東京都青少年健全育成条例改正案委員会可決について思うこと/自分と現実との接点を探してさまよった日々(笑)

Posted at 10/12/14

昨日。ここのところやることが多くて、いろいろなことが中途半端になって困る。本と、やることが少ないときにいろいろルーチンを増やしてしまって、忙しくなってもなかなかそれは止められない。昨日は小説の書き直しをしたり、書き直した部分の校正というか間違い探しをしてまたそこを書き直したりということをしていたわけだけど、「書き直し」という作業はどちらかというと「書き手」的な作業なのだけど、校正というのは「読み手」としての性格が強くなる作業で、そのときの気持ちで書き手でありたかったり読み手でありたかったりということがあり、このところ書き手優位なので微妙な校正を怠ったまま数十ページ進んでいた。夜になってからようやくそれに取り組む気になり、だいぶ手直しをすることでその先の展開についても考えが生まれたりして、けっこう読み手としての作業は大事だなと思う。実際車の両輪なのだけど、まだ自分の中でその二つの要素がしっくりとおさまっているわけではない。

昨日は一日雨。こういう日は家にいてもくさくさしてくるので、4時前になってから出かける。あ、郵便局でお金をおろすの忘れてた。今日行かなきゃ。あまり行き先を考えないで出かけたが、結局日本橋にした。気分転換のつもりで出かけたのに、昨日は東京都のマンガ規制条例の委員会可決という大きなニュースがあったので、ツイッターをずっと読んだり書き込んだりしてしまった。(内容はこちら

いろいろ思うことはある、というか私はツイッターでも漫画家の人をたくさんフォローしているので、絶望的なツイートが次々と出されてなんだか困ったなあと思っていた。この条例の中身をちゃんと読んではいないし、規制(あるいは自主規制)の一人歩きというものが困ったことを招くというのはもちろんよく分かるのだけど、まあとにかく表現者としてはそれにびびらないで書きたいものを書いていくしかないだろうと思う。しかし逆に、どう考えても規制されるべきひどい内容のものを「描かされていた」人がもしいたとしたら、そういう人はほっとしているということもあるんじゃないかという気はした。こういうことはグレーゾーンが大きすぎて一概に発言することは難しいのだけど、規制と自由のバランスは常に緊張関係にあるしかないというのが実際のところだろうと思う。

ただ、最近自分が創作に打ち込んでいて、その中で「やばめ」の作品をかなり読んでいるので、そういうものが書かれなければならない必然性とか、そういうものをどうしても必要としている人たちがいるということも強く感じるようになっている。特にセクシュアリティにおいて少数者の人たちにとって、そういう作品が生きる支えになりえるということは十分ありえることで、そういうものまで規制対象にならないようにしてほしいなと思う。

何というか、常識的な立場で生きている人たちからすれば想像もつかないくらい、現在のセクシュアリティや生き方というものは多様化しているし、そしてそのそれぞれが必要としている表現というものも存在している。姉と弟の禁断の悪戯、みたいなテーマでも二宮ひかるなど読んでいるとカニバリズム的な、「自分の肉を食らう」人間の原罪みたいなものを感じさせたりする。しかしまあ、しっかり商業誌に掲載されるものとして描かれているのでそのあたりがまた微妙だったりして、お芸術のみであるわけでもない。

芸術闘争論
村上 隆
幻冬舎

村上隆『芸術闘争論』を読んでいて思ったが、そういうセックスに関わる問題というのは現代美術でも重要なというかベースとなるテーマになっていて、むしろ現代アートは必ずそれにコミットしなければならないというようなものでもある。この膨大にある日本のマンガの中に、そういうものベースとして取り上げるに値するものは私が知っているものだけでもいくらもあって、そういう表現が今後どこまで生き残っていけるのかという問題まで認識してこういう条例案は審議されているのだろうかという気はする。東京アニメフェアへの出展を出版社がボイコットするという動きはこの問題に必ず一石を投じると思うが、ただ野放しにするのがベストというわけではないし、表現というものがどういうもので、人間がそれに対してどういう必然性・必要性をもち、あるいはどういう危険性を持ち、何が誰に対して見せられてはならないものなのか、というようなことまで、もっと深めて議論されてよいように思うけれども、作家が知事と副知事を務める巨大都市の政治においてそういう人間性に対する深い洞察に基づいてことがすすめられているという印象があまりないのは残念なことだと思う。

