夏は終わらない/抗がん剤の副作用/死刑場公開/村上春樹「貧乏な叔母さんの話」

Posted at 10/08/28 Comment(2)»

いつもの年ならこの時期は「夏を惜しむ」という感じになっているのに、今年ばかりは全然そういう気がしない。いつまでたっても8月だ、という感じがする。基本的に夏が好きな私がそう思うんだから暑いのが苦手な人はさぞや、だろう。それでも長野県にいるときは朝夕は涼しいので布団などちゃんと書けて寝なければいけないのだが、今朝など掛け布団はどこかに言っていて寝冷えしていた。そう言えば、「寝冷え」とか「湯冷め」とか、懐かしい言葉だ。自分がそう言う言葉を使うことはあっても人からあまりそういう言葉を聞かないのだけど、最近はあまりそういう言葉を使わないのだろうか。

家庭の医学 (朝日文庫)
レベッカ ブラウン
朝日新聞社

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レベッカ・ブラウン『家庭の医学』を読み進む。106/169ページ。短いセンテンスで情景と心情が描写されていく。ニュースのテロップを読んでいるようだ。そういえば、レベッカの朗読はどこかニュースのテロップに似てる気がする。あの短いセンテンスの中に、いかに多くのことが詰め込まれているか。レベッカの小説というのは、そういう一つ一つのセンテンスが一つ一つの知らないニュースの積み重ねみたいに感じて、前半は読みにくく感じることが多い。しかし、どこかで山を越えると、今度は雪崩のようにセンテンスが急流を下っていく。そしてどこかにたどり着くのか分からないうちに、いつまでも轟々とすべてが滝のように降り注ぎ続ける、というイメージがある。

文学的な感想とは言えないが、抗がん剤の治療のところで口の中から内出血する描写があったが、それは抗がん剤ががん細胞のように増殖速度が速い細胞にダメージを与えるからで、増殖速度が速い細胞は口の中の粘膜細胞のような正常な細胞でもダメージを受けるからなのだ、ということを知って、そうだったのかと思った。抗がん剤の副作用は恐ろしい。私の父が14年前だったか胃がんの手術を受けて、ちょうどそのころ『患者よガンと闘うな』という本が出されていて、手術を受けた後その本を読んだ父は抗がん剤による治療を断って何もしなかった、ということがあった。結局、父はそのあと13年以上生きてがんでない病気(結局何という病気なのかよくわからなかったのだけど)で死んだので、その選択は正しかったと思った。まあ、もちろんあまり転移がなかったから上手くいったということもあるんだろうけど。就職のときに世話になった先生ががんの治療をしているときにお見舞いに行ったことがあるが、抗がん剤の副作用がきつくてもう生きていたくない、と言っていた。その先生は間もなく亡くなったが、生きる力を奪うような治療が治療と言えるのだろうか、と疑問を持ったことがあった。まあそれらは私が見て来たことなのだけど、このあたりの記述を読んでいると抗がん剤治療というものには複雑な思いを持たざるを得ない。

レベッカの実録もの、特に看病ものはそんなふうに、時間が速やかに過ぎて行く感じがする。その背後に大きなものが隠れているのが、だんだん意識せざるを得なくなって行くのだけど。

夕食を食べながら報道ステーションを見ていたらいきなり東京拘置所の刑場の写真が映されて、思わずチャンネルを回した。さすがに食事をしながらそんなものを見たくない。すでにネットで見ていたから情景自体は目に映っていた。そういう情景を見ると、死刑囚の心情とか、死刑囚が殺した相手に対しどう思っているかとか、色々なことを考えさせられてしまう。中国やイスラム諸国などと違い日本では殺人が絡まずに死刑になることはないわけだから、死刑になるということは必ず人を殺しているということになる。いのちの重さなどというものは測れないが、そこで行われていることによって、日本社会というものが保たれていると考えている人は多いだろうし、もちろん基本的には私もそう考えている。しかしそのために死刑という方法がベストかどうかは難しいし、議論がないのもまたおかしいだろう。死刑を廃止したら犯罪者に有利過ぎるし、死刑というのは犯罪者に酷過ぎる、というぎりぎりの線が多分あって、それはどちらを取れば正解でそうでなければ不正解というような問題ではないんだろう。また死刑制度のない国では終身刑というものがあって、終身刑という刑罰はそれを監視する方も大変だし、希望のないまま何十年も刑務所の中にとどめ置かれるということとそういう一生を物理的に終わらせることが出来るということとどちらがより恩恵かと言うとそれもまた一筋縄ではいかない。裁判員制度の始まり以来、一般市民もそういうことを考える義務のようなものを分配されるようになってきているわけで、今回の刑場公開もそういう動きの一環なのだろう。市民社会においては避けられないものなのだろうけど、考えさせられるものであることは確かだ。

昨日の午後、思い立って岡谷の書店に出かけて探したら、村上春樹『中国行きのスロウボート』が見つかった。で、ネットの友人にmixiで紹介された「貧乏なおばさんの話」だけ読んだ。ああ、村上の問題意識、この時期の。でも今でもそういうものってあるな、いろいろな形に変化しつつ、と思った。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)
村上 春樹
中央公論社

