グリーン車で横浜へ/女は受身だ、という神話

Posted at 10/11/30

昨日。昼頃『天空の城ラピュタ』を返しに行く。『スカイクロラ』のBDと『千と千尋の神隠し』のDVDを借りる。冷蔵庫のマスタードを見たらソーセージが食べたくなったので、ツタヤの隣のマインマートでソーセージを買い、道路を渡ったローソンで弁当を買って帰って昼食。ソーセージはちょっと味が薄かった気がする。友人に電話をかけ、夜会う約束をする。小説の手直しをしたり『スカイクロラ』を見たり。DVDでもすごいリアルだと思っていたが、BDになると本当に実写のようだ。でも私は戦闘シーンとかにそんなに惹かれるわけではないので、自分の見たい場面だけ取り出してもう一度見る。最初に函南がやってくるところと、水素が函南に「もしかしてあなたも殺してほしい?」と聞く場面。印象に残る場面が、ときどき不意に見たくなることがある。

スカイ・クロラ (通常版) [Blu-ray]
押井守監督作品
VAP,INC(VAP)(D)

5時前に出かける。郵便局でお金をおろし、地下鉄に。たまには使ってみようと、モバイルスイカで東海道線普通のグリーン券を取る。この時間の東海道線は込むんじゃないかと予想し。5時24分発の伊東行きだったかに乗る。二階建て車両の上の階の窓際に座る。席上にタッチするところがあり、そこに携帯(あるいはスイカ)で触れれば赤ランプが緑ランプに変わる。ここのところ集中しっぱなしで目がすごく疲れているのでなるべく休んで行こうと思ったのだけど、と中から結局村上隆『芸術闘争論』(幻冬舎、2010)を読んでしまった。54/292ページ。すごく面白い。現代アートの構造分析。アートというのも生きるための一つの営為なのだということを改めて思う。

芸術闘争論
村上 隆
幻冬舎

横浜に着く直前に友人から電話が入り、少し遅れるとのこと。ルミネの有隣堂で時間を潰すことにする。特に買う気はなかったのだが、普段行かない書店に行くと普段と違う本が目に付くので買ってしまうという現象がやはり生じ、シギサワカヤ『誰にも言えない』(白泉社、2010)と養老猛・宮崎駿『虫眼とアニ眼』(新潮文庫、2008)を買った。最近セックスに関するマンガをつい買ってしまう。セックスと恋愛というのは人間が生きていく上での重大事であることだけはまあ間違いない。特に若いといわれる期間は。この年になってみるとわりと余裕を持って昔を振り返ることが出来るという側面はあるが、若い頃は本当にそういうものに囚われて大変だった。まあこのマンガはそういうものに囚われている真っ盛りの描写で、いろいろ考えさせられる。もちろん今の私だってそういうものから「卒業」したわけじゃないから。というより、そういうものから「卒業」することは本当の意味では死ぬまでないんだろう。『虫眼とアニ眼』は宮崎の話がいろいろ面白い。

虫眼とアニ眼 (新潮文庫 み 39-1)
養老 孟司,宮崎 駿
新潮社

友人とアフタヌーンティーで話す。リゾットはなかなか美味しく、マスカットティーは香りがよかった。苺ソースのスフレもなんだか「アフタヌーンティーらしい」メニューでよかった。友人の近況を聞き、自分の最近の創作のことなど話す。書きたいのは結局、読んだ人が「生きるという選択肢もあるな」と思ってもらえるようなものだ、という話。今書いているのは12~13歳くらいの「あの頃の自分」が今もうひとりいたとして、その子が「生きてみてもいいな」と思えるようなものだ、ということを話したり。そういうふうに言ってみると、12~13歳くらいの自分が如何に生きにくかったか、ということをまざまざと思い出し、改めて自覚して苦笑したり。そのことは話さなかったけど、いまセックスについて考えさせられるマンガをつい読んでしまうのは、やはり楽しくはあったけれどもやはり生きにくさはなくならなかった「あのころ」のことを書きたいという気持ちが高まっているからなんだなと思う。あまり意識しているわけじゃないんだけど。

