熱い人/梅田望夫・飯吉透『ウェブで学ぶ』/荻野進介『サバイバル副業術』

Posted at 10/09/15

今朝の信州は18度くらいまで下がり、普通の布団をかけていても涼しいくらいに感じた。一気に秋がやってきた。雲の感じも秋らしい。コスモスが元気が出てきて、こぼれた種から青紫の朝顔が咲いている。信州は夏から秋へ、そして冬へと駆け降りて行くような気候なので、寝床の中で、そろそろ寒さの対策もしなければなあ、とぼおっと考えていたりした。しかし正気に戻ると、さすがにまだそれは早い。朝夕は寒いくらい涼しくても、しばらくは晴れたらまだ暑い。それでも空気もさらっとしてきて、秋は確実に進んでいる。

昨日は10時半に東京の家を出て丸の内丸善に立ち寄って本を物色し、梅田望夫・飯吉透『ウェブで学ぶ』(ちくま新書、2010)を買った。ウェブと学びというテーマが面白かったのだが、少し読んだだけなのだけど梅田自身のグローバルウェブに対する考え方が実はかなり変化しているということが読んでいるうちに分かってきて、俄然興味が高まった。それについてはまた後ほど。

「大地を守る会」で昼食を買い、新宿12時発のスーパーあずさ。昨日は睡眠時間が短かったせいか車内ではほぼ爆睡。起きていた時間は『ウェブで学ぶ』『サバイバル副業術』『エリック・サティ』をかわりばんこに読んでいた。

「熱さ」について考える。この現代において、「熱い」ということはけっこう大事なことだ。冷え切った人が多いこの世の中で。人を動かすのはその「熱さ」だ。人は「熱源」を求めて集まって来る。「熱源」になりうる人は貴重だ。みな自分だけよければよかったり、自分のことさえうまくハンドルできなかったり。ワープアや派遣切り、燃え尽き症候群。人が生きている以上「熱」を持っていないはずはないのだが、その「熱」をうまく出せなくなっている。その中で、周りに熱を発散する存在は貴重だ。

その「熱源」だと感じる人がいる。その熱を求めて人は集まる。そして、その熱が人に移れば、その人もまた燃えて熱を発し、第二の熱源となる。そうしてその熱源が大きくなって行ったときに、人は、あるいは人々は何かをなしうるのだろう。俺は、俺たちは。私は、私たちは、何かをなしうるのだ、と思う。

組織というのも、会社や国家というのも、もともとはそういう熱源を中心として生まれ、そしてそれを多くの人たちで共有し、燃やし続けるために存在しているのだろう。しかし組織が大きくなり古くなっていけば、不完全燃焼を起こしたり火が消えて冷えてしまったりもする。大企業病とか官僚体質というのはそういう状態なんだろう。まわりが冷えてしまったところにいると人はやはり冷えてくる。冷めたお風呂からなかなか出られない状態。思い切って飛び出すか、冷たい水の中で耐え続けるか。でも再び温まり始めたら燃え始めた時に組織は強みを持っている。新たに組織を作るエネルギーが必要ないからだ。人はそういうことを期待して組織にしがみつくのかもしれない。っていうか、自分が学校教育の組織をなかなかやめられなかったのはそういうところはあった。

日本は、そういう冷めたスーパー銭湯みたいな大組織がどよどよとひしめいていて、風呂から出るに出られない冷めたハートの人たちが再生産されている感じがする。そのあたり、からっと熱かったり悲惨に寒かったりする発展途上国とは違う、そういう巨大な冷水塊がそこらじゅうに存在する感じがいわゆる先進国病なんだろう。

とにかくそれを突破するのは、熱い人たちが人々のハートに火をつけて行くことで日本を再び活性化して行くことしかないだろう。湿った薪に火をつけるのは大変だけど、一人ずつでもハートが熱く、そしてあったかくなっていけばいいなと思う。

