれない。多くの東京語の作家たちにとっても。でも正直言って、言葉の持つスケールという点では比べ物にならないなあ。朝吹は自ら「メッセージはない」と言っているけれども、彼女の表現したいことはメッセージではなく、言葉の可能性そのものなんだと思う。こういう作家を持ったことは、われわれの世代の幸福だとさえ思える。ゆっくり読みたいと思う。

思いがけず絶賛してしまったが、絶賛には十分値する。これってどのくらいの人に理解してもらえることなんだろうか。百人中何人とかの割合で言えば。少なくとも小説と言われる文章を書こうと試みたことのある人には、この文章のすごさはわかるとは思うけれども。

しかしまあ、まだ半分も読んでない。最後まで読んだら、またゆっくり感想を書くかもしれない。

ああ、このところちょっとショックを受けてたのは、この人の文体の凄さに自分の文章を顧みてちょっと落ち込んでたということはあったかもしれないな。でもこんなふうに描きたいと思わせる文章を読めるということは幸せなことなのだ。書いたものを比べると落ち込むが、書きたいもののことを考えればむしろ嬉しくなる。こんな味わえる文章を書きたいと思う。

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