車検/HIVが「ゲイの病気」だったころ

Posted at 10/08/20

代車は青のスターレットだった。スターレットに乗るなんて久しぶりだ。10年以上前、京都とか出雲とかに友人と出かけた時、借りたレンタカーがスターレットだった。ああ、こんな感触だったなと思う一方で、ギアが(オートマのだけど)いちいち入れにくいのはこんなんだったっけなあと思う。車検が上がったと昼過ぎに電話があって、すぐ取りに行ったので代車に乗ったのはその往復と、10時過ぎに本屋を二軒回り、結局図書館に行った行程だけだったのだけど。

本屋で探して見つからず、結局図書館にいって借りたのはレベッカ・ブラウンだ。このあたりで本屋を回るのは精神状態によくない。何にもないのだ。特に、翻訳ものの小説など、ハーレクインだとか古典的な名作だとかをのぞいたらほとんどない。(そういうものも揃っているわけではない)ぶつぶつ文化レベルの低さを呪いながら書店を回るのは自分の精神にダメージを与える。こんなことはやめた方がいい。結局図書館に行って本を検索し、レベッカ・ブラウンが3冊あることはわかった。すべて文庫本ではなく、単行本だ。3冊ともぱらぱらと見て、とりあえず『体の贈り物』(マガジンハウス、2001)を借りた。これも柴田元幸訳だ。全部そうなのかな。ぱっと見た感じがフィクションだったからなのだが、少し読んでみたら、これが小川との対談で言っていたHIV患者のケアのボランティアの時の話だということに気がついた。

体の贈り物
レベッカ・ブラウン
マガジンハウス

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何て明るい描写なんだろう。そして、なんて哀しい描写。この本は11の短編から成っていて、まだ最初の二作品しか読んでいないのだけど、二編とも心に残る。イメージがはっきりしている。「汗の贈り物」はゲイの末期患者のケア。多分、その最後の一日。厳密な自然食主義、というところにゲイのテイストを感じるし、またそのパートナーと過ごした日々のことも少し描写にある。彼は、自分のパートナーを見取り、そして自分も病に倒れ、レベッカにケアを受けている。レベッカ自身が同性愛者だということも、何かその背後に輻輳している。原作の出版は1994年。そういえば、HIVは最初は「ゲイの病気」だったということを思い出す。私は一度だけAIDS患者に会ったことがある。あれはたしか、1995年か1996年のことで、やはり彼もゲイで、パートナーと食事に来ていた。もう顔は赤く変色していて、パートナーが何くれとなく世話をしていたのだけど、彼の表情には不安がありありとあらわれていた。次の年、またアメリカを訪れた時に尋ねたら、彼はもう亡くなっていた。

HIVが哀しいのは、何か恐れられたのは、私がアーティスティックなものを愛好しているということとも関係がある。HIVはかなりの割合で「ゲイの病」で、そしてアーティストにはゲイが多いから、アートの世界そのものがHIVに侵食された感じがあったからなんだと思う。日本と違ってアメリカでは、クリーブランドだったが、そういう人たちも積極的に表に出てくる。私がそのレストランに行ったのも陶芸をやっている女性に連れられて行ったからで、彼らは彼女の友達だった。

レベッカが彼らのケアというボランティアを選択したのも、そういうことと無縁ではないのではないかという気がする。つまり、彼らケアするということは、自分自身と自分が属する世界をケアすることでもあったのではないかということだ。世界は決してやさしくない。でも、やさしさを見つけることはできるし、それを描くこともできる。「汗の贈り物」「充足の贈り物」。プレゼントを贈ることもできるし、受け取ることもできる。

「充足の贈り物」の主人公は年配の女性。気品ある、ひとつ前の世代の女性だ。自分のことを自分でやることに誇りを持っている。そういう女性を「援助」することは、その「誇り」を傷つけないことに注意を払わなければならない。レベッカはおおむね「うまくやる」が、しかしそれでも体がすくんでしまう場面があった。入浴の場面である。彼女はHIVに感染する前、おそらくは乳癌で片方の乳房を切除していたのだ。

「一人でできるのよ」と彼女は言った。
 それを見てからずっと、私は全然動いていなかったが、彼女にそう言われて「手伝えます」と言い、彼女は手伝わせてくれた。

ミセス・リンドストロムは最初は毅然と自分のできることは自分でしていたが、レベッカと親しくなって行くにつれ、それと同時に病状が進行して行くにつれ、レベッカにより多くのことを任せ、やってもらうようになって行く。それは誇りを共有して行くことでもある。ヘルパーでなく、心を許した人間に手伝ってもらうことは、彼女の誇りにとって大切なことだったのではないか。そして子どもには、手伝わせられない。衰えて行く父や母について書いているレベッカには、そのわけはよくわかっていたのではないかと思う。

おそらくは、一人の人間のケアをしている間に様々なことが起こっただろう。それを、こんなふうに珠玉の短編にまとめ上げる。死ぬということは、生きているということだ。生きているということは、プレゼントなのだ。

小川洋子対話集 (幻冬舎文庫)
小川 洋子
幻冬舎

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『小川洋子対話集』は読了。最後の五木寛之との対談は、例によって五木節が炸裂していてはいはいと思う。いいことを言ってないわけでもないのだけど、五木寛之ってなんで軽く感じるんだろう。っていうか軽いんだけど。軽々と飛んでいる、と言えばいい感じだけど軽々しい感じがする、と言うとあまりよくない。そのよさもよくなさも彼は両方持っている気がする。

車を取りに行って、いつものヴィッツに乗り換える。今までとほんのちょっとだけ違った感じがする。自分の感覚が青のスターレットに順応しかけていたところが、元に戻って普段ヴィッツに感じていた不十分さの正体がなんだかわかった気がした。スターレットの方が、ダイレクトに車に乗っている感じがするのだ。ヴィッツはなんだか、間接的な感じがする。多分、パワステの感じとかギアのシフトの感じとか、微妙なところなんだけど、どこか遠い感じがする。でもまあ、体が迷いなく運転できるのはやはり乗り慣れた車なのだ。本屋の角を曲がって、諏訪大社の入り口を示す大きな鳥居をくぐり、ケーブルテレビの会社の三差路を左折して、甲州街道を走る。

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by Luke Peterson

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