2時過ぎに地元着。一度家に戻って3時半職場。10時まで仕事。色々用件が出てくる。それぞれに片づけて行く。

ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)
梅田望夫,飯吉透
筑摩書房

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『ウェブで学ぶ』。現在46/246ページ。先に書いたように、梅田のグローバルウェブ観の変化が興味深い。今までは「アメリカで起きたことは時間遅れでほかの国でも起こるだろう」と考えて来た、つまりは単線型の発展段階モデルを持っていたと言っていいと思うが、現在ではアップルやグーグルなどグローバルウェブのスーパパワーの「グローバル展開への強烈な意志」は一つの「特殊」なのであって「普遍」ではないと考えるようになったという。つまり、たくさんのローカルウェブが存在する複線型の発展段階モデルの中で覇者的存在のグローバルパワーとローカルウェブとの関係を考えて行こう、と考えるようになったということだろう。そのあたりは梅田の考え方に僭越な言い方ながら「進化」を感じた。

それは、シリコンバレーの中にどっぷりとつかってそれを普遍的な動きと無意識にとらえていたのが、日本などでも活動するようになって、またウェブが経済や娯楽、メディアや利便向上といった本質的にグローバルスタンダードが存在しうる分野から発展した局面から、教育という個々の文化に根差したローカルな形でしかありえない分野に軸足を移したことによって意識せざるを得なくなった、ということでもあるように思う。そこは梅田の書き方とは少し違うのだけど。

より梅田の言い方に近づけて言えば、マネーは各国に共通の存在だが、言語や思想・慣習はその国固有のものであり、グローバルウェブによる教育ないしは知的資源の無制限の公開こそ正義だとする信念は英米の人権思想・民主主義思想・アメリカ建国の理念からくるものであって、「経済のゲーム」は単線的に発展して行くモデルでとらえられたが、教育=「知と情報のゲーム」ではそうはいかない、と考えるようになったということだ。(余談だがグーグルに代表されるそういう信念というのが熱いのだ、これがまた。「正しい」かどうかは別にして――というのはどこかで触れると思うけど)

このあたり興味深い考察がたくさんあり、それについていちいち書きたいのは山々なのだがきりがないので、また思うことがあったらその都度このブログでも書いて行きたいと思う。

しかしこの本を読みながら思ったのは、梅田望夫という人は相変わらず熱い人だ、ということだ。『ウェブ進化論』の時も梅田の周りにはたくさんの人が集まってきて、色々な議論が巻き起こったけれども、この『ウェブで学ぶ』もまたそういう旋風を巻き起こすのではないかという気がする。熱い人の周りにはたくさんの人が集まって来る。ファンや信奉者、エピゴーネンもたくさん生じる一方で、敵性読者というか当人をくさしたり非難したりするのが目的で本を熟読するような種類の人もたくさん発生する。梅田も一時はそういうのが心底嫌になったようだったが、ということは相当水をぶっかけられて火が消えかけたような感じがあったが、ところがどっこいまたパワーアップして戻ってきた感じがある。一度メジャーになってからさらに成長するというところがこの人は本物だなという感じがする。

まあ、敵性読者も熱に魅かれてやって来る人々の一部であることには変わりない。冷静に眺めればその攻撃の中からも得るものが少しはある(何しろ相当熱心に読んでいる人もいる。読まないで攻撃するカスも相当数はいるだろうけど)はずで、そういう取り込み能力もかなり向上しているんじゃないかなという気がしないでもない。

話は少々戻るが、熱源になる人とは直接付き合うのもいいし、そんな風に著者と読者の関係としてつきあってもハートに火をつけられるのもいい。冷え切った世の中だから、そういうストーブみたいな人を極力探し出して、自分を燃やしながら生きて行くのがいいことだと思う。

ここ二三日、どうも熱に浮かされたところがあって、どうも変な感じだと自分で思っていたのだけど、色々考えたり人からメールをもらったり電話をしたりしているうちに、そうか、私はちょっと「あおられていた」な、ということに気がついた。燃える人に感動していても、その燃え方は人によって違うのだ。熱い人に自分のハートに火をつけられても、その燃え方は人によって違う。何か自分のできることをしてコミュニティに貢献する、というのもいいことだけど、自分はぶわっと燃え上がるタイプではないし(あおられるとそんな気がしてしまうことがときどきある。たましいのこととか良心のことについては私はけっこうウブなところがあるのだ)冷静にやって行った方がいい。「ウォームハート、クールヘッド」というけれど、私は「ウォームハート、クールマインド、バランストボディ」で行きたいなと思ったのだった。

