独占欲の地獄/「なんで私の言う通りにするのよ!」/システムに乗るか乗らないか
Posted at 10/08/26 PermaLink» Tweet
レベッカ・ブラウン『私たちがやったこと』の「アニー」まで読了。ここまでで、「結婚の悦び」「私たちがやったこと」「アニー」で三つ。それぞれが、書き方の異なる作品。正直言ってここまで、何が書かれているのかあんまり見当がつかないで読んできて、でも最初の二作はそれなりに面白さを感じながら読んでいたのだけど、「アニー」に来て完全にわけがわからなくなったので、ネットで検索して他の人の感想をいろいろ読んだり調べたりしてみた。で、なんというか驚いた。
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「結婚の悦び」はシュールな話で新婚旅行に行って主人公の女性が夫と二人きりになれると思った瞬間からどんどん客やら友人やら一般人が現れて夫と二人になれなくなり、それがどんどんエスカレートして行くという話で、なんかシュールで躁狂的な話だなあと思ったのだけど、ネットで感想を読むと「この独占欲の地獄っぷりがすごい」という評が専らで、なんだかあっけにとられた。
「独占欲」。そうか、なるほど。そう読むのか、と思う。そういうふうに言われてみると何というか腑に落ちるというか、なるほどねえと思う。自分には何というか遠くのお堂で鐘が鳴っているような感じがするのだけど。「独占欲」か。どう読んだらそれを感じられるんだろうと思う。主人公の女性を男にして、いつまでたっても新しい嫁さんと二人きりになれない、という状況を考えてみると、なるほど少しは分かる。そりゃいやだろうな。いや、女性が主人公の話だからわけがわからず読めたんだろうと思う。男が主人公だったら読んでいるうちに嫌過ぎて読めなくなった可能性が大きいな。
しかし「嫌だ」と思うとは思うが、それを「独占欲」ととらえるかどうか。好きな人と二人きりでいられなくなったらただ単に生理的に嫌だとは思うけれども。そういうのを独占欲と言うのか。うーん、つまりあまりそういう用語を自分の本能とか欲望とか感情とかの問題としてとらえたことがなかったんだな。そして、よくわからないけど女性の多くの人たちはそういう問題を自分の問題としてかなり実直に、あるいは深刻にとらえて来たということなんだろうなと思った。
女性と男性とどちらが独占欲が強いか、という話があるが、あんまりどうかと思う。つまり一つの尺度で測れる問題でもないし、また測ったところで男女とも強い人も弱い人もいる、というくらいの結果しか出ないだろう。また、こういうことは社会的な仮面を被る部分も大きいし、ということはあまり曝け出したくない(少なくとも私は嫌だな)と感じることだろう。
男の多くは多分、女を独占することを「当然だ」と思うから、それを欲望だとは考えないんじゃないかという気がする。つまりその部分に関して、自分を客観化してみていないことが多いのではないかという気がする。まあ無意識・無自覚というものは周りの人間にとっては迷惑なことが往々にしてあるので「当然だ」=「強い意志として貫く」ということになるから困られるケースも多いんだろうな。また「当然」なことが崩れてしまえばそれはアイデンティティの崩壊にもなるわけで、そういう意味でも本人もどうしようもなく辛いし(しかもなぜ辛いのか理由がよく自覚できない)周りも困るだろう。
逆に言えば、女性はその問題についてたぶん、いつも考えさせられているということなんじゃないかと思った。まあ私がそのあたりにピントが合わないのは最近そういうシチュエーションが欠乏しているということもあるだろうなとは思う。何というか、そうかこれが女性の独占欲というものなのかとなんか珍しい動物でも見るような感覚になっているので。
女の子というものは摩訶不思議なものだ。摩訶不思議と感じる私はつまり「女性の気持ちの分からない男」だということになるんだなと思う。それもまずいので、まあちゃんとこの作品を味わっておかなければならないなあと思う。何かそう書いてもただのいけずのような気がしてしまうけど。
