梅田望夫・飯吉透『ウェブで学ぶ』を読んで考えたこと/今なぜ「正義」が求められているのか

Posted at 10/09/19

今日は都合によりまだ信州にいる。多分、午後そんなに遅くない時間に上京することになるだろう。色々なことを考えていて、まだまとまって書けるほど考えがまとまっていないのであまりいろいろなことは書けないのだが、本当にいろいろなことが出てきていて面白い。人との出会いや本との出会い、偶然見たテレビ、そういうものが自分に色々語りかけている感じがする。早くそういうものに答えられるような成果を、世界に向かって返せるような作品を作りたいと思う。

ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)
梅田望夫,飯吉透
筑摩書房

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昨日は梅田望夫・飯吉透『ウェブで学ぶ』をずっと読んでいたのだが、啓発されるところがすごく多い。教育という問題を扱っているからか、ウェブというものが根本的にどういうものなのか、ということをすごくいろいろ考えさせられ、なるほどと気付かされるところがある。教育というのは個人の問題でありながら国家の問題でもあるし、一人の人の問題でありながら万人の問題でもある。それにどうかかわるかということは、国家にどうかかわるかということ、また社会と、あるいは世界全体とどうかかわるかという問題にもなって来る。

経済や娯楽という切り口では、自分にとってあまりピンとこないことが多いウェブの問題だったのだが、教育という問題になると自分の心の筋肉のような部分を刺激するところがある。著者たちは教育とは本来どういうものなのか、という問題をちゃんと考えて発言しているし、それが実務的なセンスで語られ、「いわゆる教育論」のような抽象や建前論に堕していない。大学が知のセンターとしてすべての知を世界の誰もが使えるように公開して行くことが使命なのだ、という発想がなかなか日本ではできないのは、日本の大学が国家や社会に有為な人材を育成すると言うところに力点が置かれているからで、それは日本の大学が欧米にキャッチアップするために作られたという歴史を背負っているからだ、という指摘は全くその通りだ。だから日本の大学は所属する人には便宜を図っても学外の人間に広く便宜を図るということには非常に消極的だ。私が文学部の大学院に通っていた10数年前でさえ、法学部の図書館では同じ大学であるのに図書を貸し出してはくれなかった。今ではもう変わってきているのかもしれないが、アカデミズムの閉鎖性というものを強く感じさせられたものだった。

教育は個人のためのものなのか、国家(あるいは社会)のためのものなのかというのは古くて新しい問題だ。「教育をする権利」が国家にあるのか親にあるのかという問題だってまだ解決しているとは言えない。アメリカではそのあたり徹底した個人主義があるためにそういう問題提起が可能で、そして個人を支援して行くことを社会が善とみなしている。そういう形で言えば日本でも善だと思うかもしれないが、その個人がどんどん大きくなって国家にも影響を与える存在にまでなろうとしている時、必ずそれを嫉妬から潰そうとする動きがおこる。出る杭は打たれるということだが、そこをうまく通過しないと本当には大きくなれない。ここでクセのある人間、高飛車な人間はだいたい潰される。アメリカでは基本的にそれは少ない。個人が大きくなることは基本的に称賛されこそすれ、悪いことだとは思われていない。日本では正直言ってそれは完全には善だとみなされていない。

しかし何と言うか思うのは、ウェブを中心とするテクノロジーの進化によって、否応なく個人の力は高まっていくだろうということだ。つまり、国家に挑戦するくらいの、そこまで行かなくても国家に守ってもらうことを期待しない、そういう個人がどんどん出てくるだろうということだ。アメリカは自分の身を守るためには武器の保持さえ善とされる、少なくとも自分の身を守る権利は認められている国で、そんな国には住みたくないなと思っていたけれども、武器はともかく、日本でもそういう個人の力はどんどん高まっていくだろう。今までは叩かれたけれども叩ききれない、そういう状態はどんどん実現しつつあるように思う。

それが最も端的に現れているのが犯罪だ。昔だったらなかったような犯罪の手段、手法がどんどん開発されて、国家に挑戦的な犯罪も比較的簡単に、あるいは安易にできるようになってきている。犯罪者がテクノロジーを駆使している時に、国家の動きはそう早いとは言えない。そういう意味では、普通の個人も力を高めて自らの身を守っていかなければならないだろう。また、そういう犯罪者の標的にされないように、自分の力を高めて行かなければならないということになっていく。ある意味で、日本もアメリカのように、自分の身は自分で守らなければならない部分がますます増えて行くということだ。その分だけ国家の役割は減少して行く。

国家が昔ほど頼りにならない、という感じは年金問題にしてもそうだし犯罪の問題もそうだし、さまざまなところで噴出してきている。ケネディは「国家が何をしてくれるかを期待するのではなく、国家に何ができるかを考えてくれ」と言ったけれども、与えられるのを待っているのではなく、国家や社会をよくするために、あるいはこれ以上悪くしないために、個人が出来ることをやっていかなければならない時代になりつつあるということなのだろう。

