自問自答の堂々巡り/なぜ子どもは本を読むのか/『崖の上のポニョ』を見ない理由
Posted at 10/10/23 PermaLink» Tweet
誰でも書き始めるときは白紙に書く。という点においてみな平等だ。平等でないのは、書くべきことを持っているかどうか。それがどのくらい整理されているか。そしてそれを書く技術がどれだけ磨かれているかどうか、というようなことだ。生きていれば、書くべきこと、少なくとも表現すべきことがないなどということはあり得ない。それをどう整理し、どう表現するかという技術は、結局は磨いて行くしかないので、努力によって乗り越えることが出来る壁だと言える。ということは、みな努力すればなんとかなる、という点において平等だということだと思う。少なくとも表現を志したものにとって、努力の不足はいいわけにはならないから、頑張るしかない。あれ?何か精神論的な話になってしまった。そういうことを書くつもりは全然なかったのだけど。
最初書きたかったのは、PCを立ち上げて秀丸の新規作成の画面を開くと、いつも白紙だなあ、とぼおっと思ったのだった。この白紙の状態から毎日馬鹿みたいな量の文章を書いているわけだからよっぽど頭の中にごちゃごちゃいろいろ詰まっているんだろうと思う。もうすでに13行も書いてしまっている。
こんなふうに書けるのも、IT技術の発展のたまものだ。若いころから文章を書きたいと思ってはいたのだけど、文字を書くということが苦痛で仕方がなかった。多分、鉛筆の持ち方が子ども並みに間違っていたりとか、そういうことが原因だったんだろう。そう、言葉を書くことが苦痛なのではなく、文字通り文字を書くことが物理的に手が痛くなって書けなかったのだ。多分あのころは、書きたいのに書けなくて葬り去られたものが無量大数にある気がする。私は若いころから書いたものは基本的に全部取ってあって、読み返してみてもだいたい自分の自我に関する何というかお目にかけられないようなものが大部分なのだが、でもきっとあのころブログがあったら何とか読めるものにしようといろいろ頑張ってアップしていたに違いないと思う。あのころは何を書いたって、誰に読んでもらう機会もほとんどなかったから、本当に自問自答の堂々巡りの文章を書いて自己嫌悪に陥って、という繰り返しだった気がする。だから、ときどきブログで若い人のそういう文章を読むと何となくほほえましくなって、「頑張れ」と小声でエールを送ったりしている。でも今時の若いもんは幸せだよな、と思う。ま、そういう意味に限定されるかもしれないが。
宮崎駿の作品を読みながらいろいろ考えたりしていると、どうも自分自身の昔のことについていろいろ考えてしまう。なんだかそういう作用があの作品群にはある気がするが、他の人はどうなんだろうか。
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その前に、森博嗣『創るセンス 工作の思考』読了。面白かった。これは森の小説論(『小説家という職業』)、自由論(『自由をつくる 自在に生きる』)と並ぶ工作論として三部作の一つとして書かれたらしいのだが、この三つは確かに有機的な連関を持って書かれているように思う。まあなんというか、一人の人間が自分の生について三つの側面から書いていると言ってもいい。これだけ自分のことを整理して書けるなんていうこと自体が才能だなあと思う。書いてあることは、子どものころから私自身が感じていて、でもそれはちゃんと言葉にならず、また誰もそういうことを行ってくれたことがなかった、というようなことが多くて、何だ同じようなことを考える人間がやっぱりほかにもいるんだなあとすごくうれしくなったという感じがある。
それを特に感じたのは、なぜ子どもは本を読むようになるかということ。それは、「周りの大人が教えてくれないことが書いてあるから」なのだ。子どもは言葉を覚えたころはなぜなに坊やで、何でも周りの大人に訊くわけだが、大人は面倒くさがってちゃんと教えてくれないことが多い。また子どもはお話が好きだが、それもなかなか話してくれない。私の場合では、母はよく寝物語に絵本を読んでくれたのだが、だいたい母の方が途中で寝てしまうのだ。だから私は最後までお話がわからなくて欲求不満になってしまう。それが明らかに文字を覚える原動力になって、ついには母が寝てしまうと自分で続きを読むようになり、また寝床の中だけでなく昼間も本を読むようになって、添い寝を卒業してしまったのだった。