「わたしたちがやったこと」も独占欲というフィルターを通してみると「セキュリティのために」目と耳を潰した、というのも別の見え方をしてくる。人間が二人の愛の世界から社会にはみ出して行くことを独占欲は許さない、というのをある種の特殊な状況を設定することによって純化した、というふうにも読める。独占欲と愛は、あるいは恋愛はどこまで重なってどこから違うのか。でも、「結婚の悦び「あなたが望むからそうした」」もそうだけど、「恋人を見せびらかしたい」という欲望もまたかなりきつく現れていて、それがどういう意味を持つか。「アニー」になると独占欲より見せびらかし欲望の方が強く現れている。
「アニー」は読んでいて何がなんだかよくわからなくなったのだが、アニーと「私」は同じ人間、という解釈がけっこうネット上にあってああそういう見方もできるのか、と思った。でもいろいろ調べてみると、原題の"Anny Oakley's Girl"にある「アニー・オークリー」というのは「アニーよ銃をとれ」のアニー(実在した)だということが分かった。そうなると、「アニー」はこの西部劇の早撃ち女の幻影というか、劇中人物への恋慕、あるいは空話、ということになる。つまり、「私は坂本竜馬と旅行した」みたいな話だということだ。
厳密に言うと、登場人物は「私」と「アニー」、それから9歳くらいのウェスタンマニアの少女である「私」の三人ということになる。そのころの「私」はウェスタンが好きで好きでたまらず、「ウェスタン」(テーマパーク?)やウェスタンストア、ワイルドウェスト・ショーに連れて行ってもらうのを無上の楽しみにしている。ショーでは特等席に座らせてもらったりするが、実在のアニー・オークリーは恵まれない子供たちをショーに招待したりしていて、「アニー・オークリー」とは「無料招待券」という意味になる、というオチまであった。そういう意味ではこの小説を味わうにはそういう背景を知っていたほうがいいということは言える、というか少なくともレベッカはそういうつもりで書いていると考えるべきだろう。
しかし翻訳者の柴田元幸はそういう注を一切付けず、原題にあった「アニー・オークリー」ではなく『アニー』にしてしまっているということは、その辺の背景を考えずに読め、ということを言っているのかもしれないし、実際ウェブで見てみるとそういう背景には一切言及せずに感想を書いている人の方が多いようだった。
小説を読んでいると、「私」は現代のニューヨークやロサンゼルスに「アニー」を連れて行ってプロモーションしたりパーティーに出席させたりして喜んでいるが、どんなふうに読んでもアニーはそれを喜んではいない。生命力を枯らしているようにしか見えない。何でそんな理不尽なことをさせるのかと読んでいて腹が立ってくる。あんな西部劇大好き少女がなぜ大きくなったらアニーにそんな仕打ちをするのかと。しかしアニーは言う。「あんたが言ったんだよ、あの人たちに気に入られるようにしろって。ああやれってあんたが言ったんだよ。あんたもそういうあたしが好きだって言ったんだよ。」このあたりでこのアニーは「私」の想像上の、幻影のアニーであって、私に気に入られるように動いてくれる存在なのではないか、ということに気がついてくる。あまりに都合よく動きすぎだからだ。原題の「アニー・オークリーの素敵な彼女」(意訳)というのも、それを気取っている「私」のことを言っていて、あんなにアニーに憧れた「私」は、アニーが「自分のもの」になるとアニーの生き方と違った俗物的な生き方を強制して、楽しくないのに楽しいと言わせようとしている、という感じになっている。
まあつまり、結論としては「やはり野に置け菫草」ということなのだが、そういうアニーに対して私が「なんで私の言う通りにするのよ!」(意訳)という理不尽な怒りをぶつけているところがポイントなんだろうと思う。でもきっと、うんうんわかるとうなずく女性が多いんだろうな。やはり女の子って摩訶不思議だ。味わうべしと言うべきか。
***
朝は秋のように涼しい。昨夜は、かなりの雨が降って雷も鳴り、一時は集中豪雨的な降りで、近くの街では土砂災害が起こったところもあるのだが、このあたりは何ともない。朝はとても涼しかった。東京では暑くて目が覚めるが、こちらではそういう意味ではよく寝られる。昼はまだまだ同じように暑いのだが。そんな朝、寝床の中で色々な考えが浮かぶ。今までよくわからなかったことを結び付けて、こういうことだったのかと理解したりするためのアイディアとかが。
結局はシステムに乗るか乗らないかなんだな、と思う。システムに乗れば生きて行くのは楽だし、乗らなければ大変だ。いや、乗ったからって「楽」だとは限らないが、普通の意味で生きては行ける。