だから、個人の力を高めて行くこと、個人をエンパワーするテクノロジーをどんどん取り入れて個人としての力を高めて行くことは、時代の必然として要請されていることなのだと思う。今まで個人が力を得るということはつまり権力を握ることだと考えられてきたけれども、そうではない形で力を強めて行くことが重要になって来るのだと思う。

しかし、それには不安がある、と考える人は多いだろう。わたしもそうなのだが、国家というものは今まで何とか社会を運営してきた実績があって、そんなに悪いことはしないだろうという漠然とした期待がある。というか、実際に社会を仕切っている以上、一応信じておかないといけないという感じがある。しかし個人が力を持って来た時に、その個人を信じられるかという問題だ。力のある個人というと、例に挙げて悪いが先にあげたホリエモンとか勝間和代とか、どうも変わった感じがする人が多い。また木村剛のようにダークサイド(暗黒面・解説になってない)に落ちる人も多い感じがする。そんな人たちがどんどん出てくる社会ってちょっとまずいんじゃないかと思う向きも当然あるだろう。

しかし、だからここで、『正義』ということが問題になって来るわけだ。これからの時代は、国家や何かが押し付ける正しさが正義ではなくなって行く可能性が高い。戦前の政治家は、『政治は道徳の最高形態だ』と言った人がいたけど(だれだったかな)、今そんなことを言われて本気でうなずける人はそうはいないだろう。もちろんそうであるべきなのだが、現実問題として権力闘争の世界であるとか金まみれの世界であるとかのイメージが先行し、報道もそうした争いを半ば娯楽として提供している感じがある。

これからは国家でなく個人が大きな力を持って行くとしたら、そうした個人たちがいったいどういう考え、どういう信念を持って力をふるって行くかということは、すごく重要なことになっていくだろう。サンデル教授の『これから正義の話をしよう』などというものが話題になるのは、これからは「何が正しいか」ということが重要な時代になって行くからだ、と思う。人々が無意識に、「正しいとはどういうことか」をどう考えたらいいかを求めているからこういう現象が起こっているのだと思う。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
早川書房

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あまりそういう考えは日本になじまないと思うかもしれないが、たとえば福沢諭吉の言っていることはそういうことだろう。「一身独立して一国独立す」というのはそういうことを言っているのだと思う。また、戦前は社会事業を興した実業家はたくさんいた。彼らの発言は、個人が国家や社会に何をなすべきかということを考えさせられるヒントがたくさんある。戦後出てきた企業は営利至上主義で、また社会事業であってさえブランドイメージの構築という自利にこだわる面が多かったけど、それが日本の伝統であるかといえばそんなことはないと思う。

結局、そういう意味で言えば、話は元に戻るが、教育が大事だということになっていく。大きな個人が事業を興し、その利益を社会に還元して行くというのは、たとえばローマ共和国・ローマ帝国の時代に似ている。そしてそれを行った人間を正当に社会は顕彰して行く。これからの日本は、そういう形の社会になっていくのではないかという気がする。

まあそうなって行くと、福祉のあり方もまた変わっていかざるを得ないだろうし、今とは比べ物にならないほどどんどん格差も広がっていくような気がする。この分野もまた困難度が高まっていくだろう。しかし個人にできることは、やはり自分の力を高めて行くこと、しかないのだと思う。そして「正義」を実現するためには、何度でもチャレンジのできる社会にして行くことが必要だし、チャレンジする人たちを支援して行く仕組みをもっともっと作っていく必要があるだろう。今の大学は社会人の再教育・再チャレンジに関しては全然不十分だから、その仕組みをたとえば職安や職業訓練所とシェアする形ででも構築して行くというような、柔軟性に富んだやり方を実現して行かなければならないと思う。

まあそうなると、日本的なぬるま湯性というか、ゆったりした感じというのがどうなっていくかということに関して不安は出てくるだろうなあ。社会がぎすぎすしすぎるのではないかという。しかしそのぬるま湯性というのも戦後数十年たって初めて出て来たもので、本来の日本的なものとは言えない部分もあるのではないかという気がする。香山リカとかが言っていることもやっぱりわからないことはないわけで、でもそういう社会の余裕みたいなものは、個人が余裕として持っていなければ、出てこないものでもある。アメリカはきつい社会ではあるけれども、日本と違う意味での余裕はある社会ではある。そのあたりは、違った意味での新しい正義、新しい倫理みたいなものが要請されているのではないかと思う。

こう考えてみると、結局ウェブの変化という一つの技術の発達が、社会全体の色々な局面において新しいイノヴェーションを求めている、哲学的な分野にまでそれは要請されているということになる。そしてそれが本当の意味で初めて個人に求められているというのが、現代の特徴なのだと思う。ある意味、これ以上やりがいのある時代はない、ともいえる。

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