市川海老蔵

Posted at 10/08/29

テレビを見ていたら、市川海老蔵を取り上げた『プロフェッショナル』の再放送をやっていた。最初は見るかどうか迷いながら見ていたのだけど、結局最後まで見た。最初から見ればよかったと思うし、録画できればしたかったとも思う。この、十一代目市川海老蔵という役者を、私は今まであまり買っていなかったのだが、この番組を見て一度に認識が変わった。いろいろ行儀が悪かったりすることもあるが、彼は戦っている。始めて勧進帳の弁慶を演じることになった初日の前日、彼は口論の末家を飛び出したのだそうだ。そして、もし帰ってこなかったらその場で役者生命は終わりになる、と父の十三代目団十郎は覚悟したと語る。しかし彼は自分でもなぜかわからないうちに家に帰り、父の枕元に立ったのだそうだ。そしてそのとき交わされた会話は、誰にも言っていないのだが、それが彼の役者としての性根をすえさせるものになったらしい。いい話だと思う。特に、誰にも言っていないというところが。

自分がどんな役者として評価されるか、生きているうちには評価は定まらない。死んでからが勝負だ、と彼は言う。これにはちょっとたまげた。多分彼は、今後もいろいろな評価が付きまとうだろう。私だって、彼の演技のすべてを評価するわけではない。彼は、表情で演技をしすぎる。目鼻立ちがはっきりしている彼が表情を作りすぎると、隈取をした顔では滑稽なくらい大袈裟だ。歌舞伎というのは古風でなければならないところがあると思うし、古風であると言うことはすなわち「無表情の美」でなければならないということだと思う。能役者も狂言役者も表情は作らない。型としての表情はともかく。昔の力士が表情を変えずに勝ち名乗りを受けたのと同じように、歌舞伎役者の表情の演技は原則的には無表情な、型の演技でなければならないと思う。しかし、父親がフランス人であったとされる十五代目市村羽左衛門のように目鼻立ちのはっきりした彼の表情の演技は少し生々しすぎる。まあそれはこれからのことかも知れない。しかし彼のやっていくことのすべてが、死んでからの役者の評判記として語られる、それを前提としてやっていくというのなら、つまり自分の一生を歌舞伎の歴史に捧げるということで、歌舞伎は一つの大黒柱として大きな存在を手に入れたということだと思った。

一度舞台に立ったら、役者はすべてを信じなければならない。自分の演技を信じ、スタッフを信じ、演出を信じ、観客にすべての意図が伝わると信じ、自分は演じるに値する作品を演じていると信じる。その海老蔵の言葉には感動させられるし、その通りだと思うし、「芝居ってやっぱりいいなあ」と思う。アマチュアとはいえ、すべてを芝居に賭けていたころのことを思い出す。社会にでて一番違和感があったのは、信じるに値するとは思えない人たちと共同して、信じるに値するとは思えない人たちを相手に仕事をしなければならないことだった。まあ、そんなことは置いておこう。

やはり東京は暑い。しかし暑くて肌の露出を多くすると思いのほか冷える。どうもバランスが難しい。

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by Luke Peterson

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