***

私はけっこう携帯をメモ代わりにしていて、思いついたことをメモして自分のPCアドレスに送信したりしているのだけど、昨日は普段ならそうすることをけっこうツイッターで書いて、それにいろいろ反応があったりしてやはり面白かった。hubbledさんとの高野文子をめぐるやり取りは何というか自分の人間としてのあり方を考えさせられるところがあって、いろいろ考えた。

基本的に、私は人生はファンタジーだ、といまは思っている。それはどういう意味かというと、人生というのは自分のやりたいことをやる場である、ということだ。それは昔からそう思っているわけではなくて、ここ数年になって、というよりもっと正確には今年になってから思うようになったことだ。人生というのは夢物語である、というのは一炊の夢、ということばがあったけど、何をやってもやらなくても人生は過ぎていく。その中でどう生きればいいのか。こういうことはたぶん、一人一人感覚や考え方が違うことで、みんなそれぞれの行き方や考え方をどうつかんでいけばいいのか一番悩んだり迷ったりするところなんだと思う。

人生はファンタジーだ、と思う前はどういう風に思っていたかというと、そういう言葉で意識していたわけではないけれども、いちばん近い言葉でいえば「人生は苦行だ」と思っていたのだと思う。これは意識というよりはもっと無意識の認識みたいなものだけど。苦行といっても一生苦しむとは思っていなくてどこかに出口があることにいつか気がつくだろうというオプティミズムも持っていたから、まあいまその出口に到達したということなんだろうと思う。正しい出口だったかどうかは分からないが(笑)、今はそう思っている。

何というか私は空想の中をふわふわしているような人間だから、なかなかどうやったら現実との接点をもてるのか分からないところがあって、そういう中でも生まれてきた以上は生きなければならないのであって、いつも自分と世界をつなぐ通路のようなものを探していた。子供のころはそれが本の世界だったのだと思うが、それがさらに自分の空想の世界を広げてしまってもいただろう。生きるのが苦しいと最初に意識されたのは小学校23年の頃だったと思うが、しばらくはお話を通して世界を見ることで乗り切っていたように思う。小学校高学年時代の耽溺の対象は「ナルニア」で、あの話のおかげで私は厳しい時期を乗り切れたと思っている。生きるのがより苦しくなったのは小6から中学校低学年の時代。田舎の強制的な部活とか、共同生活とかが苦しくて仕方がなかった。性の目覚めとその罪の意識とかが重なったりもしたし、あの時期いちばん救いだったのは美術とか歴史とかの世界だった気がする。特にマグリットの絵は、自分を解放してくれるものだと思った。

中学校高学年から高校にかけては「学校の成績」というものが重要な時期になり、私はそれはまあ得意だったからまあかなり過ごしやすい時期にはなった。ただ恋愛とか性の衝動とかとどう付き合っていいのかはもちろんわからなかった。一生で一番ポップミュージックを聞いた時期だろう。ビートルズ、ウィングス、レッドツェッペリン、甲斐バンド。大学に入った頃からまた自分が見えなくなる。勉強が出来るのは当たり前という大学に入ってしまったからだ。高野文子をはじめとする表現としてのマンガに出合ったのはこの時期だった。一時期の高野文子は聖書のようなものだった。それから芝居に出会い、女性と付き合うようになる。しばらく、私と世界とのつながりは芝居における舞台上の演技とセックス、つまりは肉体を介してのみリアリティを感じられる状態だったなあと今では思う。

まあそういう中で、もっと自分の生きる意味のようなものを真剣に問うべきだったというか、それを見つけるためにもっと捨て身で取り組むべきだったと今では思うのだけど、あまりに多くのものが自分に可能性として与えられている気がして(実際にはそういうのは錯覚なんだけどね。錯覚に酔っていたいという気持ちもどこかにあったんだろう)今の自分から脱皮することにどうしても踏み切れないうちに、時間切れのようにして芝居と離れ、学校教育の世界に踏み込んだ。

学校教育の世界は自分には合わない、ということは最初の3日で分かったのだが、それでも何とかその中で生きようと10年間は努力した。まあそれは今にして思えば間違った努力で、その中で失ったものを取りもどすのにいかに自分が苦労しているかというのは今に至っているのでいまだに強く感じる。結局自分は自分と現実世界とをいかにつなぐかということのほうを優先して考えてしまい、現実世界の(この場合は現実の問題の多い学校教育の世界の)方に自分を合わせてしまおうとする私にとっては致命的な失敗をした。

