子どもの本質はつまらない大人になってしまうという悲劇性にある/父の命日/村上隆が嫌われる理由

Posted at 10/12/04

養老孟司・宮崎駿『虫眼とアニ眼』読了。面白かった。特に後半、『千と千尋の神隠し』の制作に関する話は、とても参考になった。

虫眼とアニ眼 (新潮文庫 み 39-1)
養老 孟司,宮崎 駿
新潮社

宮崎「この子どもたちのためにアニメーションをと思っても、その前に、気の毒だなあ、苦労しそうだなあって思わざるをえない。でもやはりその子たちが生まれてきたことを「間違ってました」とは言えないでしょう。」
養老「そうですね、言えないですよ。」
宮崎「生まれてきてよかったねって言おう、言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした。そこで映画を作るしかないと。」

この危機感。この前には現代が乱世になりつつあるという話を、911テロや環境問題を背景に語っている。私は正直そこまでの危機感はない、ないというよりそれにすでに慣らされてしまっていて、むしろ米ソ冷戦期の核の恐怖の方がまだ具体的な恐さがあって、現代の危機というものに対してはむしろ狼少年的に「またそんなこと言ってるのか?」というような感じがある。生まれた時から危機だったのに、今更そんなこと気にしても仕方ないじゃん、という感じが正直ある。

しかし、そういう危機感はそんなに共有できなくとも、「生まれてきてよかったねって言おう、という点で踏みとどまらなければならない」という感じはすごくわかる。宮崎も堀田善衛や司馬遼太郎との対談ではすごく日本嫌いてきな感じを強く出していたのにこの対談になるといま自分たちが何とかしなければならないというふうに、村上春樹とある意味同じようにデタッチメントからアタッチメントへの転換が起こっている感じがする。

そして「子ども」に関する以下の考察について、これは根本的に唸らされるものがあった。

「子どもたちの心の流れに寄り添って子どもたち自身が気づいていない願いや出口のない苦しさに陽をあてることはできるんじゃないかと思っています。ぼくは、子どもの本質は悲劇性にあると思っています。つまらない大人になるために、あんなに誰もが持っていた素晴らしい可能性を失っていかざるを得ない存在なんです。それでも、子どもたちがつらさや苦しみと面と向かって生きているなら、自分たちの根も葉もない仕事も存在する理由を見いだせると思うんです。」

私も似たようなことを考えるところがあるが、この言葉は本当にすごいと思った。子どもの悲劇は、つまらない大人にならなければならないという運命にある。大人になるということはかくも難行なわけで、大人になりたくないとほざいていても面白い大人になれるわけではなく、下手をすればもっともつまらない大人になってしまったりするわけだ。いやいや、なんというかこのあたりのところ、まだ自分の中でもうまくまとまらないところがあるな。そう簡単に結論は出せない。

それから、『千と千尋』で、宮崎が一番「嬉しかった」のは、「千が電車に乗っていけた」ことだと言っていて、これは何というかわが意を得たりという感じだった。私もあの映画で一番好きなシーンはあそこなのだ。猥雑な温泉宿から急にピュアな、浅い海を走る乗客がみな影のような存在のあの電車。私はあの場面、森田芳光が撮った『それから』の電車の場面を思い出すのだけど、あの非現実的な感じがとても好きだ。猫バスが好きだということとも関係あるかもしれない。どこか知らない場所に行く電車。子どもが行くところは、常に「どこか知らない場所」なのだ、という子どもの本質。それが「つまらない大人の世界」であることにいつか気がつかなければならないのだけど。

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
宮崎駿監督作品
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

***

今日は父の命日。ああ、一年前の今ごろの時間に息を引き取ったんだなと思う。その日のその時間、病院で霊柩車を待っている時間。母に付き添ってもらい、自分は車で帰った。あの日の夕焼け。

今朝は寒かったけれども墓参りに行った。その時に花の水を替えてその水を捨てた場所で自分自身がころんでしまい、スウェードのジャケットが泥だらけになった。何かそれもまた、何かのメッセージのように感じてしまう感じ。死者は黙して語らないが。

***

芸術闘争論
村上 隆
幻冬舎

村上隆『芸術闘争論』、189/292ページ。この本もずいぶんおもしろい。現代美術とは何か、という問いに対し、村上は「戦後の英米の美術です」と断言する。で、つまりその現代美術を見る、あるいは作るという行為は結局「いろいろなコンテクストをどう面白がるか」ということに尽きるんだと思った。で、「戦後の米英の美術」である以上、買い手も基本的に現代の米英のお金持ちなわけで、彼らのもっているコンテクストを踏まえた上で制作しなければならない、という前提がある。そのコンテクストはとても重層的なもので、その層(レイヤー)が多ければ多いほどいい、とされる傾向があるようだ。そうした重層的なものを村上は「ハイコンテクストな作品」といういい方をしている。日本人が現代アートで成功するためには、つまり村上や草間弥生やオノ・ヨーコのような存在になるためには、そのことを自覚して取り組まなければならないし、そうすれば才能と運があればアーチストになれる、というのがこの本の基本的な主張であると言っていいと思う。逆にいえば才能と運があってもそれを踏まえなければ現代アートで成功することは難しい、というのが彼の「言いたいこと」の根本なわけだ。