ついでに思い出したので書いておくと、私が文字を覚えたのは平仮名を書いてある積木だった。おもてに「く」と書いてあって裏に栗の絵と「くり」という文字が書かれているあの類のものだ。少し年長の隣の子どもたちと遊びながら、たぶん3歳くらいで平仮名は全部覚えてしまった。幼稚園の時には漢字で自分の名前と住所は書けたが、偏(へん)と旁(つくり)を反対に書いたりとか、そういう昔の文字がいろいろ残っていて自分ながらにほほえましい。そのあとも、小学校の時は漢字を覚えることに情熱を持っていたし、6年生で学校にあった漢文で書かれた『史記』を見て、ものすごいワンダーランドの扉が開かれるようなわくわくした思いをしたことを今でもまざまざと思い出すことが出来る。結局その方面には進まなかったが、子どもにとって「すべてが漢字で書かれた文」というのは本当に人類未踏の地のような探検欲を刺激するものだった。
ああ、つい自分のことを書いてしまったが、森が工作にのめり込んでいったことと自分が読書にのめり込んでいったことと、方向は違えどもその本質は同じだなと思ったし、そののめり込んでいく力のようなものを「幼さという能力」と表現していて、これはすごいと思ったのだった。子どもは、自分に知識を与えてくれる大人を常に求めているのだ。そしてあるとき、それが実際の大人よりもすごい知識が本に書かれているということに気づく。大人はいつも教えてくれるわけではないが、本は自分が読みさえすればいつでも新しい知識を与えてくれる。子どもが本に夢中になるのは、ある意味当たり前のことなのだ。
まあそういう意味で、あいかわらず私は幼さという能力はけっこう持っている。相変わらず幼い、と書くのもアレなのでそう書くのだが、集中豪雨的に吸収しようとするところが相変わらずあって、で、今週はジブリウィークだったわけだ。
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昨日は『ジャイアントキリング』の17巻の発売日で、それを買いに行くついでに『崖の上のポニョ』を借りたのだが、昨日のうちにほとんど一気に観た。まあ映画はもともと一気に観るものだが、何本もみているうちにようやくそういうペースが戻ってきたといえばいいか。でもまあDVDは、こちらの都合で途中で切ってまた途中から見ることが出来るというのがありがたい。テレビと違って、トイレを我慢しながら見る必要がないのはありがたい。衝撃的な場面のあと、続きを見る前に気持ちを整えるとかね。まあ本当は、そういう場面のあとにはゆっくりした場面がはさまれていたりして、作る側もそういう工夫はいろいろしているのだけど。ということは自分が演劇をしていたからよくわかるのだが。
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『崖の上のポニョ』。宮崎駿の最新作。ついにこういう境地に達したのかというか、なんというか。ポニョのキャラって、なんとなく奈良美智的だ。『ナウシカ』を撮ったのが宮崎監督43歳。『ポニョ』は67歳だ。次回作は2013年だというから、72歳ということになる。『ナウシカ』はやはり、40にして惑わず、という作品だったんだなと思う。『ポニョ』は70にして心の欲するところに従えども矩を超えず、というところに近づいているのかもしれない。本当はむちゃくちゃ前衛なのだが、ちゃんと話になっているというか。
ツイッターでもそういうお話があったのだけど、何年か前に『プロフェッショナル』で宮崎駿の特集をしたことがあって、息子が『ゲド戦記』を撮ったときの話、自分が『崖の上のポニョ』を製作した時の話が取り上げられていたが、あの苦しみの中からこういう作品が生まれて来るということを想像するとすごいことなんだが、あたりまえだけどそういう苦しみは作品には現れていない。ただちょっと前衛的過ぎるというか、意図が先走ったところはこの作品に関してはあるような気がするが、それはのちほど。
観終わった後の正直な感想をいうと、何というか「スッキリした」、という気持ちが強かった。何がスッキリしたのかよくわからなかったのだけど、最初のクラゲの群れ(ナウシカの腐海の描写のようだ)だとか、あの巨大なグランマンマーレだとか、つまり描きたいことを描きたいように描いているということなんだろう。『千と千尋』ですら、「こういうふうに描いたら観客は喜ぶ」という計算によって描かれている場面はかなりあったと思う。しかし、『ポニョ』はもっとわがままに作られていると思う。これがいいだろう!というのを直球でぶつけてきている。風景や家の描写が手書きのタッチで描かれているのもそういうことの一つだ。ああいうのはロシアの『春の目覚め』というアニメーションで見てこれはいいなと思ったが、たぶん宮崎もその辺で影響を受けたんじゃないかなという気がする。それをすぐやってしまうところがすごいんだが。
