何者かであろうとし続けると/たましいによいもの/洗練

Posted at 10/08/10

日曜日に叔父の葬儀があった。昼前に妹と弟が帰郷したのを迎えに行き、家で着替えて式場に出かけるときに駅に再度出て義弟を乗せ、会場へ行った。通夜のときのこじんまりとした雰囲気とは違い、実に規模の大きな葬儀だった。直会(精進落とし)も規模が大きく、従兄弟の喪主挨拶も別の叔父の献杯も点のように小さくみえる遠くでやっていて少々たまげた。通夜のときは結構遅くまで残ったが、葬儀のときは4時ごろからみな帰っていいという話しになり、送っていけるかどうかわからなかった義弟を駅に送ってから家に戻った。弟はそのときに7時前の特急の切符が取れたのだが、私は回数券を持っていかなかったので取りそこない、結局8時前の特急になった。

この日は葬儀の会場で思いっきり冷やされ、特急の中でも冷やされてダブル冷凍状態。うーん。そうだな、長野県の人は冬用の礼服はあっても夏用の礼服は持っていないから、そういう配慮で冷房をきつくしたんだろう。女性にはかなりきつかったと思うが、私も夏用の背抜きのブラックスーツだったのでだいぶ冷やされた。家に帰って一度入浴してだいぶあたため、東京に戻ってからもう一度風呂に入ってまた暖めた。ほんと夏場の冷房は何とかして欲しいが、いやあそういう職場でずっと働いている人もいるんだなと思うとぞっとする。現代人が体調のおかしい人が多いのも当たり前だと思う。

Landreaall 1 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
おがき ちか
一迅社

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昨日は一日無為に過ごした。そういえば、『ゲゲゲの女房』で水木しげるが壁に「無為に過ごす」という標語を張っていて面白かった。いやあ、無為に過ごすっていうのは大事なことだ。なかなかそういう時間は取りにくいのだけど、昨日は本気でまとめて無為に過ごすことが出来たな。朝はずっと『ランドリオール』を読み直していて、仕事の電話やメールが数本入ってそれに対処してちょっと気がそがれたが、午後は日本橋に出て丸善で本などを物色。神田達磨に行って鯛焼きを食べ、丸善に戻ってみなもと太郎『風雲児たち』17巻(リイド社、2010)を買い、4階のカフェでプレミアムハヤシライスを食べた。紅茶を飲みながら『風雲児たち 幕末編』17巻を読む。このマンガ、久しぶりに面白さを感じた。地下でモーニングページ用のライフの原稿ノートを二冊買って帰宅。

風雲児たち 幕末編 17 (SPコミックス)
みなもと 太郎
リイド社

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家に帰ってから『風雲児たち』の続きを読み、最近余り身を入れて読んでなかったので数巻単位で読み返したのだが、もうだいぶ忘れていて、最初から読み直したほうがよかったかなとおもう。『風雲児たち』の本編も大概長尺だったが、幕末編も既に17巻。気がついたら本編の半分以上になっている。最近、モーニング・ビックコミック・スーパージャンプとメジャー漫画誌を中心に読んでいるので『コミック乱』とかマイナーなものはあまり読まなくなったということもあり、追いかける意識が途切れがちになっていたが、気がついてみるとやはりこのマンガは面白い。最近少し歴史物を気持ちの上で避けているところがないでもなかったので、そのへんのところもあったかなと思う。久々に読むと面白いし、西郷に関する部分には作者もかなり力をいれていて魅力的だ。夜にはずっと『バーテンダー』を読み直していた。このあたりもしばらく読んでなかった種類のもの。

バーテンダー 17 (ジャンプコミックスデラックス)
長友 健篩
集英社

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最近ふと、わけのわからない不安にいたたまれなくなるときがあり、何かをやっていてもそれに集中できなくなるときがあって、それが何なのかいろいろ考えていた。とにかく小説を書いているとその不安はとにかく治まる。しかし「無為に過ごす」とかをやろうとするとそれが来やすい。昨日またそれが来たのでどうしてなんだろうと心の中を探ってみたら、それは「自分が何者であるんだろう」という不安だということに思い当たった。自分が何者かでなければならない、という呪縛だと言ってもいい。しかしそれは実は現世的なものだということに思い当たる。自分は何者かでありたいと思おうとしていたといえばいいか。結局、そういう考え方は自分にはあまり向いていない。自分は何者かである前に自分であると思う。

何者かであろうとし続けていると、結局エネルギーが枯渇してくる。まあそれは誰でもある程度はそうかもしれないが。自分が自分であり続けることによってしか、エネルギーはうまく循環して行かない。何かをしていかなければ自分が自分であり続けることも難しいからそこは何かをしていかなければいけないが、自分が自分であり続けることにいちばん近い仕事、それをいちばん容易にする仕事、自分自身の源泉から常に無限の泉を供給できる仕事でなければならない。まだ今のところ、そういう仕事は出来ていないなあと思う。自分が自分であり続けなければいい作品はつくれないし、無限のエネルギーを汲み出さなければそも大きな作品などつくれない。結局それは、作家として自立しない限りそういう条件を整えるのは難しいわけで、そういう意味でも早くそうしたいと思う。

とはいっても現在の状態ではいろいろ折り合いをつけていかなければエネルギーを出せる状態をつくるのが難しいわけで、まあその当たりが骨を折るわけだけれども、昨日街を歩いていて、自分が東京に何を求めているかというと、それは「洗練」なんだなと思い当たる。まあ正直言って、田舎町でそれを求めるのは難しい。肉体は「自然」を求めているところがある、というか求めているのだけど、精神は「素朴」よりも「洗練」を求めている。それが身体にいいかどうかはよくわからないが、『バーテンダー』に「酒や煙草や、たましいにいいものは大体身体に悪い」という言葉があるけれども、酒や煙草の本当の美味しさを洗練という言葉で言い換えると、まあそうだなと思う。まあ、整体の先生たちを見ているとたいていヘビースモーカーだったりして、本当に「たましいによく」そういうものを味わっていれば肉体にも別に支障がない、というのが本当だと思う。

まあ、その伝でいえば「洗練」というものは、というか私にとっての洗練というものは、と言った方がいいのかもしれないが、私のたましいにいいだけでなく、自然であるとも思う。たましいに自然のものが、洗練なんだと思う。

自分に厳しく、きれいに暮らしていた昔の日本人は、そういう洗練を身につけていたんだろうなと思う。だからずっとたましいのよさを保っていられたんだろう。身の回りが汚いというのはやはり洗練されていないということなんだと思う。まだまだ垢を抜かなければいけないと思うし、「君子がいれば何のむさくるしいことがあろうか」と孔子も言っているように、ある程度は心がけ次第だということはある。まだまだやれることはあるのだと思う。

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