釣りと祭と社会問題/妄想大国日本はクールか/「太陽の季節」はいつまで続く

Posted at 10/09/06

昨日は「釣り」と作家の才能、というような話を書いたが、社会問題の告発、というのも結局同じような手順というか才能で行なわれているんじゃないかと思った。社会問題を訴える、というのは個々の問題について当事者が頑張っていてもなかなか取り上げられない。拉致事件などもそうだった。しかしそれが報道で取り上げられ、常識を共有する多くの国民がひどい話だと思うと問題意識の共有化が進み、政治家を動かし、社会問題として一般化されて「解決しなければならない事件」になり、社会に非難されるべき側が明確化するとメディアが連日取り上げて相手が音を上げるまで続ける、という構図になる。これはネット上での「釣りと祭」と基本的には同じ構造だ。

今朝ネットを見ていたら電車の中で騒ぐ子どもとその親に対して外資系企業に勤めるらしきOLが「みんなこれから働きに行くのだから降りてください」と迫り、親子が泣く泣く降車した、という話が話題になっていた。これもまあ、事実かもしれないけど少し「釣り」の匂いがする。いや何というか、事実であってもそれをネットに載せること自体がある種の「釣り」的な要素がある。北朝鮮によって拉致された人がいる、という事実が何も知らないままネット上に載っていてもむしろ「電波か?」と思われるのが落ちなわけだけれども、「そういうOL」は明らかにいそうだからだ。まあつまり、身近なだけに人々の不安や不満に結びつきやすい。「釣り」には向いた事例なのだ。

これと似たような話は以前、新聞の投書欄で読んだことがある。朝の東京行きの新幹線は大体長距離通勤の人の睡眠時間になっていてしんとしているそうなのだが、たまたま乗ってきた親子連れがいて、その子どもがぐずりだしたのだそうだ。迷惑そうな顔をして起きる人がちらほら出てくる。するとOLが(やはりOLということになっている)「みんな貴重な睡眠時間を確保しているのにこんな時間に子供づれで新幹線に乗るなんて非常識だ」と親子連れに怒鳴りつけたのだという。

まあこれも、今考えてみると結構「釣り」的な感じがする。この二つの話は、サラリーマンの(特に女性)の「働いている者」が「子育て中の主婦」より偉いという傲慢な意識を批判するというところに主眼があるわけだが、まあもちろんサラリーマンの意識の中にはそういう事態が起こったらやはり「うるさいな」と思う人がいるからこの話が成立するわけだ。

まあつまり「釣り」というのは非常識なことを確信犯的に書いて世間の注目を集めることを目的とする愉快犯的な人騒がせな存在、ということになるけれども、それが出来る才能というのは社会問題をアピールする能力というのと基本的には同じところがある。もちろん「拉致問題」のような大きなテーマになると才能云々よりも気の遠くなるような地道な努力やさまざまな関係先の圧力や妨害に耐える覚悟のようなものが必要になるからこんなお手軽な話と軽々に同じには出来ないが、「取り上げられるような」新聞の投書の書き方というレベルでいえば同じようなものだろう。以前、朝日新聞の投書欄で明らかに「釣り」と思われる投書がされているのが2ちゃんねるかどこかで話題になっていたことがあったが、そういう部分がある。

実際社会に出てみると、「騒ぎ屋」みたいな人は実際に存在する。クレーマーといわれているような人も実際にいる。本当に困って苦情を行ってもそういう扱いをされて憤慨するというのも実際本末転倒なのだが、そういうこともある。やっているうちに何が本当で何が作り話なのか分からなくなってどうでもいいやという気がしてくることも実際に経験したことがある。ああいう経験をしているとなんだか本当にまじめにやっているのが馬鹿馬鹿しくなってくるものだ。

常識があって初めて何が非常識か分かるから釣り師は基本的に常識を持った人だ、という話を昨日書いたが、それでもなおかつ妄想力のようなものが皆無の人にはそういうことは出来ない。こんなことが起こったらひどいよな、という想像というか妄想自体を、本当に常識的な人はしないからだ。だからこそそういう非常識を提示されると怒りを感じるわけだし。

人はリアルの世界に生きているからこそフィクションを楽しむことができるのであって、妄想の中に生きている人と現実にあまり付き合いたいわけではない。しかしそういう形で妄想の中に生きている人はどうにかして人にこちらを見て欲しいのであの手この手で注目を集めようとする。しかしそういう形でも注目を集め得るのはよりリアルに近いところ、現実に近いところにいる人たちで、現実のある種の力に近いところにいる人たちに利用されるとこれもまた困ったことになる。

民主党の代表戦など見ていると、最も現実的であるべき政治家たちがどうも何か妄想に取り付かれているのではないかという感じがするときがときどきあるが、政治が液状化してきた90年代以降――その元凶の一人が小沢一郎だという気がするのだが――、不思議な事件が政界の周りでよく起こるようになって来た。70年代の事件は「よっしゃよっしゃ」とかなんだか牧歌的だったが、80年代からは政治に絡んだ詐欺事件みたいなものが実に多い。バブルというのもなんだか妄想資本主義という感じがするが、あのころよくあった「土地ころがし」とか「地上げ」とか以来、政治と妄想とが何か密接に結びついてきている気がする。

政治は現実的であると同時に人々にビジョンを提供すべき存在でもあるから、ビジョン=幻影を見せるのが巧みな人々がより政権に近づくようになってきている。それ自体がどうこう言うことはないのだけど、そのビジョンの現実化に力不足の人が多いので小沢のような「豪腕」といわれる存在が脚光を集めることになるのだろう。これはスターリンやヒトラー、現代ではプーチンなどが支持を集めるのと、「力への信仰」という意味で同じようなところがある。それぞれの政治の結末がどうなるか、現在の政治家たちはまだ答えが出ていないわけだけど。

