クルミを拾う/若手としての宮崎駿/森博嗣『小説家という職業』/モチーフ

Posted at 10/10/13

だいぶ秋も深まってきて、空気が乾燥しているのを感じる。何かをしながら、水分がほしくなる。からだの感じからいえば、いちばん吸収するのは水だろうか。あまり冷たくない、水道水くらいの温度のものがちょうどいい感じがする。ミネラルウォーターでも水道の水でも、汲み置いてちょうど室温になってくらいのものが一番体に吸収される感じがする。

昨日帰郷。東京は雨もよいだったが、甲府のあたりから晴れてきて、信州は天気がよく、少し暑いくらいだった。仕事をしていても暑くもなく寒くもなく。ちょうどいい季節だなと思う。わたしは寒がりなので、仕事をしているときにはときどき膝かけをするのだが、しているうちに暑くなって、はずしていると寒くなる、ということの繰り返しだった。

収穫の秋というが、最近烏が多い。私の実家はもともと農家だったので、いろいろ実の生る木があって、朝早くから烏がナツメをついばんだりクルミをかじったりしている。それがうるさいと母がこぼしていたが、今朝庭先のナツメの木に脚立をかけて実をいくつか取って、母に食べさせた。わたしも少しかじったが、青いリンゴのような酸っぱい味で、好きな人は好きかもしれないと思った。どうせなので、裏の畑に行ってクルミを探してみると、たくさん落ちている。祖父の代には出荷もしていたのだが、今は生るに任せ、落ちるに任せ、という状態だ。ちょうど10月の真ん中のこのくらいの時期が一番いいみたいだが、クルミもちゃんと食べられる状態なのがけっこう落ちているし、クリもイガのままたくさん落ちている。本気で拾えばかなりありそうだが、少し試しに食べてみる程度の分だけ拾って下に降りた。

柿もそろそろかなり生っている。父が子どもだったころは、毎年10月の最終日曜か11月の最初の日曜に総出で柿を取ったという。このあたりの柿はみな渋柿で、そのままでは食べられない。食べるためには方法はいろいろあって、お湯でさわすとか、熟すのを待つとか、干し柿にするとか、さまざまな方法を取っていた。祖母が生きていたころは、この時期にはたくさん干し柿を吊るしていたことを思い出す。懐かしい季節だ。

しかし、今となっては秋は一年中で一番忙しい季節だ。物事を集中してやるのに一番向いている時期。なかなかそういう父祖の遺産にまで手が回らないが、ありがたいことだと思う。去年今年と、クルミの木をだいぶ枝を落としたので、生存本能でクルミが頑張ったんじゃないかという気もする。

***

昨日おとといと『もののけ姫』のことをだいぶ書いたが、まだ余韻は冷めていない。いろいろなことを考える。しかし、見たことのある人の誰に聞いてももう完全に過去の話になっていて、この作品の凄さについて語り合おうと思っても誰も乗ってこないのが残念なところだ。まあ普通の生活者にとってはたくさんあるメジャーなアニメ作品の一つなんだろうなあ。いろいろなものを見比べたり、小説やマンガや学説やさまざまないろいろなものを踏まえてみるとこれはああなんじゃないかとか、あれはこういうことだろうとか、すごくたくさんのことを発想できる作品なのだが、そういうことにかかずらわっていられるのはつまりはクリエイトを業とする人だけだということなんだなと思う。業はギョウでありゴウでもあるが。宮崎の凄いところは、そういう人でない、ものすごく多くの人をこんなとんでもない作品に巻き込むところだなあと思う。やはりこれだけ力のあるクリエイターは日本に何人もいないんだ。

