性風俗と『千と千尋の神隠し』/カオナシと耳かき殺人
Posted at 10/10/22 PermaLink» Comment(2)» Tweet
昨日。ブログを書いた後、『千と千尋の神隠し』を最後まで見る。なんだか不思議な気持ちになる。この作品、すごく豊饒にイメージが溢れているのに、それをつなぐ糸が見えない。でも確かにある一定の秩序の中にすべてがあることは確かで、一つ一つのエピソードやキャラクターの間に破綻がなくおさまっている。映像はきれいだし、登場するもの一つ一つが面白いし魅力的だ。銭婆のところに行く電車の中で、千尋とカオナシとが二人で座っている場面など、すごくいい。森田芳光監督の『それから』を思い出した。銭婆のところで迎えに出てくるカンテラはナルニアの「街灯あと野」の街灯のようだし、いろいろな知っているイメージが誘発されて出てくる。でもそれがどうして出て来るのかがよくわからない。今まで見た宮崎の作品の中でも、一番謎めいた、よくわからない作品だ。
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ネットをつなげる環境に行ってからウィキペディアで調べてみて、この作品が宮崎作品で一番興行成績がよかっただけでなく、日本映画の歴代興行記録で一番だということを知って驚いてしまった。どこのツタヤに行っても置いてある本数が少なく、なかなか借りられないのはあまり見られていないからだと思っていたのだが正反対だったのだ。ということは、事情は全く逆で、本数に限りがあって個々の店にはあまり置けないということなのだろう。それにしてもこれだけわけのわからない作品が日本で一番観客動員の多い映画だとは、ちょっと呆然としてしまった。
ウィキペディアを見てさらに頭の中の混乱が深まる。この作品は何と性風俗を描いた作品だと宮崎自身が言っているのだ。つまり神の宿というか、神を慰撫する巫女=神女のいる湯場。昔でいえば中世の「江崎の君」だとか、もっとさかのぼれば大神(おおみわ)神社の「神の嫁」になったヤマトトビモモソヒメのことなどが思い出される。説教節の「小栗判官」でも照手姫が売られ売られて美濃の青墓の宿に流れ着き、小栗の妻であるから身は売らぬとして娼婦宿で下働きをするストーリーがあるが、そういったものを下敷きにしているということになる。
宮崎自身は、引きこもりがちで誰にも心を開かなかった女の子がキャバクラで働くようになって心を開くようになり、人の心がわかるようになった、という話を聞いて「それだ!」と言ったのだとどこかに書いてあった。子どもの置かれている状況はいろいろな意味でひどい状態だが、むしろそういう人と人との生の交流の場でこそ心が開かれるということもあり、まあそういうことをひっくるめて未来を生きる少女たちへの贈り物だと言っているらしい。
これは考えてみれば、というか考えなくても相当危険な、きわどい意図が含まれているということになる。性風俗というのは当然現代では現代の恥部というかある意味汚物のように扱われているジャンルであって、大人向けの作品ならまだしも子供向けのアニメーションにそういうものを取り入れるというのは滅相もないことだ。しかしそれをやってのけて大ヒットさせるというのだから宮崎は単に天才というだけにとどまらない、何だか恐ろしいものだという感じさえする。
ネットでも語られているように、実際には宮崎のこの発言はほとんど黙殺されているようで、評論家の発言でも性風俗に言及したものはきれいに無いらしい。まあもちろん、作品を見ればそれに触れなくても語るところはいくらでもあるのだから、敢えて危険な橋を渡ろうとはしないだけだろう。直接的な表現はほとんどないが、おしらさま(大根の神様?)が赤フンドシでエレベーターに乗ってたりするのは、アニメだから滑稽で済むが、実写だったらすごいだろう。
普通の何もできない少女である千尋がそういう館で働いて、少しずつたくましく大人になって行き、豚にされた両親を救い、助けてくれた川の精の龍も救おうとするところまで行く。大人になる、一人前になるということは、働く義務を負う引き換えに、恋をする権利、あるいは性に関わる資格を手に入れるということでもある、ということを思った。どんな場所でも生きていく、そういう気持ちを手に入れてほしい、というのが宮崎の願いなのだろうか。千尋とハクの恋は、ファンタジー化したキャバクラ嬢と黒服の恋なのかもしれない。
宮崎アニメの一つの鉄則は、友達がピンチに陥ったら助けに行く、ということだ。まあこれは宮崎だけでなく少年ジャンプの「友情・努力・勝利」の法則でもある。子どものころの私はあまりそういうことを信じていなかったけど、一度友達のために本当に怒っている子を見て感動したことがあった。でもどうなんだろう、子どものうちに本当に心の通じる友達ってできるものなんだろうか。少なくとも私にそういう友人が出来たのは高校生以降のことで、その友達が何か困難に陥っていたら、何とか助けたいと強く思うようになった。考えてみればそれが友情ということで、なぜ助けるかと言われたら心の通じ合った友達だから助けたい、という以外の理由はないわけだ。あんまりそういうことを普段考えてはいないのだけど、なぜ千尋がハクを助けに行ったのか、ということを考えていて自分の中にも同じような気持ちがあるなということに思い当ったのだった。鈍感というか己を知らないというかだが。
