『ナウシカ』と『エヴァンゲリオン』/『スカイ・クロラ』と「ひょっとしたら自分は死なないかもしれない」という不安

Posted at 10/10/19 Comment(2)»

昨日帰郷。今日は朝から松本に行く用事があったので、昨日の最終の特急で帰郷した。私の学生時代は新宿7時発が最終で相当混んでいたのだが、今は9時発で、そんなには混んでいない。行く前に、食べきれなかったパンを食べて、夕食は新宿駅で買ったおにぎり二つで済ませた。丸の内の丸善によって森博嗣『創るセンス 工作の思考』(集英社文庫、2010)を買う。森の小説論、自由論にはさまれた工作論。この本は「僕は工作が大好きだ。」という言葉から始まっているので、小説論や自由論のようなちょっと斜に構えた雰囲気のところは全然ない。日本のモノ作りが昔は技芸の世界、アナログの世界だったのが、今は技術の世界、デジタルの世界になって、そこでうまくいかないことが起こっているが、そのデジタルとアナログの隙間を埋めようとしてこの本を書いた、ということを言っている。まだ24/204ページ。

創るセンス 工作の思考 (集英社新書 531C)
森 博嗣
集英社

昨日は午前中に森博嗣・押井守『スカイ・クロラ』を最後まで見て、一度丸の内の丸善に出かけて『風の谷のナウシカ』(徳間書店、)を7巻一気買いしてカフェで一口カツハヤシライスを食べて帰ったのだった。家事的なことを一通りかたづけつつ『ナウシカ』を家にいる間に3巻読んで、電車の中と特急の中で7巻の途中まで読み、自室についてから寝る前に最後まで読み切った。B5判の大きさなので読みやすいだろうと思ったら飛んでも八分、もともとの版型がもっと大きかったのだろうか、絵がかなり詰まっていて少し読みにくかった。しかしそれも慣れて来ると気にならなくなっては来たが。

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)
宮崎 駿
徳間書店

『ナウシカ』はすごい。アニメもすごかったが、その世界を描き切ったマンガもかなり凄い。宮崎駿というのはもともとこういう世界を持った人なのかと瞠目させられる。

ただ、7巻の途中まではずっと表現がすごいなあとか思っていた(4巻のチククがいた神聖な場所での骨たちのせりふ、「永く待ったかいがありましたね」「ええ…風が来ました」「やさしく猛々しい風が…」とか「森の人」の奥地で皇弟が成仏するところとか)が、古い文明が保存された場所でトルメキアの王子たちが音楽に夢中になっていた地上楽園みたいな場所は、『ナルニア』の朝びらき丸が東の海の上で見つけた島々のように神聖で清浄な場所だなと思って、宮崎という人は神聖さというものがどんなものだか知っているなと思ったのに、最後にいきなりそれらを全否定する方向に話が行ったので相当抵抗があった。

ただ、森の人との会話でもそうだが、やはりナウシカは苦界で生きる、という決意のようなものをそこで示していて、救世主であって観音菩薩みたいな感じになっている。そこでは予定調和的な過去の人類による予定された救済を激しく拒否する姿勢がある。新しい穏やかで優れた人類の卵たちを虐殺するナウシカは、どうなんだろう、賛否両論なんじゃないかという気がする。というか私はそこは許せないと思うくらいの抵抗を感じた。ただここではそこに何が表現されているかということを見るべきなんだろうと思う。宮崎自身がナウシカのようなこういう突き抜けた方向性をこれ以上追求するのをやめ、『ラピュタ』以降の子供向けのアニメに舞い降りて行く、アートの清浄な世界でなくビジネスの苦界に身を沈めてそこでメッセージを発信して行くことを選んだ、その決意の表れがこういう表現になったのではないか、と私は思った。人がとやかく言うことではないが、相当苦しんだのだろう。そうでなければこんな表現はできないと思う。それが宮崎の自由であり、運命であり、業であり、選択であったのだと思う。

もう一つの読み方としては、同じ清浄な世界でも森の人の世界の奥、皇弟が成仏した空間は肯定的にとらえられ、旧世界の音楽と技芸の秘密の場所は否定的にとらえられているのは、前者が多神教的・自然崇拝的な場所であり、後者が一神教的な「復活の予定」に彩られた空間であるから、ととらえることもできるなと思う。宮崎の世界はいうまでもなく圧倒的に前者であって、後者の文明こそが人類を滅びに導くものだという確信がもちろん明示はされないけれどもあるように思う。

それにしても、書き切っているなあと思う。やはり読んでみて、自分の中でそういう反発があるということは、自分は多神教的世界観だと思っていたけれども、一神教的な世界へのあこがれも確かにあるんだなと思った。反発というものは、ある種の新しい発見の序章であって、創造の始まりでもあると思う。

