もともと知っていた世界の秘密と、大人になって知る世界の秘密

Posted at 10/08/21

朝夕はめっきり秋めいてきたのだけど、昼間はまだ蝉の声が盛んに聞こえる。それでも午前中は、こうしてブログなど書いていても暑さのあまりもうろうとしてくるということはない。この暑い夏の名残りが地面から吹き上げて来るのを感じるようになってきたら、この風の抜ける部屋も物事を集中してやるにはふさわしくない状態になってしまうのだけど。

朝は、秋の虫が鳴いているのが聞こえる。しばらくして、それは夏の鳥の声にとって代わられる。朝食を食べ終えてしばらく休んでいるうち、蝉の声に代わっている。

今、三冊並行して読んでいるけれども、読み終えた『小川洋子対話集』もレベッカ・ブラウンのところをもう一度読んでいる。そこに出てくる本のうち、『若かった日々』は文庫で入手して読んでいて、『体の贈り物』は単行本を図書館で借りた。『家庭の医学』と『犬たち』は図書館にあったので、買わないと読めないのは『私たちがやったこと』なのだが、その『私たちがやったこと』がメインになって対談が進んでいるので、これを読んでみないことには、という感じがある。今日の夜遅くには東京に帰るので、地元の文教堂で探してみて、なければ明日町に買いに行こうと思う。

若きウェルテルの悩み (新潮文庫)
ゲーテ
新潮社

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ゲーテ『若きウェルテルの悩み』。67/217ページ。ロッテへの愛が深まっていくウェルテルと、ロッテのいいなずけへのやるせない思い。この作品、レベッカ・ブラウンといつの間にかシンクロニシティが生まれている。ロッテが瀕死の病人の世話をする場面が『体の贈り物』のエイズ患者へのケアに重なるし、最初にロッテに会って恋に陥るダンスの場面が、『若かった日々』の「ナンシー・ブース、あなたがどこにいるにせよ」でキャンプファイヤーでスカフ=ナンシーと踊る場面に重なる。主人公の女の子、それは著者自身と考えていいと思うのだけど、その子がナンシーに熱烈に恋してしまう、そのくだりを読むと、欧米人の文化の中で「一緒に踊る」という行為が恋愛の重要なステップにある、いやこんな分析的なことを言っても鼻白んでしまうが、ダンスというものが文化の重要な一部だということを思った。

体の贈り物
レベッカ・ブラウン
マガジンハウス

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『体の贈り物』88/200ページ。一つ一つの短編がすべて違う相手のケアの話かと思ったら、続きものになっているのが何篇かある。ミセス・リンドストロムとの「充足の贈り物」の続きが「飢えの贈り物」になり、「涙の贈り物」のエドとの話が「動きの贈り物」につながる。ものを食べられなくなったコニー=ミセス・リンドストロム。彼女の場合は胃が受け付けず、戻してしまうという話だが、「飢え」ということで言えば私は自分の父のケースを思い出した。誤嚥がひどくなり、鼻からのチューブで栄養補給する状態になってから3カ月余りで父は亡くなった。父は、チューブをつけることに最後までとても抵抗した。栄養状態がよくなれば回復の見込みもある、と私は思っていたので、一生懸命説得して父に同意させたのだけど、本当にそれで良かったのか、は今でも時々思う。チューブがついていたところでものは喋れるし、場合によっては外して物を食べる練習をすることもできる。ただどうしても、口から入れると食道でなく気管の方に入りそうになってしまい、食べる訓練をする言語療法士(嚥下の訓練が言語療法士の仕事だということを初めて知った)もなかなか決断が出来ず、結局最後までとれなかった。回復の見込みはある、と思っていたのは肉親の欲目で、本当はなかったのかもしれない。であるならば、最後まで父の意志通りにやってやればよかったという気もする。そういう選択は難しい。好きなものを食べてのどに詰まらせて死んだ方が本当は幸せなのかもしれない。先日亡くなった叔父(母の義兄)が、亡くなる前の日までものを食べられたので、少しうらやましかった。人の亡くなり方は様々だ。どんなふうにして自分が死ぬのか、それは誰にもわからないし、選択することもできない。それが運命というものなんだろう。『体の贈り物』はそういう運命と向き合わされている人々――みな、HIV感染によるAIDS、免疫不全症候群で死ぬなんて、思ってもみなかっただろう――のことを、ケアする立場から共感と愛を感じさせる筆致で、それでもシンプルに描いている。その人が何で苦しみ、何を喜びと感じるか、てらいもなくシンプルに。

若かった日々 (新潮文庫)
レベッカ ブラウン
新潮社

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『若かった日々』92/211ページ。昨日から読んだのは、父との関係を描いた「魚」と自分が自分らしく生きる生き方への可能性――それはつまり男性を必要としない生き方なのだが――を教えてくれた年上の女性への少女らしい恋慕を描いた「ナンシー・ブース、あなたがどこにいるにせよ」の二篇。「魚」。母と暮らす少女は母と離婚し新しい女性と暮らす父のところへ1週間、遊びに行く。父は、新しいパートナーに、自分の冒険譚を誇張して話す。しかし少女は、女性のいないところで、それは嘘だと父に言い放つ。父は少女を深夜の釣りに誘い、少女はついていく。そして少女は大きな魚を釣り上げる。喜ぶ父に、少女は魚を放してやってくれと頼む。少女と父の気持ちは、すれ違っているようで結局かなり近いところにいる。どこかへさまよっていってしまいそうな父の心を、少女がつなぎとめている、のかもしれない。こんな娘を持ったら大変だ、と思う一方、こんな娘がいたら幸せ、かもしれないとも思う。

「ナンシー・ブース、あなたがどこにいるにせよ」ガールスカウトのキャンプ。健康的なアイテムの中に、レズビアン的な要素を少しずつちりばめる。中学生のありふれた悪ふざけと、それだけに飽きたりずもっと自分らしい、もっと違う世界を求める少女の前に現れた、自分の知らない世界を案内してくれる女性。少女はなりたい人としてC・S・ルイスの名を上げ、女性はガートルード・スタインの名を上げる。著者はC・S・ルイスの名を上げたことを、「キリスト教原理主義から抜けきっていなかったので」と言っていて、なるほどルイスはアメリカではそういう位置付けの人だったのかと初めて知った。そうなるとナルニアがディズニー映画としてあのような形で公開されたと言うことは、福音派のメガチャーチの隆盛と関係付けられるような現象なんだなと思った。私が持っているようなよく出来たファンタジーと言うだけでなく、もっと政治的な意味がそこに隠されているんだなと思った。ガートルード・スタインと言う存在はあまりよく知らなかったが、ピカソやデュシャン、ブラックなどの友人でもありパトロンでもあり、また自ら詩人でもあって、女性のパートナーと生涯を送った存在でもある、らしい。それは彼女らの、一つの理想像でもあるのだろう。スタインについてはもう少し知らないと「なりたい人」であることがあまりぴんと来ない感じはあるけど。

レベッカがもともと知っていた世界の秘密と、大人になるにつれて知っていく、目覚めていく世界の秘密がひそやかに、喜びに満ちて、しかし抑え目に、シンプルに、そして何より美しくか書かれている、それが『若かった日々』という作品集だと思う。

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by Luke Peterson

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