システムは、それに乗らない人はいないのと同じだ。だから、どうにかして乗らないと、その存在自体が認識されない。昔はもっと普通にシステムには乗っていない人がうじゃうじゃいて、それでもそれなりに生きていけるような社会だったけど、今ではシステムにきちんと乗れる人は(昔に比べれば)少なくなり、サブシステムに回される人が多くなったりしている。そのどちらからも急に振り落とされたりすることも珍しくなくなってきた。
システムに乗らなくても、自分で自分が生きて行くためのシステムを構築できる人は生きていけるし、そしてまたそこに人が集まってきて新たなシステムとして動いたりすることもある。システムはそれ自体、よいも悪いもない。この善悪の議論は始めると終わらないのでとりあえずは直観的に、そうしておきたいと思う。よいシステムも運営しているうちに邪悪になることもあるし、邪悪なシステムもうまく運用して上手く動くようになることもあるし、システムそれ自体が滅んで新たに作り直されることもあるし、それは一つの生命のように、よいも悪いもない、ということにしておこうと思う。ゴキブリだってハエだって蚊だって、その存在自体が善とか悪とかはない、というくらいのことだ。
プロというのはその中のある特定のシステムの中で生き、それを維持強化することに誇りを持ち、その中で輝くことを喜びとする人たち、と考えればいいのではないかと思う。知識人というのは、本来はそういうシステムからは一歩引いて、システムの問題点とかを指摘したり、必要があったら呼ばれてシステムを立て直したりするひとたちだと言えるだろう。しかし、今ではその知識人たちも組織され、アカデミズムという組織の中で浮いたり沈んだりしながら世の中のことよりも自分たちの身の振り方にきゅうきゅうとする世の中になった。今の世界全体のシステムの中で、そういう特定のシステムにとらわれず世の中の正しい方向性はこちらだ、と言える本来の意味での知識人がどれくらいいるか、とは思う。
その知識人にしたところで、結局はアカデミズムをはじめとして出版や報道などさまざまなシステムに乗らなければその発言は誰にも届かない。出版や報道がある意味で「偏向」していない時代はないから、その発言が届いたり届きにくかったりの消長は常にある。システムとどう付き合っていくかというのは、人として生まれた以上、避けられない問題だ。「人はポリス的な動物だ」とアリストテレスは言ったが、今はこういうべきではないだろうか。「人はシステム的な動物だ」と。世の中に反抗する若者はみんな似たような格好をしたりしている。
何か欠落したところが私という人間にあるとすれば、そういうところだったんじゃないかなあと思う。システムに乗ることの意味、システムに乗らないことの意味をろくに考えて来なかったなあと思う。大学はまあ、競争の激しいところに入ったけれども、それは競争自体が面白かったという面もあるし、入ってしまえばそれだけのものだった。就職してみたこともあるし結婚してみたこともあるしさらに先に進学してみたこともあるが、一度気に全部やめてしまった。そのことの意味を、なんだか今までつかみかねていたのだけど、要するにすべてのシステムからいっぺんに降りてしまったわけだ。
下りてみると世界の見え方は変わる。システムに乗らない人はシステムの中にいる人からは見えなくなる。その逆もまた然り。もちろん人として生きている以上、何らかの形でシステムに関わりを持って生きているわけだし、まあ今は亡くなった父の作ったシステムを維持運営することで収入を得ているわけだから全然システムに乗っていないわけでもないが、世の中の大きなシステムに乗っているわけではない。
いずれにしても、何か物事をなしとげようとするなら、大きなシステムを利用できるだけの力を自分で身につけるか、自分自身で新たなシステムを立ち上げるかするしかない。
何というか、システムの中でこき使われることもこりごりではあるが、自分が思っているよりは自分はシステム的な人間なんじゃないかなあとちょっと思ってみた。やはりシステムに求められる水準のものをコンスタントに生みだして、システムをなるべくフリーハンドで利用できるような立場になるために頑張ることを考えた方がいいんじゃないかと思ったのだった。
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