『ラピュタ』でも『もののけ姫』でも、パズーもアシタカも故郷には帰らない。『ナウシカ』はアニメでは風の谷に帰るのでナウシカの段階では違ったのかなと思ったのだが、マンガを読むとやはりナウシカも帰らないんだなあと思った。

マンガを読みながら、『エヴァンゲリオン』のことをいろいろ思い出していたのだけど、誰か指摘していることかもしれないが、「エヴァ」というのは「ナウシカ」への裏返しのオマージュというか、血を吐くようなパロディでありアンチテーゼなんだなと思った。出てくるアイテムがいろいろに過ぎている。使徒。エヴァと巨神兵。人類補完計画、など。途中で見るのを放棄してしまったが、そういう観点から見ればこのアニメもまた見ることが出来るかもしれないと思った。80年代から90年代への傷だらけの輪廻転生。切っても切れない師弟関係なのだろう。

私もそういう意味では、これを読んで何も書かないわけにはいかないなと思ってしまう。やはりこれを越えるものを、書きたいと思う。いつかは。

***

スカイ・クロラ [DVD]
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『スカイ・クロラ』。これもすごいなと思った。どこまで森博嗣でどこからが押井守なのかわからない部分もあるのだが。少なくともこの作品からは、私のようなものでも2009年という時代の空気を感じることが出来る。そして51年生まれの押井、57年生まれの森、そして62年生まれの鑑賞者である私、主なターゲットであろう90年前後生まれの鑑賞者たちの世代感覚というものを意識させられた。

私たちの世代は、「滅びの予感」のようなものを世代的に共有してきたと思う。冷戦世代と言ってもいいだろう。核状況下で、滅びはいつ来るのか、今日か明日か、ノストラダムスの予言は的中するのか、など、死というものを常に漠然と感じていた観念的な不安のようなものがこの作品の背景にはあると思う。そしてそれを若い世代に共有させえているように思うのは、たぶん若い世代は日常の中に実際に死の不安を感じる機会が増えているからではないかという気がする。

草薙が司令部に怒鳴りこんで、副官が「大人げない」とつぶやいたのに対し、函南が「あす死ぬかもわからないのに、大人になる必要があるんですか」といった言葉が、一番印象に残る。この滅びの感覚が、現代に生きる私たちの多くの世代の共通感覚なのかもしれないとも思う。

キルドレという設定。思春期のまま成長が止まり不老かつ不死の存在になり、事故でも起こらなければ死なない、という特性を「生かして」戦争請負会社の戦闘機パイロットとして働く。実際にこんなことはあり得ないわけで、こういうキャラクターになぜ感情移入できるんだろうと最初は思ったが、見ているうちに、これは自分も若いころには感じたことがある感情だということに気がついた。「死なない不安」というやつだ。「死の不安」というのは昔からよく言うけれども、我々の世代からあとには「何で生きてるんだろう、何で死なないんだろう、もしかしてこのまま死なないんじゃないか」、みたいな不安がある人があるのではないかと思う。

「終わりなき日常」ということばがあったが、我々の世代には確かにそういうものはあったと思う。青春というものは、世の中とか人間とかいうものを舐めた思考をするもので、死なないということについて不思議な焦燥を抱くものだ。私くらいの年齢になると残された日数の少なさを思って一日一日がとても貴重になってくるが、あのころは信じられないような時間の浪費をしたものだった。死なないということが怖いから、死ぬということを確かめるために自殺する、ということさえあったかもしれない。わたしはその感覚は理解できるのだけど、それは虚妄だということもまた分かっていたので、そんなふうにはならなかった。逆にいえばそれだけ、若者は生きるのが大変なのだ。生きるということは決して喜びだけではない。苦しい。前に進もうとすればよけい苦しいだろう。しかし、生きるというのは苦しみながら前に進むということで、前に進むことによってのみ苦しみを喜びに変えることが出来る。まあそんなことを思った。函南が草薙に言った最後の言葉も、結局はそういうメッセージだと言うべきだろう。

死んだものが再び別の名になって甦り、戦闘機パイロットとして帰ってくる、という設定はウィキペディアなどを読むと押井守の創作らしい。あのラストは衝撃的でなかなか良くできているし、「スカイ・クロラ」シリーズ世界全体をまとめたわけではない押井のアニメが一つの完結性、閉じた輪を持つために追加されたのだと思うが、上手く原作を切り取って、一つの世界を作り上げたと思う。しかしもちろんどこかに二人の創作の整合性のきしみはあるわけで、そのあたりもまた実は隠れた見どころなのかもしれないとも思う。

ところで戦後の若者の不老幻想・不死幻想のようなものが何に起因するのかと考えてみると、本当にいつ死ぬか分からなかった戦中派の人々が何度も繰り返す「今はいい時代になった」という言葉を聞いているうちに、「彼らは幸運にも生き残ったが、当時の多くの若者は死んでしまった。ではなぜ自分たちは死なないで生きてるんだろう?」という問いを繰り返されているような気になってしまったのではないかという気がする。極端にいえば戦死者の無念の思い、記憶の残照のようなものが我々の世代の観念に照射されたのではないかということを思った。