時代の風音 (朝日文芸文庫)
堀田 善衛,宮崎 駿,司馬 遼太郎
朝日新聞社

帰郷の際、何冊か本を持って帰る。ほとんどは最近買った本だけど、うち一冊は『時代の風音』という対談集で、宮崎駿がホストになって堀田善衛と司馬遼太郎と鼎談している1992年の本だ。堀田も司馬ももう物故してしまった。特に司馬の死はある意味鮮烈で、阪神大震災と地下鉄サリンに大きなショックを受けて、という印象がある。堀田善衛は98年に80歳で亡くなっているから静かに飄々と死んだという印象なのだが、司馬の死は何か憤死というか、エネルギーが突然に消失して死んだ感じがある。それはともかく、宮崎はすでに当時「ナウシカ」や「トトロ」を撮って第一人者になっていたが、私はほとんど知らなかった。堀田や司馬に比べれば「若造」という感じで、「若手代表」として人生の先輩方に話を聞く、というスタンスを感じていた。今回この本を持ち帰ったのはもちろん宮崎の考え方がこの二人との対談の中でどう引き出されているかということに関心があったのだけど、どうも残念ながら真面目な若い人という感じで堀田や司馬の方が闊達に話をしているのはやむを得ないだろう。というよりも、宮崎という人が実際には本当にまじめな進歩的な左翼的な人なんだなと思う。それは今回「もののけ姫」を見ても随所に感じたけれども、作品の中にははるかにそういう次元を超えたものが噴出していて、そういうところがすごいと思う。この人の頭の中に埋まっているものすごい多産で豊饒なイメージと、外見とか言葉とのギャップ。

小説家という職業 (集英社新書)
森 博嗣
集英社

何冊か持って帰った中で、もう一冊強い印象を受け、ものすごい当たりだと思ったのが森博嗣『小説家という職業』(集英社新書、2010)。これは以前店頭で立ち読みして、買うかどうか迷って結局買わなかった本なのだけど、ちゃんと腰を据えて最初から読んでみると、立ち読みした時の印象とは全然違う。こういう本があるから怖いなと思う(立ち読みでの判断は絶対ではない)のだが、正直言って、今まで小説について書かれた本の中で一番実際に参考になる本だと思う。感じからいえば村上隆の『芸術起業論』に近いものがあるが、村上がパッション全開というか熱いのに比べ、森は極めてクールに書いているが、秘められたものはすごいという感じだ。このクールな部分を透かしてその中にあるクリエイティブな魂に触れることが出来ないと、この本の面白さは理解できないという感じだ。まあそれでも、その指摘は随所に納得できるものがあり、その納得の背後にある透徹した目と、その先にあるやはり情熱としか言えない何かをやはり感じざるを得ない。そのあたりまでとにかく冷静に書いているので最初はどうしても冷たい印象を受けるのだが、途中で全然そういう姿は嘘なんだということにはっと気づく。徹頭徹尾クールに描くことが言わばこの人の芸なんだろう。ツンデレならぬツンのみに現れる計り知れない情熱。

ただこの本は、小説家志望の誰が読んでも参考になるとは言い難いものでもある。わたしも、たぶんこの本が出た6月の時点で読んでいても、面白いとは思っただろうけどこれだけ意義を感じることはなかっただろうと思う。それはそれなりに自分の中で小説とはどういうものかという信念のようなものがあるようになったから読めるんだなと思う。そういう意味では出会いというものは時期というものがあるのであって、まさにちょうどいい時期にこの本に出会ったという感じがする。

内容は、とにかく「身も蓋もない」と思う人が多いだろうと思う。しかし、現実というものは身も蓋もない面は確実にあるわけだから、そこを避けては通れない。身も蓋もないものの前に立ちすくんで情熱が萎えてしまうようでは小説家にはなれない、ということなんだろう。それも、なぜそうなってしまうのかいろいろと原因が分析されていて、それもまた目から鱗が落ちるような思いになったところがたくさんある。

小説家になるために、というような内容の本というのはとにかくちやほやと作家志望の読者を煽るものとか、熱心に方法論を語るものとか、あるいは読んでいるうちにやる気がなくなってしまう、新しいライバルを蹴落とそうとでも思っているのではないかと思うようなものとか、まあさまざまあるのだけど、この本はそれらのどれとも違い、全く冷静に分析が進められて行き、出版界の問題点とかこれからの展望とかについても腑に落ちるような議論が展開されていて、目から鱗が落ちまくりなのだ。最初読んだ時に抱いたイメージの中には最悪の類、つまり冷静に分析が進められて結局読む人に小説なんか書いてもしょうがないよ、みたいなメッセージを送ることで終わるものではないかという懸念が少しあったのだけど、まあある意味偽悪的で、むしろ出版が滅んでも小説家と読者は生き残る、という主張にはある種の清々しさを感じた。小説家の未来は開けているのだ、そういう意味では。