で、こういう主張は日本のアートシ-ンでは受け入れられない、のだという。なぜかというと、アートに関わる人たちは基本的に「自由になりたい」人たちで、そういう日本のアート界は「コンテクストなどというものに縛られたくない」人たちによって成り立っているし、一般にもアートとはそういうものだ、と思われているからだという。まあ自分もアートというものはそういうものだと思っているところは少なからずあるので、そういう考え方は分からないではない。

でもそういうハイコンテクストなものを面白がる、というスタンスも当然あっていいと思うし、だいたい「茶の湯」なんていうアートはもともとそういうコンテクストに相当依存して成立してきた文化ではないかと思う。あんな「ぼろっちい器のよさ」などというものが、何のコンテクストもなしに成立するはずがないわけで、それは唐物の大名物のよさを理解したうえでそこに何重にも出現する多様なコンテクストを楽しむことが出来て初めて「(一見)ぼろい器のよさ」を感得することが出来るわけだ。大名茶を踏まえて利休のわび茶があり、利休を踏まえて織部や遠州の武家茶がある、という非常にハイコンテクストなアートを日本人は昔から楽しんできたわけだ。

村上は、日本人は現代アートを必要としていないという。それはそういうハイコンテクストを楽しむものがサブカルチャーの部分にたくさんあるからで、マンガとかアニメとかアイドルとかそういうものの「多層さ」は確かに一筋縄ではいかない。こんなふうに私もブログで小説やマンガやアニメーションの感想を書くことが多いけれども、それはつまり自分がこの作品からどういうコンテクストを受け取り、それに感心したか、という発見を書いているわけで、そういう読みが細かくなり、新しいコンテクストが発見されていくとその作品の評価もまた高まっていくことになるわけで、それが読者としての楽しみでもある。

だいたい日本語というものは漢字・カタカナ・ひらがな・アルファベットと文字からして四つのレイヤーを持っているわけで、もともと非常にハイコンテクストな言語であるわけだ。ということは日本人は自然にそういうハイコンテクストを使いこなして生きているわけで、むしろアートというのはそういうコンテクストのまとわりつきからの逃げ場として意識されていると考えてもいいかもしれない。「何にも無い自由な感じ」が日本的なアートの究極だとしたら、世界のアートシーンとは別なところで成立していると言えるし、まあそれで市場が成り立つならそれでもいいということもできなくはない。

しかしまあ、日本のそういう文化というのは昔から「仲間内」「数寄者(すきもの)」の文化であって、それが現代のサブカルチャーにまで綿々と受け継がれており、「誰にでも開かれたものにする」ということには強い警戒感があるようだ。サブカルチャーがアートシーンに出て行きたがらないのも、日本のアートシーンが世界の基準を受け容れたがらないのも、そうなることによって仲間内の隠微な楽しみが損なわれることを心から嫌っているからだろうと思う。そういうサブカルチャーのフィギュアやマンガ的な描線をレイヤーとして用いることによってサブカルチャーの人々の心を脅かし、アートシーンの世界との乖離を啓蒙しようとする村上隆が嫌われるのはまあそういう意味で言えば無理もない。日本の文化はあくまでそういう仲間内の文化であろうという傾向が強いからだ。

しかしまあ、そういう日本が持っている「無尽蔵な面白さ」というものをぜひ世界の人に楽しんでもらいたい、という村上のスタンスは私は嫌いじゃない。そういう日本発の文化的レイヤーが世界に受け入れられていくことによって日本というものの理解が進むこともまた、悪いことではないと思う。村上は日本ではアウェーだとツイッターでは常にこぼしているけれども、理解者は増えていないわけではないと思う。

難しいなと思うのは、やはりサブカルチャーというのは絶対に反社会的な側面が、特に性表現や暴力表現においては(昔なら体制批判も含めて)出てくるわけで、それが仲間内のサークル内では許されるというか黙認されていても、それがオープンにされることによって攻撃される恐れは常にあるわけで、そういうものを恐れる遺伝子が相当強くある。それが外国では「自由=権利」という大義名分が広く認められても、日本ではいつ恣意的な権力により取り締まられるかという恐れを常に表現者が持っているわけで、それが実際に現れているのが今回の東京都条例の問題なわけだ。

どちらにしろこの問題は取り締まられる側も取り締まる側も節度の問題なのだと思うけど、立場によってその節度の感覚は異なるし、視覚的にも聴覚的にも言語的にもあっという間に世界に拡散しうる現代の社会という特殊性もあって、一定の基準を設けることは至難の業だと思う。結局表現か廉恥心かそのどちらかが犠牲にならなければならないとしたら表現じゃないか、という傾きに2010年はある感じがする。まあ、難しいところだけど。

話はずれた。破壊者としても創造者としても、村上隆という人は興味深い人であることだけは間違いない。

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