いろいろと思いだしながら書くといろいろなことが出てくるが、森博嗣の一つの特徴は、文科系的な世界観・宗教観、哲学観のようなものに全然影響を受けていないということだと思う。よくいえば自由だ。庵野が宮崎から受けたような致命的な影響というものも良くも悪くもない。それでは森には何があるかといえば、要するに時代の空気・世代の空気というものの敏感な記憶ということではないか、と思う。その時その時を感じ取る力。子どもとして呼吸し、若者として呼吸し、大人として呼吸したその時代時代の空気というものを軽々と取り出すことが出来る。文化系的な「解釈」とか「ラべリング」をほとんど必要としないところが彼の魅力なんだと思う。それは下手をすればすごく薄っぺらくなるが、ある種の強いパッションのようなものが彼の中にはあり、それがその危険を防いでいるように思う。

小説を書くスタンスというのはその両足、時代と伝統とにどう軸足を置いてどう表現に挑むかということにあるのではないかと思う。私は歴史を専攻しておいてこういういい方をするのは何だが、実際には森に近いところが多々あるなあと思う。過去のことを人に教えるという意味で語るのは好きだが、自分の表現としてそういうことをいいたいかというと本当はどうでもいいというところが多々ある。そのギャップは自分でも説明不能だが、まあ色々生かしながら、創作を続けて行きたいと思う。

"『ナウシカ』と『エヴァンゲリオン』/『スカイ・クロラ』と「ひょっとしたら自分は死なないかもしれない」という不安"へのコメント

CommentData » Posted by みゆ at 11/05/08

とても深い考察で、感心いたしました。
わたしはナウシカの原作全巻を久しぶりに読み返して、他の人はナウシカからなにを感じるのだろうと思い、結果ここにきています。
最初、ナウシカのラストにはやはり計り知れない衝撃を受けました。腐海は地球を再生する為にある、とわかったような時点では希望がありました。しかし、腐海によって再生された世界には人々も動物も住めない。さらにナウシカは新人類の卵さえも葬った。ナウシカからすれば、わたしの感じた希望は、希望ではなかった。初めて読んでから半年はすぎて、二回目を読んだ今、なんとなく納得がいっています。しかし言葉にあらわすにはあまりにもぼんやりとした輪郭しかない確信で、うまくあらわせられません。

庭の主のいる場所には、さまざまな動植物がいますね、滅んでしまった動植物が。時がきたときのために、新人類とともに新しく地球の歴史を始めるために保存されている。わたしにはノアの箱舟にみえました。世界を一掃したあとにやり直す為に保存された生き物。
実に深い話です。
もっと多くの人に読んでもらいたいですね、原作を。
駄文失礼しました…

CommentData » Posted by kous37 at 11/05/09

>みゆさん

コメントありがとうございます。ナウシカのラスト、なかなか心の中でこなすのは大変ですよね。私もいろいろ考えましたが、結局今を生きる「汚染された」生物を無視し、「清浄な」生物の種を復活させることにより今を生きる生物を淘汰しようという考え方自体が「生に対する冒涜」であると言う結論に宮崎は達したのだと思います。ナウシカのように清浄な生物の種を皆殺しにすること自体の可否というより、人間のさかしらな意志で生態系を変えようとすることに対する強い拒絶の意思表示ということではないかと。

それは一つには、遺伝子組み換えとかクローンとか、生殖技術の発達によって思いもかけない生物が人為的に現れてくる可能性が出てきたからこそ、そういう技術に対する強い拒絶としてあの表現になったのではないかという気がします。

それはつまり、今の世界で生きるものたちを守ろうと言う強い意志であり、それを脅かすものを許さないと言う姿勢。今生きているものだけが本当に生きてるものであり、それだけを愛するのだと言うことでしょうか。

それは宮崎が、この下らない現実の世界だけを本当の世界だと感じ、それ以外の「本当の世界」を拒絶すると言う意思表示でもあるのだと思います。そしてこの苦界で生きるものたちすべてに対する応援でもあるのだと思います。

今、ここで生きることだけが本当に生きること。ファンタジー作家でありながら、宮崎のメッセージはいつもそこに収斂する。「魔女の宅急便」でも「ハウルの動く城」でもそうです。そして今、この生命に満ちた世界で生きることだけが本当に生きること。「もののけ姫」や「崖の上のポニョ」の自然への思いもそうですね。ナウシカは戦いが話の中心にあるのでその猛々しさとやさしさの相克の中から、そういう結論を導き出すわけですが、その結論が本当に正しいのかも分かりません。

ああ、でも難しいですね。

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