村上龍の『限りなく透明に近いブルー』とか池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』以来、小説の妄想化がはじまったような気がするが、現実は純文学を飛び越えて妄想化が進み、BLにしろなんにしろ大衆文化の多くの部分が妄想によって支えられ、今度はそれが輸出されるところまで行っているということは、日本が「妄想大国」になっているということでもあろう。それが「クール」かどうかは私にはちょっとわからない。

話が妄想のことであるだけにどうも私も書いていてよくわからなくなりがちで、もう少し整理したほうがいい気はするのだけど、確かに妄想は既にかなり産業化が進んでいることは確かだ。妄想の種類が「河童の三平」とかとは違うということはあるが。というかそういう傾向の一部としてそういう古い妄想も見直されているのが江戸時代ブームや遠野物語の見直しなどでもあるのだろうけど。

まあ極端にいえば、政治といえども文化といえども、すべて「妄想」から生まれたものかもしれないという側面はあるわけだ。少なくとも妄想――より穏当にいえば想像力――はそれらのものを形にする原動力であることは確かだ。しかし妄想ばかりが充満する世の中というのはやはり危ないだろう。

ネットリテラシーとか、メディアリテラシーというのも、ある意味でそういう妄想と現実、想像力と実行力や、それを結びつける企画力のようなものをいかにバランスよく観察していくかという能力だということになるかもしれない。その中から自分に必要な夢を見出したり、自分の夢を実現するための手がかりを見出したりしなければいけないのだからなかなか難しいことだと思う。知識だけでなく経験や勘などあらゆる能力を駆使しても試行錯誤があるだろう。日本の低迷、いや世界の低迷というのも、本質的にはそういうところに原因があるのかもしれないとも思う。

***

この話は大きすぎてそう簡単にまとめられない。文明批判の点から言っても相当射程の長い話だ。あらゆる文明というものには妄想は――ある種の想像力というものは――不可欠のものだなと思う。シュメール文明やインダス文明を支配していた妄想というものを想像することは難しい。現代文明の中に生きているわれわれが現代文明を支配している妄想から自由になることもまたそう簡単なことではないし、そう出来ても批判によって現代文明の進路を微調整することもまたそう簡単なことではないだろう。その微調整も、別の妄想をぶつけるやりかたと現代文明が拾い残してきた「真実」のようなものを提示するやりかたと二つあって、まあ出もそれもまた妄想的に見られたりするのもある意味やむをえなかったりもする。

この話は必然的に、常に書きかけになる。文明はいつもダイナミックに変化している。

***

昨日は結局、出かけたのは5時半頃だった。だんだん日が落ちて涼しくなってくる感じがはっきりとあった。そういえば、「太陽の季節は早く終わって欲しい」というようなことを石原慎太郎が言っていて笑った。団地を通り抜け、緑道に咲いているオシロイバナの横を通り過ぎる。駅前のコンビニや書店を少し見て回り、地下鉄に乗って日本橋に出る。朝食べている天然酵母のパンをどこで買おうかと思案して、そういえば高島屋の地下にナチュラルハウスが入っていたということを思い出して行ってみると、ある程度はあったので一安心。新御茶ノ水や神保町に比べれば日本橋は家から近いという意識がある。足を伸ばせないときはここで買えると一安心。

丸善に行ってモーニングページ用の原稿ノートを買う。一階を見て、二階を見て、三階を見ているうちにおなかが減ってきて、カフェに入る。プレミアムハヤシライスに彩り野菜をトッピング。食後、そういえばポイントが溜まっていたなと思い、商品券に交換してもらうと3千円分あった。ちょっとしたボーナス。何かヒントになる本がないかと思いいろいろ探して、けっきょく橋本治『これで古典がよくわかる』(ちくま文庫、2001)を買った。橋本という人は基本的にポストモダンの作家だと思うが、何というか徹頭徹尾時流に乗ろうという意識がなくて、それが面白い。なんか稀有な人だと思うが、そんなにブームになることもなく、本を見なくなることもなく、いつもどこかで何かの本を手に入れることが出来る、なんだか不思議な人だ。書いていることも面白いのだけど要約することが難しい。いつも見方の面白さを味わっている感じがする。

これで古典がよくわかる (ちくま文庫)
橋本 治
筑摩書房

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午前中に来るはずだった宅配便が来ず、家で待ちぼうけを食わされて、問い合わせたらどのトラックにも乗ってなかったという信じられないミス。結局、夜8時以降と指定してもう一度配達を依頼したので、8時には帰らなければならなくなった。もう少しゆっくり本を見たり誰もいない夜の街を歩いたりしたかったのだが、仕方がないのでナチュラルハウスで全粒粉で天然酵母の食パンを買って帰った。荷物は8時40分ころ届いた。

何か疲れていて早めに寝た。起きたのは6時過ぎ。朝の無意識の中でいろいろなイメージがわいて、起きてすぐ小説のプロットを書き留める。奈良時代の話。どうも、山岸涼子『常世長鳴鳥』に載っていた「水煙」という継体ー欽明王朝交代期を描いた短篇に影響を受けた気がする。ただ、考えているうちに話が長くなった。ディテールの書き方もちょっと難しそうなところがあり、さてどのように書くかと思案。

常世長鳴鳥 (山岸凉子スペシャルセレクション 7)
山岸 凉子
潮出版社

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先にブログを書こうと書き始めたらここまで書くのに2時間かかった。いつものことだがもう少し早く書ければいいのにと思う。

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