カミュ『異邦人』とサンデル『これから正義の話をしよう』と永井豪『ハレンチ学園』

Posted at 10/10/01

だんだん晴れて来た。久しぶりに青空。いい天気になれば、少しは暖かくなるだろうか。FMの気象情報を聞いていてそうだったなと思ったのだけど、今日は10月1日、衣替えだ。ここのところの雨続きですっかり寒くなっていたので時にはストーブをつけたりウールのズボンをはいていたりしたのだけれども、今日は半袖でも過ごせる陽気になるとのこと。防災無線が聞こえてくる。今日は国勢調査の日、だ。なるほど。私は住民票は東京なのでこの週末に東京に帰ったときに記入して郵送しようと思っている。なんだかんだと変わり目の日なんだなと思う。テレビは煙草の値上げのニュースばかり、禁煙の仕方などレクチャーする番組ばかりで、やっぱり日本は平和なんだなと思う。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
早川書房

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マイケル・サンデル『これから「正義」の話をしよう』を読んでいて笑ったのは、フィリップモリスがチェコで行った費用便益分析。喫煙による医療費増加を懸念したチェコ政府がたばこ増税を検討したため、フィリップモリスが国家予算に対する喫煙の影響の費用便益分析を外部に依頼して行ったところ、喫煙者が生きている間は医療費がかさむが、喫煙者は早死にするため、政府は医療費だけでなく年金や高齢者向け住宅にかかるお金など多くを軽減でき、喫煙の国家財政にもたらす「好ましい影響」は年間1億ドルを超える、という結果が出たのだと言う。これはこの本を読んでいて初めてのネタだと思ったのだが、要するに煙草は人々の寿命を減らすから国家の高齢者予算を減らせてラッキー、みたいな話になってしまい、フィリップモリスは顰蹙を買って総攻撃を受け、謝罪したのだと言う。まあこれは「功利主義の罠」みたいな話を書いているのだけど、そんなことをやってしまうところがアメリカの企業らしい能天気さだなとは思う。

異邦人 (新潮文庫)
カミュ
新潮社

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アルベール・カミュ『異邦人』読了。すごく面白かった。shaktiさんが『異邦人』は不思議な小説だ、ムルソーは同情されるべき人間ではない、という趣旨のことをコメントされているのでそのあたりも考えながら読んでいたのだけど、ムルソーはとんでもないところはあるけれどもやはり共感できる部分は多い。それはなぜなんだろうと思って関連のウェブやら解説やらいろいろ読んでいて気がついたのだが、これは要するに「自由」とは何か、ということを書いた小説なのだ、と思う。カミュは彼自身、「この小説の終わり方は他にも数十通りでも考えられる」と言っているらしいのだけど、確かにこの終わり方が彼の言いたいことに最も即しているからこういう結末になったのであって、別にこうならなくてもいいのだ、と思う。そして、私がムルソーに共感するのは、私が何よりも自由が自分にとって重要だ、と思っているからなんだな、ということに気がついた。

ムルソーは変わった人間だが礼儀正しいし、インテリジェンスもある。自分に嘘をつかない、ということを徹底している。社会に合わせられる範囲で合わせる努力もしている。そういうところが現代日本の虚無的な犯罪者とは違う。まあそういうところでカミュは共感できる要素をたくさん用意している。アルジェの街の描写など、本当に美しいと思う。そういう感性を持った男には、やはり共感してしまうのは自分の中では自然なことになってくる。

殺人を犯した動機は、太陽のせいだ、と答えたことに関しては、何というか彼自身が実直過ぎてそんな頓珍漢なことを言った、というようにみえるし、現代に多発している「理由なき殺人」みたいに大騒ぎをするようなことではないと思った。しかしこの本が出た当時は十分衝撃的だったのだろうと思うし、「きのうママンが死んだ」と「それは太陽のせいだ」という二つのくだりがこの本にすごい宣伝効果をもたらしたことは確かで、それは生活者としてのカミュにとっては多大なる恩恵をもたらしただろうけど(何しろフランスにおいて20世紀で一番売れた本なのだから)、作家としてのカミュにはどんなものだったのかは微妙だと思う。

内田樹がカミュの書いていることは身体実感だ、というようなことをブログで書いていて、それはなるほどその通りだなと思った。だからこの本に書かれている「自由」というのも、観念的なものではなく、身体的なものなのだ。そしてその身体的な自由の感覚というのが、私にとって多分何よりも大事なものなんだと思う。そこに私は共感するんだろうと思う。

つまり、ムルソーが死ぬのは「自由の殉教者」としてなのだ、ということになる。ママンが死んでも悲しまない人間は一つ間違えば死刑になる、しかし死刑になっても神の慈悲にすがろうとしたりはしないし、それを押しつけてくる者とは断固闘う。あの長々とした裁判の場面はピラトの審判を思わせる。ギロチンに関する記述が延々と続くのも興味深いが、そういえば1940年代のフランスではまだ死刑はギロチンだったのだということを思い出した。フランス人民の名で死刑を宣告されたムルソーは、ダントンやロラン夫人と、あるいはロベスピエールと同じであり、ピラトの審判によって母親の死を悲しまなかったということで断罪されたムルソーはアンチキリストとしてイエスのように死ぬのだともいえる。

