ネット上の「釣り」と作家の才能/いま自分がどこにいるのか

Posted at 10/09/05

レベッカ・ブラウン『若かった日々』読了。最後の方の数編は内面心理の動きみたいな感じの作品で、あまりよくわからなかった。こういうものは、あるとき急に思い当たることがあるかもしれないし、一生思い当たることもないものかもしれない。なんとなく心に引っ掛かりができると、いつかそれがそういえばあの本は、と思うことになるけど、そういう引っかかりもあまり残らない感じの作品だった。しかしそういう全く忘れ去るような作品でも、忘れ去った後でもう一度読み直してみるとすごく心に残ったりすることもあるので分からない。読み直してみてもよくわからないことも多いけど。

若かった日々 (新潮文庫)
レベッカ ブラウン
新潮社

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今日は午前中にブログを書いて、午後は別のものに取り組もうと思っていたのだけど、そうはいかなかった。いくつかネタはあったのだけど、どうもあまりいい材料じゃない。というか、それについて書くと心が荒みそうな感じのする材料だったのだ。あまり調子の上がらないときなど、ついそういう題材で書いてしまうことがある。逆に、自分が調子がいいと思っているとそういう題材に引っかかってしまうことがある。今日など、正直言ってなかなか書く素材が見つからなかったので、それについて書くかどうかはずいぶん迷ったのだけど、結局書くのはやめた。で、そのことで迷ったことを題材に結局は書いているわけだから題材などというものは何に注目するか、どういうスタンスでそれを見るかだけが問題で、いくらでも出てくるものなのだということはわかる。

友達も選んで付き合わないと危ない目に会う、特に異性の友達は、ということはあるが、文章の題材も似たようなところがある。書いても自分に得るところが残らないものもあれば書けば書くほど傷つくようなものもある。もちろん何か依頼されて書くときにはそういうものについて書かなければならなくなって切り口に苦労したりするわけだが。

といいつつ少しそのことについて書いてみよう。ネットを見ていると心が荒んでくる感じがすることがある。いいものだ、と思ってみているうちにだんだんイヤなものが混じってくる、その境目が微妙だからだろう。上澄みのきれいな部分だけ飲んでいるうちに下の方の不純物の多いいがらっぽい部分も飲んでしまうことになる、というような感じだろうか。出版物は売られているシャンパンのようにちゃんと澱を除去して美味しいところだけ飲ませてくれる(そうでない場合もあるけど)けれども、ネットの記事は美味しいところも見て損したと思うところも玉石混交だ。何か面白いことがないかと探しているときがいちばん危なくて、面白そうだと思って読んでいるうちに変なものを読まされていることが多いし、気がつかずにそういうものを読んでいるうちにこちらもなんだか変になっていたりする。正気に戻るのに少し時間がかかったりする。

発言小町などはつい関心が引かれてしまって読んでみるととんでもない発言があっておいおいそれはないだろうと思っているうちに憤激した人たちがどんどん書き込んでさらに変な反応が重なってすごいことになる、ということをときどき見聞きする。教えてgooなどにも最近そういうのが流れているようだが、いわれてみてそうだったのかと思ったのが『釣り師』の存在だ。中には『カリスマ釣り師』なるものがいるらしい。そういわれてはっとした。

ネット上でよくある、非常識な発言をしたり、「こういう非常識な行動をしたけど私は間違ってないと信じている」的な発言というのは、どのくらいだかは知らないけれどもかなりの部分「釣り師」、つまりそういう話を創作して掲載し、常識人を憤激させる人によって書かれているらしい、ということだ。実際にそういう人の話を聞いたことがあるわけではないのでよくわからないけれども、確かにそういう「創作」として書かれているとすると、すごくよく出来ている。言われて見ればすごく作意が感じられて不自然だったりするのだが、一見してまじめに書かれていると思ってしまう、というものは結構ある。

日本人がユダヤ人のふりをして書いたり、インド人のふりをして書いたりした作品がときどきあるけど、あれは日本人がどういうことに敏感に反応するかということを心得ていないとかけないわけで、実際のユダヤ人やインド人には書けない作品だ、ということに途中で気づいたりする、そういうことと同じだ。