良心のことをちょっと書いたけど、それは日曜に「こころの時間」で山形の基督教独立学園のことをやっていて、その印象を電話で友人に話していたら相当強く拒否反応があってそのことについていろいろ考えたりしていた、ということがあったのだ。まあこのこともまた機会があったら書くかもしれない。ただ良心のことについては突き詰めて考えて行けばいいってもんじゃない、という友人の意見(私が勝手にまとめた趣旨だが)は真実を突いていると思う。その辺は多分、一神教と多神教の根本的なスタンスの違いに関わるんだろう。ま、ある意味この番組にもあおられたところがあったんだな。本当にウブでいやんなるよ、そういうところは。

でもまあこのテーマは、さっきの梅田の考察にも関わりのあることで、単線型のモデルというのは一神教的、複線型のモデルは多神教的な世界観が背景にあるということは言える。だからアメリカの人たちとかには複線系のモデルは理解しにくいんじゃないかなとは思う。梅田だからできたことだと思うけど、でもまあ両者の橋渡しになりえる人は両者から攻撃を受けやすい人でもあるので、ある種の孤独に耐えなければならなくなるかもしれない。まあ私なんかもそういうところがあっていつも田舎と都会、ある組織の内と外、ある観念の内部と外部の両方とも分かるんだけど両方から理解されないなんてことで大体40年以上来ているから、とりあえずはご同情申し上げたいと思う。

ああ、話がシームレスでどんどん膨らんでしまうし、どうも人の話なのに自分の話に持って行ってしまうな。それは昔から指摘されていたことなんだが。

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Essential Vladimir De Pachmann
Vladimir De Pachmann
Arbiter

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パハマンのピアノ、遠くから響いてくるような感じがいいなあ。何かはまっている。YouTubeで見ていたらパハマンの葬送行進曲を聞くと不吉なことが起こるとか変なことが書いてあったが、そう言えば朝夢の中であのメロディが鳴り響いていて参ったな。でもなんというか、基本的にサロン的なピアニストだという指摘は正しいんだろうなと思う。彼はピアニスト引退後に牧場経営をし、牛乳パックを発明したというわけのわからない功績もある人だけど、奇行でも有名で、ピアノを弾きながらつぶやくという癖があったのだという。それも奇癖といえば奇癖だけど、サロンでは観客は興味深々でその言葉に耳を傾けていただろうなとも思う。それにしても、ノイズの向こうに本当の音がある。ノイズを自動的にカットできる耳にだんだんなってきている。ああ、舟歌だ。ミスタッチとかあるけど、何かこれが舟歌だよなあ…と思う。

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エリック・サティ (白水Uブックス)
アンヌ レエ
白水社

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『エリック・サティ』。自分が持っているレコード(CDはない・笑)には限られた曲しか納められてないので、もう少し色々集めて聴かないと読んでてその面白さを十分に味わえない感じがする。現在36/213ページ。

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サバイバル副業術 (ソフトバンク新書)
荻野 進介
ソフトバンククリエイティブ

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『サバイバル副業術』、読了。後半は多士済々の色々な副業の実例が書かれていて読んでいてわくわくする。アフィリエイトは私も少しはやっているので感じは分かるが、本気でやるのは相当大変だ。私はアマゾンやアドセンスなどほぼお任せのところからの収入がほとんどで、それも月にならして数千円程度だから副業というには程遠い。それでもレンタルサーバー代くらいは出るので、規制の多い無料ブログよりも格安のレンタルサーバーで嫌味にならない程度にアフィリエイトリンクを張った方がお金をかけずに自分の好きなことが出来る。

とはいえ、とまた独白をはさんでしまうが、そこが難しいのだが…私はアフィリエイトを張り始めた時は一気に読者を失った。私のようにスカした内容を書いていると、アフィリで小金を稼いでいるといういじましい印象を与えると営業的にマイナスなのだ。しかしまあ大学や企業や学校や安定した収入を得ながらやっている人と違い、事実上個人営業で暮らしていると多少でも収入になるということは実際に大きいことなのだ。私など多分見かけとは違って生活は見せないという美学でないところでやりたいという思いがあって、敢えてこんなふうにしているところもある。蛇足だと思いつつ。