親の教育というのは、自分の考えを子どもに押しつけることで、それでいいと思う。行けないのは自分の感情を押しつけることで、それがよく混同されているのだが、感情に任せて怒ることを「しつけ」だと思っている親が虐待をするわけで、それは自分の考えを押し付けることとは全く違う。宮崎は『ポニョ』では実は相当自分の考えや美意識、面白さというものを観客に押しつけていて、ほとんど迎合していないんだと思う。
一つはストーリー展開。これもウィキペディアで仕入れた話だけど、「出会って事件が起きて、小山があって最後に大山があってハッピーエンド、というパターンをずっとやってると腐ってくる。こういうものは捨てなきゃいけない。」と宮崎はポニョの時に言っている。言われてみると、この映画は出会い事件小山大山ハッピーエンドというパターンを踏んでおらず、出会いとハッピーエンドはあってもそのあとの展開は全部一続きだ。一番はっきりそのパターンがあるのが『千と千尋』だろうか。あれは内容が混沌としているけれども黄金パターンを踏んでいることによって観客が迷わないで済む、というものではある。ポニョはその枠を打ち破って、ストーリー構成の呪縛のようなものからの脱却を図って成功している。
もう一つはリアリティーからの解放とでもいえばいいか、リアルなところはすごくリアルなのだけど、天変地異が起こっても人々がほとんど動揺せず、のんきだ。一番のんきなのは宗介とポニョがろうそくのボートでひまわりに行こうとしているときに出会ったボートに乗った夫婦の特に奥さんだが、全体にみんなのんきであれはいくらなんでもリアリティがないし、リサ(母親)がグランマンマーレと語り合って宗介の試練を受け入れる、とか、現代劇とファンタジーをブレンドしていて、そこにデボン紀の魚たちの名前の知識とかいろいろはさんで不思議な雰囲気を増殖している。
一番いい場面を一つ上げるとしたら、ポニョが津波の上をタタタタタと走ってくる場面だ。あの爽快感ったらない。あの場面を見ただけでこの映画を見た意味があったと思えるくらいだ。あれは意味としては人面魚が津波をもたらした、という話になるわけだけど。カタストロフの快感のようなものがあの場面の背後にはあるのかなという気もする。ポニョという魔法を持った存在が自分のやりたいことをやることによって大災害をもたらし、月が地球に接近して大津波が起こったりするのだけど、それが人魚姫のストーリーと重ねられて王子様のキスで人間にちゃんとなる(そこが人魚姫へのアンチテーゼ)。やりたいことをやって大災害が起こっても、やりたいことをやった方が爽快感があるし、よりハッピーエンドに近づくという、すざまじいまでの「生きろ」というメッセージだと読むこともできる。いやそこまで読んで見ちゃいないだろうけど、普通は。
一つ気がついたことというか、今までジブリを自分が敬遠していた原因と重なる点もあるのだけど、上に書いたように宮崎は自分の思想をポニョにおいてははっきり出してきていると思う。『千と千尋』で見事に性風俗との関連を黙殺されたので、敢えて色を出したということもあるのかもしれない。はっきりと現れていると思うのが、ひまわり園と幼稚園での幼児(宗介)とお年寄りの交流の場面。幼児との交流は実際に介護施設・デイケアセンターなどでも行われていると思うけれども、何というか「ふれあい主義」みたいな感じがして背中がかゆくなるような感じはある。地方公共団体・草の根左翼思想主導の「ふれ愛(はあと)」みたいな。いや、全然そういうものを否定しているわけではないけど、大まじめにやられると鼻白む感じはある。現場で一生懸命なことは全然否定しないんだけど。私も介護関係に関わっていたことがあるからそれはよくわかるのだけど。
それから除草剤をまいたと勘違いしたリサがフジモトに怒鳴りつける場面。これはこの映画だけではないけど明らかにエコロジズムだ。それも「除草剤」というネタがずいぶん生々しい。エコだって悪いことじゃないが戦闘的になると困ったチャン化するし、シーシェパードみたいな環境テロリストだって生む土壌につながる。ゴルフ場の除草剤問題も実際深刻だということはよくわかるし、ミツバチが消えているというカタストロフ的なことにも影響していることは甲野善紀もよく言及している。だけど、ということ。
もう一つ、一番大きいのが宗介が両親を「リサ」「コウイチ」と呼び捨てにしていること。親子ため口主義とでもいえばいいか。これはアメリカ的な個人主義を導入しようとしているのか、物語の構成の必然から(5歳の子どもが世界の破滅を救う選択をするという設定自体が大体滅茶苦茶なのだから、宗介の子どもっぽさを最小限に抑えるためには親にもため口を聞けるくらいの独立性を持たさないといけないと考えられなくはない)なのか、そこは微妙だ。