私が読んだのは、教えてgooにあったものだが、本屋で雑誌の夕食のレシピを携帯で写メしていたら店員にやめろと「強要」され、店を追い出されて悔しいから訴えてやる、何も法律違反はしていない、みたいな内容だった。著作権的な常識から言えばとんでもないことだが、立ち読みして覚えれば問題ないけど写メを取るのは常識的にやりすぎ、でもやってるやつはいるよね、というようなこと。強くいう人は「デジタル万引きだ」と非難するし、逆に「そんなことで店を追い出すなんて許せない」という人もいる。まあ後者は釣り師本人、またはその加勢者だろうけど。その投稿者も「友人の弁護士に相談すると法律的には問題ないといわれた」とか書いていて、そのあたりが実に釣り臭い。そんな非常識なことを言ったり書いたりする人間に弁護士の友人がいるだろうか?

で、これは「釣り」だ、と私は判断したわけだけど、なるほどといろいろ考えさせられた。そういうことを面白がる才能、あるいはそういうことを書ける才能というのは何かと考えてみると、常識人の「常識の虚」を突く才能で、つまりは作家の才能に類したものだ。何が常識を外れる行動だと判断されるかということをちゃんの認識しているからこそ書ける内容なわけだ。本当に非常識な人間にはその当たりが判断できないから憐れまれるようなことは書けても怒らせるようなことはなかなか書けない。

山岸涼子を読んでいるといつも思うのだけど、山岸は「こうなったら嫌だな」という感じがすることを実にうまく掬い上げて話の展開に取り込んでいく。読者としてはイヤなものはちゃんと解決して欲しいから、先を読まざるをえなくなる。そしてそのイヤなものがそれなりに解決していくことによってカタルシスが残るし、そのイヤな部分、常識の虚とか感情の普段意識していないようなところを暗闇ですっと触られたような感触が残って、山岸ってすごい作家だなあと感心させられる、という感じなのだ。

まあ山岸さんは基本的にイヤなものを解決してくれるから読む気がするのだけど、「釣り師」は解決などはなから考えないで事件を起こして面白がるたちの悪いトリックスターみたいなものだ。「ひろゆき」などはちゃんと実名を出してみんな(特に企業とか)に嫌がられたある意味明るいところのあるトリックスターだったが(ネットの成りあがりの人々とか基本的にそういう性格だな、考えてみれば)「釣り師」は自分はネットの海の深海にうごめいてステルス的に騒ぎを起こして楽しむという意味ではやっていることがあまり明るくない。でも発想そのものは作家的な才能といえなくもない。寺山修司のやってたことも結構めちゃくちゃだったし。いや、もちろん彼は顔を出してちゃんと逮捕されたりしてた。作家になれるかなれないかは表に自分を出す覚悟があるかないかの違いなのだろう。
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古楽とは何か―言語としての音楽
ニコラウス アーノンクール
音楽之友社

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アーノンクール『古楽とは何か』を少し読む。1720年代の音楽は、1750年代の演奏法で演奏してはならないという話。こういう話はいわれてみれば最もだと思う。アーノンクールの実践というのはどの程度なのだろう。バッハの時代は鍵盤を弾くのに親指を使ってはいけなかったと『ピアノの森』に書いてあったが、テレビでチェンバロを弾く人を見ていてもたいてい親指は使っている。まあこれは疑問として残しておこう。

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常世長鳴鳥 (山岸凉子スペシャルセレクション 7)
山岸 凉子
潮出版社

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山岸涼子『常世長鳴鳥』(潮出版社、2010)読了。70年代から90年代にかけての読みきりを集めたもの。現代を舞台に、親子・兄弟の愛憎を描いた作品が多い。いろいろな書き方、いろいろなテーマ、いろいろな構成の仕方をそれぞれ試していて、短篇の書き方の一つのお手本的な感じがする。キャラクターの性格付けがはっきりしていることと、男と女のどちらともつかないものに対する関心、が山岸の特徴というか原初的に「書きたいこと」なのかなという感じがする。『日出処の天子』はそれが成功した例だが、この作品集でもボーイッシュな女性が実は半陰陽だったとか、マドンナ的な女子が実は子供のころいじめられた悪ガキ(当然男だと思っていた)だったとか、そういう形で現れている。兄弟間の、親からの関心の多寡に原因を発する葛藤を描いた作品が二つあるのがちょっと印象的だった。

