言葉が先に来るタイプと映像が先に来るタイプ

Posted at 10/10/14

昨日は小説の原稿の読み直し。目を皿のようにして読み直していたらかなり疲れた。森博嗣が推敲の過程が苦しい労働だ、というようなことを書いていたが、それはわかる気がする。推敲は、「直すところなど一つもない」という気持ちと「全部だめだ」という気持ちの間を行ったり来たりしながら具体的なところを直したり書き足したりして行くことになるので、天国と地獄の往復作業のような感じがする。それに書き終えてから日が浅いと目に文字が入ってこない。全部分かっている気がしてしまうからだ。

それが一週間もたつとようやく一文字一文字自分の目の中に入ってくる。そうなるとようやく少しは読者として自分の作品を読めるようになってくるし、そうなるとようやくこのあたりが少し物足りないとかこのあたりの矛盾をどう考えるべきか、というようなことを考えられるようになってくる。そういうような過程を経て直しも終了し、昨日一度完成稿を印刷してこれで行こうと思っていたのだが、今朝母に愉気をしながらぼーっとこの小説を映画化したらどんなふうになるか、というイメージを追っていたらかなり具体的な場面が目の前に出てきて、そうなるとこういう場面もはさみたいなとかこういう言葉も入れておきたい、というようなことを思い付き、部屋に飛んで帰って原稿を打ち直してプリントしなおしたりした。今回は原稿用紙で50枚弱、A4で17枚ほどなのでプリントしなおしてもそう大変ではない。まだ色々そういうプラスアルファが出てくる感じはしないでもないのだが、とりあえず今のかたちで完成ということにしておこうと思う。

本当は、今日はもう新しい作品にかかろうと思っていたのだ。しかし、なかなか新しい作品のモチーフが得られない。森博嗣を読んでいて自分に照らし合わせながら考えたのだが、私は映像よりも言葉が先に来るタイプの作者だなと思う。言葉が世界を作ったあとで、映像が追いかけて来ると言う感じだ。だから、作品を書き始めるきっかけというのも、「ある言葉」であることが多い。今回もある言葉を寝床の中で思いついてそれが50枚弱の作品に広がった。こんな言葉、ただ何の前提もなく置かれていても何が何だか分からないだろう。しかし、自分の中ではこれを作品化したい、とすごく思ったのだった。言葉が先に来て、それを言うキャラクターと言われるキャラクター、その二人の関係、その状況、という順番に世界が出来て行って、世界の設定が出来たのは最後、書きながら、という作り方になった。人間が二人いればストーリーはできる。その二人が抜き差しならない関係であれば。その関係がうまく設定できれば、物語世界は広がっていく。と、今回は思った。もちろん違う作り方もあるけれども。

そう、話がずれたが、今日は新しいものを書こうと思ってもまだ何も出て来ないんだな。最新の作品の呼吸がまだ終わっていないということかもしれないし、ある意味吐ききって空気が枯渇しているのかもしれない。自然体になろうとすると寝てしまうから疲れもまだとれていないんだなと思う。まあプロなら、多分こういう状態でも書き始めるんだろうからえらいものだとは思うが、世に出る前から枯渇してたんじゃ仕方ないのでゆっくり補給したいと思う。というわけで今日は買い物に出たついでに『天空の城ラピュタ』を借りて来た。本当は『千と千尋の神隠し』を見たかったのだが全部出払っていたので。それにしてもこれもレンタル料1週間百円か。

野口昭子『時計の歌』読了。山岸涼子『押し入れ』も読了。今朝買った『モーニング』は、どうも不完全燃焼感。「ジャイキリ」も「宇宙兄弟」も先の見えない展開に突入。「特上カバチ!」も。枯渇しているときには新しいものを読みたいので、蔦屋で森博嗣の小説と他の新書も見てみたが双方とも一行読んでいま読みたい感じのものでないことがわかり、断念。『Kiss』をちょっと立ち読みして「海月姫」の最初のところだけ読んだけど、単行本の続きとは少し離れているので読まないことにした。

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