つまりまあ、この三つに代表されるある意味での説教臭さというものが今までの作品で巧妙に隠されていたものが露わになってきたということなのだ。私は宮崎の作品には以前からそういうものを感じていたし、『ポニョ』を見てやはりそうだったんだねえとは思った。だから宮崎作品を避けていたという側面はある。ただ多分、保守の論壇のまともな人だってマルクスは読んだだろうし多分結構面白いと思ったりしたんだろうと思うから、自分の意見が異なるからと言って黙殺したのでは世界の面白い部分を見逃す可能性があるわけで、そういう意味で自分に受け入れられそうなのから順番に見て行ったというのは正解だったと思った。最初にポニョだったらそういう側面が鼻につきすぎた可能性はある。内容もわけがわからないし。
まあそれらも、宮崎監督がやりたいことをやった結果なのだと思う。そう整理すればそういうものとしてみればいいと思う。しかし、ある意味それは逆に受け取られ過ぎてもいると思うのは、『ポニョ』の興行成績が『ハウルの動く城』よりも振るわなかったことに宮崎監督自身がショックを受けた、という話だ。だからそれに刺激を受けてまた新作をつくる気になったというのはよかったと思う。私としても、あの2008年の夏どこに言っても「ポニョポニョ」鬱陶しいくらいにかかっていたことを思い出せば、全然内容を知らない『ハウル』の方が売れたと言われればたまげてしまう。しかしどうもネットでいろいろ見ていると、宗介が両親を呼び捨てにしていることで、子どもに見せることを敬遠した親がかなりあったらしいということが感じ取れて、ああなるほどなあと思ったのだった。今回はメッセージは確かに受け取られたが、拒絶されたのだ。
何というか、ここまで来ると宮崎監督という人の人生という一つのストーリーを読んでいる気がしてくる。どんなに成功しても挫折を伴う。いやあ、巨大な人生にはそれだけの桎梏が課せられるんだなあと今更ながら感心させられてしまうが。
今朝は『ポニョ』のことを思い出しながら自分のことをいろいろ寝床の中で考えていて、そういえば自分発音に関してコンプレックスを持っていたということを思い出した。それは演劇をやっている中で腹式呼吸やら活舌やらによって克服はされたが、今でも不用意に喋ると出ることがある。えらい学者が同じような発音のおかしさを持っている人に会ったことがあって、それでとても安心したこともあった。あんまり細かくは書かないが、思うに宮崎監督もあの風貌だから、若いころは相当コンプレックスもあったのではないかと思う。今は男の顔は自分で作るというように、何というか迫力とやさしさの塊みたいな顔になっているけれども。
ということを思ったのは、宮崎監督が主人公は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るから女の子を主人公にすることが多い、ということを読んだからだ。これは、自分もそうなのでよくわかる。たいがいは自分とかけ離れた存在、少女とかを主人公にした方が自分も描きやすい。自分に近いものを書こうとすると途端に筆が滞る。こういう文章でいくらでも書けるのは、小説というすべてを書かなければならない文章ではないからだ。一面から切り取ればいいだけというのなら、いくらでも(大人になったからね)切り取れるのだが、自分という(あるいは自分に近い)キャラクターの全体像を描くのは難しい。本当に対象化がしにくいのだ。
それで、自分はそういうものを描きながら、本当に私は自分を語る言葉を持っていないなあとつくづく思ったのだが、たぶんそれはコンプレックスの存在が大きくて、見たくない自分をそのまま凍結しているところがすごくたくさんあるんだと思う。宮崎監督が少年を描きにくいというのも、たぶんそういうところがあるんじゃないかという気がする。彼はきっと、『トトロ』のカンタや『ポニョ』の宗介のような少年ではなかっただろう。『ラピュタ』のパズーもそうだし、『もののけ』のアシタカや『千と千尋』のハクにしても、すべて少年の理想像だ。理想的な少年を主人公にしようとすると、たぶん破綻が来る。自分の自我に。
自分を主人公に小説を書こうとすると、実際陰々滅滅として全く嫌になってくる。その方向で成功している例外的な例が太宰治の『人間失格』だが、太宰という人は全く陰々滅滅が売りのような人だったから成り立ったのであって、ファンタジーにはならない。
まあ文章を書いて行く以上、そういう地獄の釜の蓋みたいなところも少しは開けなければいけない時もまま出て来ることは考えられるのでそういう自分と付き合っていかなければならないとは思うのだが、宮崎監督に対しては観客としてそういうものに付き合っていくことになるんだろうなと思う。次回作に期待したい。
これから『ポニョ』を返却に行って、『紅の豚』を借りて来ようと思う。これで宮崎駿が原作・脚本・監督をすべてやった作品は全部見たことになる。
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