○○ちゃんと遊ばないで/高野文子『黄色い本』/上野顕太郎『さよならもいわずに』

Posted at 11/01/19

昨日帰郷。出かけるぎりぎりの時間までブログを書いたり、作品のアイディアを考えたり。出かけるときに持って行く本をいろいろ用意する。新しい作品の構想を始めると、すごくたくさんの本を買うようになる。もともと私は本を読む人だからただでさえ本が多いのだけど、こういう時には特に読みたい本でなくても何かありそう、何か自分に訴えかけてきそうな本を出来るだけたくさん読むようになる。

今東京に本棚が11個、田舎の方に3個分ほどあるがいずれも満杯だ。段ボールに詰め込んだまま積んである本や野積み(タイヤじゃあるまいし)になっているマンガもずいぶんあって、先日柴門ふみについて思い出したときに探した『同級生』は野積みの中にあって、サッシの近くに置いてあったせいか少し湿っぽかった。本にとってもあまりいいことはないよなあと反省するのだが、収納場所にも限度がある。実家の方も、父の残した本が本棚何十個か分はあるので余裕がない。そんな中でもやはり新しい本を読むことが必要なので、なかなか大変だ。昨年、一度新しいルールに従って完全に整理しなおしたのだけど、新しい本に対してまだ完全に適用できていない。もうたぶん読まないだろうという種類の本もないこともないのだけど、自分の小説を書くスタイルが自分の過去を掘り下げていくというところがあるので、いつ何が必要になる変わらず捨てられないということがある。また、『三国志』60巻だの『美味しんぼ』105巻だのというものもあるのでそれもなかなか始末に負えない。ほとんど段ボールに入れて積んであるのだけど。

ある友人はそのたびにブックオフに送っていると言っていたが、確かにその友人を訪ねると持ち物がシェイプアップされて、本当に必要なものだけが厳選されてきているんだなと思う。そういうのを見るとそういうものとしてすごく居心地はいいのだけど、牛に胃が四つあるように、私の頭にもいくつもの部屋が必要なようで、外部記憶装置としてそういう雑多なものを持っておきたいという欲望はなかなか整理できない。

取りあえず今回持って出かけたのは高野文子『黄色い本』、山口昌男『笑いと逸脱』、ミルトン原作『ドレの失楽園』、そしてまだまだ読みかけの上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』と上村勝彦『バガヴァッド・ギーターの世界』。そして出かけるときに丸の内で買う本を二冊決めていたので、それを合わせると7冊になるから、そんなものでいいかなと思った。予定を少し過ぎて出発。

東京も最近はだいぶ寒くなってきて、雨も雪も降らず乾燥している。それは東京の冬のあるべき姿なので異常気象続きの最近としてはなんだか安心だ。テレビの画面でびっしりと等圧線が南北に走った西高東低の気圧配置図を見ると、何となくほっとする。豪雪地帯の人は大変だなと思うけれども、豪雪地帯に雪が降り、太平洋岸は晴れて乾燥し、中央高地は厳しく冷え込むと言うのが日本のあるべき冬だなと思う。関東のよく晴れた冬の空が、私は好きだ。

丸の内丸善でまず上野顕太郎『さよならも言わずに』(エンターブレイン、2010)を買う。これは上野が前妻を亡くした時の記録として描いたもので、『このマンガがすごい!2011』のオトコ編第3位に入っている。(ちなみに第1位は『進撃の巨人』、第2位は『テルマエ・ロマエ』だ)今書こうとしている小説のテーマがどうも喪失とそれからの復帰とかどうもそっちの方に行きそうなので、読んでおこうと思って買った。それから、ツイッター上でよく読んでいる東浩紀氏主宰の雑誌『思想地図β』を買おうと思ったのだがなかったので携帯からamazonで注文した。で、東京駅構内でいつも買っているお弁当屋さんで『30品目バランス弁当』を買い、中央線で新宿に出た。

黄色い本 (アフタヌーンKCデラックス (1488))
高野 文子
講談社

特急の中では高野文子『黄色い本』を読んだ。読みながら感想をツイッターで少しずつ書く。今携帯でそれを見ながら(今PCをネットにつなげない環境にいるので・こんなときにはiPhoneとかiPadがあれば便利だなとは思う)書いている。この一冊の、半分以上は表題作の「黄色い本」で、これは『チボー家の人々』へのオマージュだと言っていい。私は『チボー家の人々』は読んだことがないのでどんな内容かも知らなかったのだけど、フランスの社会主義者の話のようだ。私は基本的に左翼方面へのアレルギーがあるのと、好きな作家である高野文子がそういうものについて語ること自体への困惑というものがあるのでなかなか素直にこういう作品を評価できない。しかしこの感情というのはつまり、「私のこと好きなら、○○ちゃんと遊ばないで!」という「百合の鉄則」(これはそっち系の雑誌を立ち読みした時書いてあってなるほどと思った言葉)と似たような感情なのかなと思った。私はあまりそういう感情を持つことはないのでこういう感情についてはけっこう戸惑うのだが、ああなるほどそういうものなのかと自分の中の感情の動きについて結構納得した。でも好きな人が他の人を好きになるのは止められないんだよね、残念ながら。そうするとお別れせざるを得なくなるんだよね、残念ながら。みたいな。