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まだ考えがうまくまとまっていないのでラフだけ書いておくと、人間の考えることというのは、というより私の考えることは、といった方が考えやすいが、二通りあるように思う。ひとつは自分に関することで、一つは自分以外のことに関することだ。どちらかというと、鬱っぽいときは自分のことばかり考えるし、躁っぽいときは自分以外のことばかり考えるという傾向があるようだ。

このブログを読んでくださっている方なら既にご承知のことと思うが、私は相当自分のことばかり考えている。その割には自分をよく見失っているのだが。というよりも、自分を見失ってしまいがちなのでその断片をたどるのにいつも苦労していると言った方がいい。自分の奥に向かう目と自分の外に向かう目。その向かわせ方は人によって違うにしても、方向としてはその両方をどんな人間でも持っているだろうし、その両方がなければいわゆる「正気」の状態ではないだろう。で、心のバランスの悪い人というのはたぶんそのバランスがうまく取れないことが多いのだろうと思うし、私なども相当どんなものかと思うことがある。

「自分とは何か」を考え始めるとこれがまあ抜け出しにくいのは、考え始めると自分の外のことに基本的に関心がなくなる――自分にいい意味で関係のありそうなことに関しては別だが――その判断も怪しいが――からだ。自分の中の自分自身をひとつの存在としてつなぐの論理みたいなもの、自分を動かす源泉みたいなものを見失いがちであることは何度も書いているが、昨日書いたようにその根本が「文明批判」にあることはこれは確実だと思っている。

まあ文明というのはわかったようでわからない、また一筋縄で太刀打ちできるようなものではないのでその技を磨いていくしかないわけだが、考えてみれば子どものころから辺境に憧れたのも、物語の世界に憧れたのも、芝居をやったのも映画や美術が好きだったのもそこに文明批判的な要素と批判する技術の巧みさのようなものに魅かれた部分が大きかったのだと思った。それが演劇そのものや美術そのものに対する関心とどこかで自分自身が勘違いしてしまうことが多かったのだと思う。文明を批判することで、文明の中にどっぷり漬かっていてはわからない真実のようなものが少しでも見えてくればいいなというのが自分のしたいことで、それは文明の中に漬かっていると見えてくる真実というものとは少し違う。それはそれで面白いところも多いのだけど、それはプラスアルファだ。そんなふうに何が本筋で何がプラスアルファなのか、ということの判断をすぐに間違えるというのがまあ自分の弱点だなあと思っている。

一方で、私は「関心」ということに関してはいろいろなことに、子どものころは「何でも」といっていいくらいたくさんのものに関心を持って、少し見えてくるとすぐ飽きる、ということを繰り返していたけど、結局は自分自身とうまく接続することの出来ないものは続かないのだ。しかし、関心だけはどんなことに対しても持てる。で、その世界に行ってしまうと自分がなんだったのかすぐわからなくなってしまう。つまり迷子状態になるということだ。その世界の論理あるいはその人なりの理屈みたいなものをすぐ吸収してしまい、それとうまくやろうとするために自分自身が持っている論理や理屈とうまくやれなくなる。うまく妥協させられればいいのだけどこれはなかなか難しい。しかし、自分が何か作るつくり手であるときに、自分が持っている価値基準といえばいいのか、考え方のものさしとでもいえばいいのか、もっとたましいに近い何物かみたいなものは放棄できない。その強さは、自分のたましいというか本体というか自分自身に近いところにいるときはもてるのだが、自分から遠くはなれたところに遠征に行くとなかなかうまく振舞えなくなる。たましいの自然とでもいうべきものがあって、違うフィールドに行くとやはり勝手が違う。

自分自身に対する求心的傾向と遠心的傾向。その両方があって、なかなかその折り合いをつけるのが難しい。自分のことばかり考えるのに飽き飽きするから違うものを求めることもあり、旅先で自分を見失うから必死に自分自身を探して中心にもどろうとすることもある。ある意味それは聞き分けのない子どものような部分が自分の中にいまだにあるということなんだろう。

大事なのはおそらく、常に自分のいる位置を意識していることなんだろう。ここが東京駅だと認識していれば家に帰るのには地下鉄に乗ればいいし、京都に行くのには新幹線に乗ればいい。いつもどこかに行くことに夢中になるばかりで今どこにいるのかがよく分かっていないことが多いということが問題なのだろう。自分の居場所を確認する。それが本来、モーニングページの役割なんだろう。まあ私の場合は結果的にブログもそういう部分が大きいのだけど。

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