ただまあ、もうその年月を取りもどすことは出来ないので、その中での経験をあちら側の読みではなく自分自身の読みとして読み替えてちゃんと自分の栄養にしていくしかない。そういう意味では万年リハビリ中で、このリハビリはそうかんたんには終わりそうもないが、まあ何というか肉体もあまり考えないうちに治るというところもあるからあまり考えないようにしている。その読み替えの作業も意識して行なうのではなく、何か必要があったときに考えてみると、ああこう考えればいいんだ、ということがときどきあるので、とりあえずはそれでいいと思っている。

今では、仕事と書くことが自分の現実世界への関わりの通路なのだけど、「書くこと」によって初めて自分が「やりたいことをやっている」という実感を持つことができるようになったということが自分にとってはもっとも大きい。もちろん、子どもの頃から私はずっと書いてきたのだけど、本当に書きたいものを書きたいようには書けていなかった。それは、やはりある種の怠惰があったからで、先ほども書いたけれどもやはりある意味捨て身で臨まないと書きたいものを書きたいように書けるようにはならない。捨て身で、というのは要するに今の自分の限界を超えて、ということだ。それはもちろん、今までだってときどきあるときにはあった、つまりブレイクスルーを越えることはあったのだけど、でもやはり現実の自分に妥協してしまうところが常に付きまとってしまった。今はなぜそれが出来ているのか、イヤ全然十分ではないのだけど、少なくとも生きることが苦行ではなくファンタジーだと意識されるようになってきたかというと、つまりは結局「今の自分」を超えるための努力をしたからなんだろうと思う。

私には今までそれがどういうことなのか本当にわかりにくくて、でもそのための努力ができるようになってみるとどうして今までそれができなかったのかが歯痒くて仕方がなくて、そういう世界に来て見るといかにみんなが、表現に関わる人たちが膨大な努力をしているのかが見えてきて、もっともっと自分はやらなければならないと思う。

うーん、なんだか話が変わってきたな。まあ書いてきたついでなのでその転換点について書いてみると、要するにそれは書いた自分の作品について酷評してくれる人がいるようになったということと、それに耐えてそれを乗り越えるところまで自分の表現への情熱が切羽詰ったものになったということだなと思う。書く人間、表現しようという人間にはプライドのようなものがあって、特に美術系の学校とか創作系の学校とかサークルとかを経験していない私のような人間は批評において打たれ弱いところがある。私も芝居をやっていて、そこで脚本を書いていたときには相当叩かれたし、イヤになって投げ出したこともあれば何とかそれに耐えて書ききったこともあるし、あるいはあまり修正されずに(つまり期待もされなくなったということだろうけど)上演にこぎつけたこともある。そういう経験というのは貴重だ。表現したい人には表現したいものがあって、ということはそれを分かってほしい、理解してほしいと期待する気持ちがあるわけだから、それを酷評されるとまあ基本的にはぺちゃんこになる。しかし、書きたいものがはっきりしているときはわりとその酷評も受け入れられるもので、どこを修正したらいいのか考えられるようになるし、その批評の本質も受け入れられるようになる。

また、同じ作品を複数の人に読んでもらうことも大事だ。一人に批評を受けて凹んでいても、もう一人にまた違う側面から批判されたりすると、けっこう自分の作品が立体的に見えてくる。二度目の批評はわりと建設的に受け入れやすい気がする。それを繰り返しているうちに、自分のやりたいことも見えてくるし、この批判は受けても受け流せばいいがこの批判は真摯に受け止めなければいけないとかそういうことも分かってくる。実際、作品を作るということは書き手だけの作業ではなく、読み、批評する人の役割というものはとても大きいと思う。

今年になってようやく、私はそういうことに積極的になることが出来た。今書くのが楽しく、書いて書いて書きまくらないといけないと思えるのは、そういうことだなと思う。

あ、きれいにまとまった。(かな?)

読み直す暇がないので修正は出来ないが。ああもう10時だ。小説の直しの方は今朝はほとんど出来ないな。今まで直した分をちゃんとUSBメモリに落として忘れずに持っていかないと。

リトル・シスター
レイモンド チャンドラー
早川書房

昨日は丸善で本を物色して、結局村上春樹訳のチャンドラー『リトル・シスター』だけ買った。『ノルウェイの森』のプロモを少し見たが、この映画はけっこう面白いんじゃないかなと思った。見にいけたら行こうと思う。

ノルウェイの森 公式ガイドブック (1週間MOOK)
講談社

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by Luke Peterson

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