安南の王子 (集英社文庫)
山川 方夫
集英社

最近、何というか私自身の感性というのはずいぶん女性的なところがあるんだなと思う。いや、全然男でしかないところももちろん相当あるんだけど。年をとったせいか、それとも時代が変わったせいか、そういうものに割と素直になってきているところもある。河岸を変えて「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」というすごい名前のカフェに移り、レディ・ガガの話をしたりその特集を組まれていた『Vogue homme Japon』で組まれていた「装飾系男子」の話をしたり、インドのヒジュラの話をしたり。閉店までいてまた有隣堂へ。また文庫のコーナーでつかまり、山川方夫『安南の王子』(集英社文庫、1993)と『夏の葬列』(集英社文庫、1991)を買った。1965年に35歳の若さで交通事故で夭逝した作家。『三田文学』の編集者を務め、江藤淳らを見出した人だという。「バンドの休暇」という短編の「馬鹿…じゃ何だって別れたのよ」「判んない…とにかくあの人しか私を幸福にしてくれる人はいやしないの。」という会話になんだかつかまった。

君がオヤジになる前に
堀江 貴文
徳間書店

そのあと堀江貴文・福本和行『君がオヤジになる前に』(徳間書店、2010)を立ち読み。この本も面白い。読みたい本がたくさんあって困るが、いつでも買えそうだしと思い。それから土田登志子『「さしすせそ」ですべて解決!家がみるみる片づく本 』(高橋書店、2009)を見たり。これもなるほどと思うところが多いのだが、まだ買わなかった。『断捨離』よりは自分に合うかもしれないと思う。

「さしすせそ」ですべて解決!家がみるみる片づく本
土田 登志子
高橋書店

友人と別れて東海道線、帰りは普通車両。『誰にも言えない』を読む。いろいろ考えさせられる。もはや今更ということでもあるが、読んでいると女の人がセックスに対して受身であるというのは神話なんだということがわりとはっきり理解できた。そういう神話があるほうが男に夢があって女に都合がいいという時代が長かったんだろう。でもセックスということをまじめに考えてしまうと変な言い方だがそれにまじめに取り組むと積極的にならざるを得ない。だからたぶん、けっこうまじめな女性の方が本当は積極的なんだと思う。というか、この作者自身が相当まじめな(あるいは頭のいい)人であるなあということをあとがきを読んでうんうんと思った。まあ、40ページくらいの描写は今までもよくみたことがあるが、43~44ページくらいの描写はなんだか刮目するところがあった。山本直樹などでもこういう描写自体はあったなと思うけど、山本の場合はそこで女性の目線が淫乱になる。多分そこが男目線なんだろう。少なくとも女性の内面の目線は真剣な、あるいは深刻な顔をしていることはあると思うし、実際そういう目線が内面に留まっていないことにも何度も出会った覚えはある。若い頃は自分の欲望が優先されて相手が見えてないことが多いなと思うけど、でも本当は見てないわけじゃなくて、多分自分の欲望の大きさに目がくらまされているだけなんだろうと思う。結局役割が違うだけでそこにある生きにくさとかやり場のなさのようなものに違いはないんだろうと思う。人がそういう行為でつながれるとしたらその一点なのかな、と思う。生きにくい、が生きられる、に変わるとしたら。

誰にも言えない
シギサワ カヤ
白泉社

ま、このマンガ、高校生の性行為が出てくるが、東京都の条例が成立するとそういうものも引っかかるのかなと思ったり。なんかそう考えると表現の幅というのは相当少なくなる感じはするな。そういう規制に抵抗して描こうというエネルギーが大事だ、みたいな話もあるが、逆にそういう規制に抵抗してでも描こうというのはつまりは売れるエロということになりそうで、こういうまじめにセックスを考えたりするものは出しにくく売りにくく読みにくくなるんじゃないか、という気がする。こういう本を必要とする人は多分いると思うんだけどな、特に現代は。というより必要とする人がいるから描かれているんだろう。(そういう言い方をするとロリ暴力ものとかも必要とする人はいるんだという主張に巻き込まれる恐れはあるなとは思うが)少なくとも生きるということに前向きの取り組もうとする人に意味のある本が届くような社会の仕組みではあってほしいなと思う。

しかしセックスに関して男が積極的だというのも神話だ、という発想は、あまりに草食系過ぎるか。(笑)

夜は『千と千尋の神隠し』の印象に残っているところだけをピックアップしてみたのだけど、結局寝たのは2時になった。この映画やはり面白い。一度目に見たときよりも見直した今の方がもっと面白く感じる。やはり歴代配収1位になるだけのことはあるなと思う。

千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]
宮崎駿監督作品
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント

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by Luke Peterson

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