ムルソーをどう評価するかはそのあたりが問題で、自由を大きな価値として感じる人間はムルソーに共感する部分が大きいだろうし、逆に彼の存在に「不正義」を感じる人は彼を嫌うだろうと思う。それはどっちもありなんだろうと思うが、要するに私は前者の方で、自由こそが本質的に希求するものだと言うだけのことなんだと思う。

で、その感じ方が問題なのだが、後者の人が多い社会では前者の生き方は「異邦人」として生きて行かざるを得ない、という感覚になるわけでそれがこの題の由来だろう。私は以前とある福祉関係の短大で「自由」と「平等」とどちらが重要な価値か、というアンケートを取ったことがあるのだが、私は無意識のうちに「自由」と答える人が多いだろうなと思っていたのだけど、ほとんど全員が「平等」と答えて非常に衝撃を受けたことがある。それこそ教室の中で自分が「異邦人」になったかのような感覚だった。まあ、福祉関係の学校だったということもなくはないだろうが、日本というのはそういう社会なんだなあと改めて思ったものだった。サン=ジュスト(彼も大革命時の人だが)に「幸福とはヨーロッパでは新しい概念である」という言葉があるけれども、同じように「自由とは日本では新しい(つまり奇妙な)概念である」と言えるのではないかと思う。

しかしまあ、これら一連の読書と検索と思索の結果、自分にとって最も重要な価値は自由、それも身体的な自由なんだということが明確になったのは収穫だった。身体的な自由というのはわりと脆いものであって、時間に「拘束」されるとよく言うけれども、本当に自由であることなど人間の時間にはそんなにない。永井豪の「ハレンチ学園」に、ハレンチ学園のハレンチぶり(小学校だからスカートめくって「イヤーン」とかおっぱい触って「エッチ!」と張り倒されたりとかなんだが)に業を煮やした「大日本教育会(だったかな)」がハレンチ学園を破壊する「ハレンチ大戦争」が起こる、といういかにも全共闘時代らしい展開がある。その中でユミちゃん(だったかな)がパンツ1枚で黒い背景の中で立ち尽くして、「なぜ?なぜ私たちは殺されるの?私たちは自由に、自由に生きようとしただけなのに!」と叫ぶ壮大な場面があり、早くも「バイオレンスジャック」や「デビルマン」を予感させる永井豪の天才ぶりが現れているのだが、私はこの場面が忘れられない。やはり自由は殺される、ということ、それでも自由でいたい、というその叫びに自分の心のどこかが共振するのだと思う。

ハレンチ学園 第1巻 (キングシリーズ 小池書院漫画デラックス)
永井 豪
小池書院

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まあそんなわけで、私の中で価値の序列がすごくはっきりして、マイケル・サンデル『これから「正義」の話をしよう』がすごく読みやすくなった。どうもどういうとっかかりでこの本を読んだらいいのか最初は考えあぐねていたのだけど、サンデルが「正義」を考えるために三つの実現目標としてあげている「幸福の最大化」・「自由の尊重」・「美徳の促進」のうちで私は自由が一番自分にとって大事だと感じている、ということを確認できた、というは重要なことだ。

私の中では自由はそのように重要なことだが、私の中で自由ということと正義ということはあまり結びついてはいない。私は自由に生きたいと思うけれども、それが正義だとは思ってはいないといえばいいか。私の中では正義というのは自己犠牲が伴うものだという概念があって、つまり正義というのはある意味「不自由」なものだと感じているところがあるので、正義は社会的な価値として(個人的な価値としてではなく)重要だと思うしそれを実践している人は素晴らしいと思うけれども、自分には無理だなと思っているところがあるのだなと思う。

しかしまあそれにも少々問題があって、そういう意味で私には正義を実践していないという引け目があるから、そういうことに対するコンプレックスが多分あるのだ。ジャスティス・コンプレックスとでもいうのだろうか。だからときどきむやみに「正しいこと」に固執したくなってしまうという現象が起こるんだろうなと思う。しかし、「自由」もまた正義を構成する重要な要素だと納得できればまたそのあたりのところも変わって来るだろうという予感はある。

まあそんな具合に、『これから「正義」の話をしよう』を読む切り口をつかめたので、読んでいきたいと思っている、というところだ。

これは少し関係ないけれども感じたこと。幸福、という概念はやはり物質的に恵まれるという要素が結構大きい。もちろん精神的に恵まれる、という要素もあるが、物質的な面によって支えられる面も大きいだろう。だから、日本が貧しいころは、幸福を実現するための社会運動や新興宗教が盛んだったし、それだけ真剣だったのだと思う。

しかし物質的に恵まれ、精神的にも、というか教育も多くの人が受けられるようになって来ると、幸福より自由を求める人も出てくる。共産主義国家でも最低限の生活もできない北朝鮮のような国では自由どころではないけれども、東欧諸国ではやはり自由を求める人々が多くなって体制崩壊に至った。そして自由もまた行きわたってくると、今度は自由にも飽き、もっとほかの価値を、つまり美徳を求めるようになってくるのではないか。まあ簡単に言えば「衣食足りて礼節を知る」ということになろうか。

人は貧しいうちは幸福を求め、豊かになると自由をほしがり、自由に飽きて来ると美徳を求める。三つの価値を眺めていて、そんなことを思った。

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