「私以外みんなすごい人たちばかり」/侮れないエロ本屋

Posted at 10/08/24

すずらん堂で買った大原由軌子『京都ゲイタン物語』(文藝春秋、2009)が面白く、またいろいろ考えさせられて、ずいぶん時間とエネルギーを費やすことになった。

京都ゲイタン物語
大原 由軌子
文藝春秋

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元はといえば、レベッカ・ブラウン関連本探しをしていて神保町の本屋めぐりにも疲れてきて、何か思い切りぬるいものを読みたいなと思って表紙の感じで買ってしまったのだけど、最初のうちは面白人間エピソードみたいで、また、自分と同じ世代――正確に言えば少し下の世代の青春記みたいな感じで肩がこらずに読める本だと思っていたのだけど、だんだんそんなものではないことがわかってきた。ゲイタンというのは芸術短大ということで、学生生活のことを主に書いているのかなと思っていたが、かなりの部分が授業や教授とのやり取りが描かれていて、芸術を専攻する学生の真摯さというか、自分がものになれるんだろうか、どうしたら一日も早くそうなれるんだろうかという息詰るような思いが溢れている作品だった。

くだらないエピソード満載なあたりは、ああイマドキの若者は、と20年位前に思っていた感じで、(時代は平成元年前後)ボディコンワンレンでイケイケの先輩たちに連れて行かれた電通マンとの合コン会場の祇園のマハラジャで舞妓が踊ってたりする場面はスゲえと思ったが、翌年の新入生はいきなりシスター系でボビ男やハマ男が大発生したというちょうど時代の変わり目だったらしい。言われて見たら私がちょうど就職したころで世界が確かになんだか自分の知らないものになっているという感じがした。でも、自分の中ではちょっと記憶が薄い時代ではある。

自分の個性とか作風とかに悩んで、「私以外みんなものすごい才能の持ち主ばかりが集まっているんじゃ…」とおののいたり、何とか自分独自の視点を出そうとして奇を衒って失敗したり、悩みを教授に相談に行って「自分の作風がありきたりなんじゃないかと悩んでいるじゃないか」と指摘されて、「悩みまでありきたりってわけか」と落ちこんだり…とまあ青春グラフィティなわけだ。

まあ、学校で何かを勉強して、それを仕事にするということのよい点は、多分そういうことなんだろうと思う。何十年か先にその世界を見ている人が誰もが躓きがちなところを指摘を求めれば「そりゃそうと違うで。こっちやで。」と迷路に入らないように指摘してくれる、ということなんだろう。

今でも新しいことをしようとすれば、新しいことを学ばなければならないし、そうすれば同じように「初心者が陥りがちな罠」に捕まったりするわけで、それを逃れるには先生や学校を持ってそれをうまく利用する、ということが一つの有力な方法なんだな、と思った。

作風や視点は内面が現れる、という。だから内面を育てることが大事。たくさんの多くの作品を見て読んで聞いて触って嗅いで味わって。小手先で変わった視点を演出しても何にもならない。また、視点や作風というものは学校で学ぶものではない。まあ、この「ありきたり」の、言葉を変えていえば「王道」の指摘も、胸にかなりずしんと来るものがあった。そんな言葉、今まで何百回も聞いてきた言葉だけどね。

そのあとで、同級生の面白い男子が感動したというビデオを借りて寮でみんなで見たらそれはなんと『行き行きて神軍』で、みんなでのけぞってしまい、「いやあ、知らなくてもいい世界ってあるんだねえ~」と言い合ったというエピソードは笑った。確かにあの映画、いまだにコメントが困難だ。劇場でなくビデオで見るというのがちょっとした時代のずれなんだなと思ったが。

そういうわけで、自分が芝居をやっていた頃に感じたいろいろなこととかを思い出しながら読んでいたのだけど、自分がものを書くということについてもいろいろ考えさせられた。自分はものを書くということは学んだことはない。小学校のころ、やたらと作文を書いて先生に見てもらったり、学校の授業で俳句を作ったり、エピグラムを書いたりしたことはある。あとはZ会で添削を受けたり、修士論文のときに真っ赤になるまで修正してもらったりしたことがあるくらいだ。小説を書く、ということを体系だって学んだことはない。そういう機会がないわけではないのにそうしてこなかったのは、そういうものは誰かから学ぶものではない、と思っているところがあるからなんだろう、と思う。