もう一つこれはキャラクター作りの鉄則かなと思ったのは、「こわいものはやさしく、やさしくないものは面白い」ということ。ジブリの法則とでもいうか。見た目が怖いキャラクターは実際は心がやさしく、不親切なキャラクターは実は笑える、ということ。最初の部分の「恐さ」の演出にはまると釜爺とかは最初は相当怖い。怒りっぽいリンだとかも実は心優しい。まああんまり過度の一般化は禁物だが、だいたいそんな法則があるような気がした。
ああ、少しわかりかけて来た。何でもない普通の少女が両親と恋人を助け出す話というのがひとつのわかりやすいストーリーなのだ。そこに着目していれば確かに普通に見られる話だ。しかしそれだけではこれだけの大ヒットの理由としては弱い気がする。一番大きいのはファンタジーとしてとてもよくできているということだろうな。あるいは、特別の人間は誰も出て来ないということ。人間以外では変なのがいっぱいいるが。そして、日本的であるということも結構大きいかもしれない。現代の人間にとってはすでにある意味エキゾチックでさえある。そして案外、気楽に見られるものでありながらこういう混沌とした理解しようとしてもしきれない作品であるというところが一番いいのかもしれない。
この中に出て来るいろいろなモノはどれも面白いが、一番注目されやすいのがカオナシだろうと思う。もともとカオナシは橋の上に出て来るだけの奇妙なキャラクターだったらしいが、物語を短く縮めるためにある意味狂言回しとしてカオナシの存在を大きくしたらしい。こういう「暴走する孤独」みたいなものはまさに現代的で、特に「無垢のやさしさ」に飢えている。「耳かき殺人」みたいに通いつめてお金をばらまいてもこちらを向いてくれない。そしてにわかに凶暴化し、すべてを破壊しつくす。淋しさというのは人間の一番深い、一番凶暴な感情なのかもしれないと思う。生きようとする盲目的な意志がすべてを破壊しつくす。まさに「無明」であって、これは誰の心の中にも巣食っているものだろう。振り向いてもらえない。理解してもらえない。これは製作者である宮崎自身も作品を発表するたびに感じていることなのではないか。性風俗を描いたとわざわざ発言してそれを見事にきれいに黙殺された宮崎監督というのはある意味痛々しい。その引き換えに日本映画興行成績歴代一位になったとしても。そういう激しい痛みが伴わない限り、そんなとてつもない記録は打ち立てられないのかもしれないのだが。
それにしても宮崎駿という人は本当に一筋縄ではいかない。仕事に出る前に蔦屋に車を走らせて返却した。
***
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森博嗣『創るセンス 工作の思考』を少しずつ読んでいて、ちょっと閃くことがあり、次回作のテーマにできないかといろいろ考えて、エピソードをいろいろ考えたのだけどプロット全体がどうもうまくできない。まずキャラクターが立たないので動かしようがなくて、ちょっと思案している。今朝起きてからしばらくそれを考えて、朝食を食べたり植木屋さんのお茶の用意をしたり家と職場の可燃物を捨てに行ったりしたあとで帰ってきて書き始めたのだけど、なかなか思った感じに書けない。自分が思ったこと、感じたことが柱なので、その状況というのが自分自身では外から見られていないということなんだろうと思う。一人称にしてみたり三人称にしてみたり周りの人々の設定をいろいろ変えてみたりしているがどうもうまく落ち着かない。10時過ぎまでいろいろ試してみて一息入れることにし、蔦屋に行って『ジャイアントキリング』の17巻を買い、何を借りようかと少し思案したが『崖の上のポニョ』だけ一枚借りた。
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"性風俗と『千と千尋の神隠し』/カオナシと耳かき殺人"へのコメント
CommentData » Posted by shakti at 10/10/25
この作品はとくに好きなものではありませんが、性風俗を描いたと言われてみると興味を覚えました。たしかに、そう言われればそういうふうに見えます。でも、現代の性風俗なんでしょうかね、むしろ昔の赤線地帯に知らないうちに入り込むという感じなんでしょうね。
映画で言えば「インド夜想曲」で主人公がある女性をもとめてちょっと変なところに入り込むシーン。なぜインドの話を書いたのかというと、現代日本の吉原とか歌舞伎町とかでは、性風俗地帯から、不思議な幻想的な村を喚起させるようなところはなさそうにも思えたからです。
あるとすれば、横浜黄金町かな。あるいは日暮里とかでしょうか?
いずれにせよ、性風俗幻想をたどっているうちに、もう一つ別の村社会を想起させるというのがポイントかと。今村昇平の「赤い橋」でも、セックス的な欲望が、都会人に地方都市幻想につらなっていて、おもしろかったですよ。
CommentData » Posted by kous37 at 10/10/25
>shaktiさん
いろいろ操作がありますが、現代の問題に向き合っていると考えた方がいいかと思います。
基本的に宮崎の映画は子供向けで、メッセージも子どもが対象なんですね。だからもう一つの異界へ、というような知的な展開はないですね。
基本的に近代主義の宮崎が性について映画をつくるとこういういろいろ手の込んだものになって面白い、ということかなという気がしました。