アフィリエイト以外では、やはり個人的には自分の仕事に近い、ライターや原稿書き、講師などの副業に興味をひかれるが、それだけでなく自分はまずやりそうもない職種の副業も読んでいて面白い。取材した相手のわくわくした体験がよく書けてるなあと思う。

また、なるほどと思わされたのが、副業者に対する色々な形での社会や周囲の目だ。大手のフランチャイザーは「本腰が入らず、失敗しやすい」という理由で副業者に冷ややかだというし、会社側もルールにのっとって副業を申告していてもリストラの際には「他に収入を得る手段を持っている」という理由で「養っている人がいない」独身者などと並んで真っ先にターゲットにされやすいという。副業者はまだまだ「異分子」で、「その仕事に賭ける」「仕事に一蓮托生」という美学が支配するこれまでの日本社会では受け入れられにくいという実態があるということだ。

まあ、そういう意見は一理あるし、会社から見てそういう人は他に視線がぶれてないから信頼が置けるということはある。しかしある意味そういう考え方は古いなとは思う。人に対する信頼の仕方も、そういう二階にあげて梯子を外したから大丈夫だ、みたいな信頼の仕方だけでなく、(つまりは人間性に対して性悪説なんだね)志を一にしてやっている時は全力を挙げてもらうが、そうでないときはその人たちなりに人生を広げてもらえばいい、というくらいに思える寛容な信頼と自分の人を見る目に信頼を置く信用の仕方をもっとして行くべきだと思う。まあ人々の思い込み通りの基準に従って判断していればもし間違っても自分にとばっちりはないし自分なりの判断基準で判断して上手くいっても誰も褒めてくれず返って嫉妬の視線を受けるような職場環境では誰もそんなことをしなくなるだろうとは思うけど。

ああ、今日は書評よりなんか個人的な感想の吐露が多くていかんな。まったく仕事というものには、色々な思いが付きまとう。人はみな仕事というものに対していろいろな感想を持っているだろう。だから色々な人の仕事の話を読んでいると興味深いのだし、どの仕事も面白「そう」に思える。

副業サイトや公的機関での求人というものにも興味が惹かれる。フルタイムで人を雇うのは難しいが、アルバイト的に一日わずかな時間だけ、という雇い方でも逆に社会人ならできるわけだ。雇う相手の生活保障を考えなくていいわけだから。まあ具体的に考えているわけじゃないけど必要になったらそういうこともできるなと思った。

ちょっと羅列的になってしまったが、全体に言って、副業というものを考えるときの色々な要素が網羅された百科事典的な本だなと思う。派手ではないけれども内容がしっかりしている。逆に言えば、内容はしっかりしているけど地味かもしれない。あまたある職業本や雨後の筍のような新書本の洪水の中で埋もれ、流されて行ってしまうのは惜しい。

著者はあとがきで南北朝時代から兵農分離までの「地侍」に現代の副業者がダブって見える、という。いわゆる鎌倉末期に現れ南北朝の争乱で活躍した「悪党」や、戦国時代に実力で領地を切り取った国人領主たち、いわば日本の独立自営農民たちの精神を持つことが、現代を生き抜いて行くために必要な精神だという考え方には共感する。

もし日本が将来的に民主主義という体制を維持して行くのであれば、自営業者や個人業種者と並んで独立した精神を持った副業者という存在は重要だと思う。民主主義は、「独立した個人」というものの存在が原則的に不可欠だからだ。欧米では宗教的にその存在が保証されているけれども、日本では事実としてそういう存在がなければならない。大企業や政府機関といった長いものに巻かれているか、反対のための反対に終始する子どものような左翼的な姿勢では、責任を持った民主主義というものは成り立って行かない。20世紀が市民社会の堕落形態としての大衆社会の時代だったとしたら、21世紀は再び大衆から独立した個人への道をたどってもらいたいと思う。ウェブの展開もそういう方向で動いていると思うし、そうした新たな哲学が日本発で出てほしいとも思う。ウェブの哲学の背後にはカリフォルニア的なリバタリアニズムがある(梅田)というけれども、より倫理的に深い哲学を発信する文化的土壌が日本にはあるのではないかという気がする。

ちょっと話がでかくなったが、そういうでかい話に生きうる背景が感じられる本であると思う。この本を読んでもらって、いろいろな角度から感想を話し合えると得るところが多いように思う。

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