それは、「視点や作風は学校で学ぶものではない」ということの拡大解釈なんだろう。逆にいえば、その視点や作風を「どう生かすか」ということは、「学校」で学べる部分もあるということなんだろうと思う。

まあそういう機会も考えるに値するかもしれないな、という気もしてきたし、良い機会があったら使ってみてもいいかもしれないと思う。しかしそれ以前に、作品を読む際にまず視点や作風そのものにこだわりすぎるよりも、「どのように生かしているか」というところに注意して読んでみるということが必要なんじゃないかと思った。

まあそれはそれなのだけど、でもどうしても、考えていて「彼ら」と自分とでは何か異なることがある。それはなんなんだろうと思っていたのだけど、つまりは彼らがプロフェッショナル(つまり専門家)志向であるようには、自分は専門家志向ではない、ということだと思った。作家だって専門家だ、という意見も当然あるし、そういう意識でやっている人が多いのももちろん知っているが、私は作家というのは根本的には「知識人」であるべきだということに思い当たったのだ。今まで生きるうえではある種の専門職に就いて、ある種の専門職志向を意識してきたけれども、結局続かないのは、今時代が必要としているのは専門家ではなく――もちろんこれだけ複雑化・専門化した時代だからどの分野においてもある程度の専門的知識はないと困るのだが――知識人ないしは教養人、なるべく偏らず、なるべくどんなことでも知っていて、なるべく何に対してでも意見と方策を持っている、そういう人間のはずだと思っていて、自分はそういう人間になりたいと小さいころから思っていた、ということを思い出したのだ。万能人になりたい、もしなれなければ器用貧乏でもいい、と高校生のころ友人に言ったことを思い出す。

実際のところ、万能人はおろか器用貧乏にさえなっていないのが現状だが、少なくとも言葉を操る技術は持たなければ何もすることは出来ない。古代中国の隠者たちも請われて一度草庵を立てば一国の宰相として敏腕を振るい、野にあっては文名を後世に残したように、そういう立場の人間にとって一番大切なのは言葉をいかに用いるかということになるのだと思う。私は根本的に、作家というのはそういう存在だと考えていて、だからこそそういうものになりたいと思っているのだということに気がついた。

ま、少し話が大きくなったが。

ところでこの本を買ったすずらん堂というのは神保町のすずらん通りの神保町交差点よりにあって、一階の半分がグラビアの水着系雑誌。二階がフロア全部エロDVDという店なのだが、マンガとか小説とか雑誌とかもいろいろおいてあって、実はここで買った本はほとんど外れがない。だからつれづれに当てもなく何か面白いものがないかと思っているときについこの店に入ってしまう。まあ周りからみるとエロ雑誌orDVD目当てのスケベ野郎にしか見えないだろうなといつも思うし店内を巡回するとおなか一杯になるくらいは(笑)満足するのであながち外れでもないんだろうけど、でも買った本はたいてい面白い、かなり侮れない店なのだ。

白眼子 (潮漫画文庫)
山岸 凉子
潮出版社

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もう一冊買ったのが山岸涼子『白眼子』(潮漫画文庫、2006)。山岸涼子なら外れはないだろうと思って買ったが案に相違せずこの作品も面白かった。終戦直後の北海道で運命観想をした全盲の男とその妹、そして彼らに拾われた戦災孤児の少女。その30年にわたる交流を描いた中篇。2000年に『コミックトムプラス』に連載された作品。

ああ、もっと書きたいのだが出かける時間だ。あとでまた書き足すかもしれない。

***

東京怪童(3) <完> (モーニングKC)
望月 ミネタロウ
講談社

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ちょっとだけ書き足しておくと、月曜日に『東京怪童』の第3巻を買った。このマンガ、連載中は、特に後半は何が何だか分からなくなってしまっていたのだけど、単行本になってみると結構まとまった印象になる。しかし、やはりまだ分かりにくいところがあるな。しかし、ひとコマひとコマがイラストレーションのようなきれいなマンガで、内容も含めて「よい作品」だと思う。自分の中では、この作品は成功作とはいえないかもしれないが、好きな作品だな、という印象を持って終わった。どうも自分の小説作品も、そういうものを目指しがちでいけないのだが。

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by Luke Peterson

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