まだ最後まで読んでいない。今のところ146/199ページ。最後まで読み切ってしまうのがもったいないような本だ。内容と対話しながらたぶん何度も読み返すことになるのではないかと思う。

とにかく一番大切なことは、「何をやりたいか」ということを見失わないこと。「やりたいことは何か」ということを見失わないこと。この本に書かれていないいろいろなこともすでにいろいろ考えていて、そういうふうにしているとこの本に書かれていることと自分の考えたことの境界が見えなくなってくるので、こういう書評は書きにくくなってくる。

今朝寝床の中で考えたことで、一番大事だと思うのは、モチーフ(動機)のことだった。この本にもネタ帳ということが少し出てくるが、日常生活している中で、あるいは小説の想を練っている中で、いろいろなイメージが浮かんできてそれをちょっとメモする、ということはよくある。しかしそのほとんどは従的なもので、それだけで作品を構成することはできない。しかしもちろん、それがいろいろと豊かに実っていたほうが実際に作品を作るときにより豊かなものを作れるから、そういうものをためて行くことは大事だ。しかしそれはためたところで必ず使うかというとそうでもなくて、逆に使わないイメージをたくさん持っているということが豊饒な背景を持った作品を作る上では大事なことなので、がつがつと無理に使う必要はないのだ。

しかし発想の中にはそれとは全く違う性質のものがあって、それは作品を書く「きっかけ」になる「アイディア」であり、それが「モチーフ」とか「動機」とかいわれるものなんだな、ということに今朝考えていて初めて得心が行った。それはいわば「生命の種」みたいなものなんだと思う。人間が生まれるのも、木々が生えるのも、そういう「生命の種」がその働きで必要なものを集めてきて、栄養を集め不要なものを代謝して成長し、人間や木々になるように、そのモチーフが核となって色々な設定やストーリー、キャラクターや展開を集めてきて、一つの作品という「生命」が生まれる。だからそういう意味で、一番大事なのはモチーフなんだ、ということが出来ると思う。

本当のところはもちろん作者の頭の中にあることで外からは分からない部分が多いのだが、wilipediaなどを読んでいると、たとえば「もののけ姫」はものすごいバックグラウンド、ものすごい設定、ものすごい構想力を持ったすごい作品だと思うけれども、「アシタカ」という存在がなければ物語にはならなかった。アシタカのイメージは「ギルガメッシュ」をモチーフとして生まれている、という説明があってこれはなるほどと思った。ギルガメッシュが中世の日本でいのちの秘密に迫り、自然と人為の相克と調和を求めて戦ったらどうなるか、というふうに構想は膨らんでいったのだろう。太古の森の巨大なイメージはもともと宮崎の中にあったものだと思うが、それを形にして命を吹き込むためには「ギルガメッシュ=アシタカ」という「生命の種」を必要としたのだ、と思う。

こういうブログのような文章は必ずしも「いのちの種」がないものもあって、それは何となく書き始めて何となく終わり、でも昨日と今日とのつながりのなかで自然に命が与えられたりする。私はしばらくブログだけでなく小説でもそういう書き方をしていた時期があるのだけど、どうもそういうのは読者が戸惑うようだ。いのちの入っていない人形を相手にしているような変な感じになってしまうのだろう。まあそれはそれで面白い気がしないでもないが、まずはいのちのある作品を書くのが本道だし、自分にとってもよいと思った。

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涙じゃ ないのよ 浮気な雨に ちょっぴり このほほ 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリア どうせカスバの夜に咲く 酒場の 女の 薄情け

『セーラー服と機関銃』で薬師丸ひろ子が歌っていたのを思い出した。カミュの作品のイメージとはだいぶ違う。

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