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貧乏なおばさんは、エルサレムスピーチで言えば、システムに傷つけられた個人、つまり壁にぶつかって傷ついた卵だ。村上は、「常に卵の側に」と言っているわけだから、もちろん「貧乏なおばさん」の側に立ちたいと思っている。だから、貧乏なおばさんの話を書こうと思ったのだが、村上には――いや、作中の「私」には、親戚に貧乏なおばさんはおらず、具体的に知っていることは何もない。貧乏なおばさんと言うのは、この作中では「戦争――もちろん第二次世界大戦だ、この作品は1980年のもの。戦後35年。戦後65年の今と、「戦争」に対するリアリティはやはり違う――で夫を失ったり自分も傷ついたりして「貧乏」になったおばさんたちのことだ。しかし「つれ」に「今のあなたには何一つ救えないんじゃないかという気がするわ」と言われる。

そう、「救う」というスタンス。上から目線。ボランティアとかにありがちな。「部外者」の自分が、「貧乏なおばさん」を「救ってあげる」。それはどういうことなのか。

この問題、実に面倒くさくて、そういうところがボランティアとかを自分が避けてきた理由にもなっている。「気の毒な人のため」に「余力のある人」が労力なりお金なり何なりを提供する。それは基本的には善意で成り立つ行為だ。しかしそこには宗教団体から政治団体、さまざまな思想家が流れ込んだり、行政が義務的に介入して杓子定規にわけのわからないことをして状況を混乱させたりする。上から目線の人もいれば、「恵まれててすみません」見たいないやに卑屈な人もいるし、ボランティアを受ける側も――私が付き合ったことがあるのは身障者の補助だったけど――自分が身障者であることを利用して少しでも多くのものを得ようとしていたり、なんだかイヤになってしまった覚えがある。

まあそれも三十年近く前の話で、今ではもっと明るく素直な青年たちがはきはきとやっているんだろうなと思うのだけど、いずれにしてもどうもそういうのは苦手だ。

村上にとって、「貧乏な叔母さん」を「救う」とはどういうことなのか。mixiでやり取りしてなるほどと思ったが、「貧乏な叔母さん」のバリエーションが、『1Q84』に出てくるNHK集金人のお父さんとか、社会の裏側を這いずり回っている牛河さんとか、なのかもしれない。そういう人たちを「救う」というのはどういうことなのか。少なくともそれは、村上がボランティアに出かけるという話ではない。まあ考えてみたら、「貧乏なおばさん」たちだって一生懸命人に頼らず生きているわけで、そう考えたら「救う」と考えること自体ある種傲慢だと言うべきなのではないかと思う。

まあでもつまり、彼の「救う」ということは「書く」ということを通してのことで、この話の最後で「貧乏なおばさんたち」の国ができたら、自分は詩を書いてその国の桂冠詩人になれれば、なんてことを言う。救うことはできないけど、彼女らのことを歌うことが出来たら、と。

それが「卵の側に立つ」ということなのかなとちょっと思った。そして、牛河にしてもNHKのお父さんにしても、村上の小説に書かれることでどこかその存在が昇華しているところがあるなら、そういうことをできればいいと村上は考えているのかもしれないと思った。もしそれが本当にできるのならば、それが「文学の力」なのかもしれない。ほんとうにできるのならば。

"夏は終わらない/抗がん剤の副作用/死刑場公開/村上春樹「貧乏な叔母さんの話」"へのコメント

CommentData » Posted by shakti at 10/08/29

>「貧乏なおばさんたち」の国ができたら、自分は詩を書いてその国の桂冠詩人になれれば、なんてことを言う。救うことはできないけど、彼女らのことを歌うことが出来たら、と。それが「卵の側に立つ」ということなのかなとちょっと思った。

これは、僕の個人的な受け止め刀のだけれども。

パレスチナ難民に武器を定めるひとり一人の兵士というのも、そこを深く追っていけば、実は卵なのであって、卵の側に立つというのはいわゆる弱者に限られるのではないような気がします。つまり、むしろシステム論的発想で戦略を練る立場ではなく、ましてや第三者的に審判を下す者ではなく、それに翻弄される個々の人間であれば、卵ではないのでしょうか。

牛河が副主人公なのも、なんていうか、悪役兵士を卵として描いたわけですし。

CommentData » Posted by kous37 at 10/08/30

そうですね。shaktiさんの関係で言えば、植民地のネイティブだけでなく支配者の白人もまた卵だ、ということでしょうね。1Q84の教祖ですら卵だと思いますし。逆に殺害指令を出す老婦人やタマルはどうなんでしょう。むしろそっちの方が壁的に描かれている気がします。

結局ね、作家というのは、あるいは詩人というのは、「それを歌う」ことによってしか現実に関わるすべはない、というのが村上の言いたいことかな、という気がしたんです。それが作家の最大限のアンガージュマンだと。

デタッチメントからアタッチメントへ、という流れで言えば「貧乏・・・」はデタッチメント時代ですね。だからそういう「何も出来ない」という結論になったのかな。今同じことを書こうとしたら別の結論になったのだろうか。もちろんそんな直球のテーマでは書かないだろうけど。

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