以下ネタバレあります。中卒でメリヤス工場に就職する主人公が、空想の中で心行くまで語り合ったジャック・チボーと「お別れ」を決意する。しかしそんな主人公に木訥な父は何気なく、「好きな本を一生持ってるのもいいもんだと俺(おら)は思うがな」と言う。そして最後に図書館に返却に行く主人公に、「いつでも来てくれたまえ。メーゾン・ラフィットへ」と「ジャック」は言う。このあたりは読んでいてどうしても泣いてしまう。私などは少年期の読書の延長線上を一生の仕事にしようと形にはならなくてもその線以外のことはほとんど考えずに来たので、そういう「お別れ」のせつなさというのはとても感じてしまう。それを言いかえればたとえば「持続する志」とかになるんだけど、でもそのもとはもっと単純で、「いつまでも好き」ということしかないんだ、ということに思い当る。「あなた(本とか、ジャックチボーとか)のことを、いつまでも好き」という心が形になったのがこの作品なんだろう。高野の作品にしては、すごくストレートな作品だと思った。私は絵柄としては「アネサとオジ」とか「絶対安全剃刀」とかの絵柄の方が好きなので、こういう画風は何となく残念なんだけど、この作品はやはりこの絵柄でないとだめだろうなあと思う。

そのほか収録された作品としては、「マヨネーズ」と「2の2の6」が好対照。「マヨネーズ」は不器用な「セクハラ男」と結局うまく行ってしまう話で、「2の2の6」は介護ヘルパーと訪問先の「不器用な長男」との擦れ違いの話。特に長男(57)が上手く行きかけた女子高生と摺れ違ってしまうところは何か可哀想。

しかしまあ私は、いろいろな作家や作品に対してずいぶんぐずぐずした感情を持つんだなと改めて呆れたりする。まあそんなものが結局ものを書く原動力になったりするんだなと思う。

実家の地元の駅につき、久しぶりに実家まで歩く。中学校に上る階段を上り、ルートをショートカット。車に乗らないころにはよく歩いた道なのだけど、車に乗るようになってからは全然歩かなくなったなあと思いながら歩く。

仕事は夜10時まで。いろいろ気が張ることが多く、けっこう疲れた。帰宅して夕食、母に愉気して、入浴、就寝。寝る前に『バガヴァッド・ギーターの世界』を少し読む。

今朝は何となく気持ちがふさいでいて、今日の午前中は小説のプロットを進めようと思っていたのだけどそういう気持ちが起こってこなくて、しばらく横になったり。どうも小説のテーマが「喪失」とかいうことになると、なかなかそういうものに取り組めないんだなと思う。前向きのことには取り組みやすいけど、後ろ向きのことにとらえられてしまうとなかなか気持ちを動かせない。前向きの執筆姿勢を作っておいてから後ろ向きの感情に向き合うという、これはけっこう難しい作業になるなと思う。

さよならもいわずに (ビームコミックス)
上野 顕太郎
エンターブレイン

どうにもなかなか気持ちが上がってこないので、仕方ないから先に何か読んでしまおうと思い、上野顕太郎『さよならもいわずに』を読む。これがまたものすごい喪失の物語。(以下ネタバレです)さっきまで普通に会話していた妻が急死してしまう。鬱ということもあり、生きる力そのものが弱っていたのだろうなあと読みながら思ったが、心臓の血管の細いところが詰まって倒れ、その時にうつ伏せになってしまったから呼吸が止まってしまったのだと言う。そういうこともあるんだな。でもあまり苦しまなかったそうで、それはお互いにとって救いだっただろうなと思う。死から葬儀への描写は、やはり一昨年に亡くなった父の死のことを思い出す。奥さんが死ぬのと父が死ぬのとでは事情は違うけれども、やはり一人の人間が死ぬということの大きさは変わらない。

妻の死、というものに似通ったところがある喪失の体験というのは、私の場合は好きな女性との別離だけなのだけど、その別離の中でも「分かれた」という実感が残るものと、「失った」という実感が残るものがあって、その「失った」という実感がこの「妻の死」と強烈にオーバーラップしてくる。『ノルウェイの森』に描かれているのもやはりそういう喪失なわけだけど、小説にしても映画にしてもとにかくそれは美しい。その美しさが救いになるところがある。上野顕太郎はギャグ作家だからそういう美しさで押すのは本意ではないだろうし、そういう描き方はしていない。痛切であるその思いをいかに表現という形に落とすかということは、本当に大変だと思う。「ああ、誰かが俺を狙撃してくれないもんだろうか」というのは実際よくわかる。

一番いいなと思ったのは、昔戯れに撮ったビデオを見直しているときに、娘さんを身ごもった奥さんがおっぱいを見せて「妊娠したらでっかくなった―みにくいーあんまりだー」と言ってそれを映しているところ。作者はその画面にほほを寄せる。『ミッドナイトエクスプレス』の場面の再現だ、と作者はいうが、残念ながらこの映画は見ていない。こういうのは本当に痛切だと思う。それから作者は「ラブホテルにいる自分たちを盗撮したDVDをネットで検索してみたりする。「あるわけがなかった」という独白に思わず笑ってしまい、しゅんとする。

ミッドナイト・エクスプレス [Blu-ray]
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

そういう場面を含めて、やはり作者も徐々に立ち直り、気丈に振る舞っていた娘が泣いているのに気づいて自分がしっかりしなければと思い、そして現在では再婚もされているようだ。そういうことも含めてこの体験を作品にすることには葛藤もあり、苦しい思いもあったという。正直、よくこういう作品が描けたなとその点に私は感動を覚える。

しかしまあ、読み終えたら私は元気が出てきたし、だからこうしてブログも書き始めた。深い喪失の体験の記録がなぜ人の心を癒すのか、それはよくわからないところがあるのだけど、苦しみに耐え、葛藤を乗り越えて「書こうとする意志」「表現しようとする意志」そのものが読む人を鼓舞するのかもしれないなと思ったのだった。

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