日本代表:不満を残したメンバー/グローバリズム対テロリズムより冷戦の方がワクワクした/日本という国にはグローバル資本主義の素質が欠けている

Posted at 10/07/01

朝から調子が悪く、なんだかイライラする。というより、いらいらもできないくらいなんだか調子が悪かったのだが、昼前に少し活元運動をしたら少し体調が良くなったので、とたんにいらいらし始めたのだった。いらいらするくらいの体力は回復したということ、めでたしめでたし。ていうかなんだかなあ。

今日はモーニングの発売日。6時20分ぐらいに目が覚めて、歩いてファミマに買いに行く。運動不足も体調が悪い原因だと思われるので、極力歩こうとは思っているのだが。近くの高校が文化祭が近いため、早く登校して作業をしている生徒が多いらしく、6時台なのにファミマに高校生が何人もいる。まあこのシーズンだけなんだが。

モーニング、今週は『ピアノの森』のない週なので読みどころの中心は「ジャイキリ」と「宇宙兄弟」。ジャイキリ、藤澤さんの疑問は一応解けたんだけど、そのあたりのことがまた来週にかけて展開していくらしい。パスのつながるサッカー、って確かに今までETUはあまり見せてなかったな。椿のドリブル突破とか、ジーノから前線にパスを供給するカウンターサッカーが多かった。ボール支配率の高い王道のサッカーを目指すのだろうか。上田と熊田、矢野など今までほとんど出番がなかった選手が重要な役を演じていて、群像劇としての展開がさらに磨きがかけられて行くのではないかと思う。サッカーってチームプレーだなって本当に思う。今週のジャイキリのテーマは「チームが一丸となること」なんだけど、なんていうかきれいごとのお題目みたいなんだけどさ、日本代表がまさにそういうサッカーを見せてくれたから、それが浮いたり鼻先で冷笑されたりすることのない、重要なテーマだと意識されるんじゃないかなという気がする。

敗退が決まって、日本代表の中でもやはり出場できなかった選手たちや不本意だった選手たちからいろいろな声が聞こえてきていて、中でも取り上げられているのが代表引退を口にした中村俊輔と、キャプテンを交代させられた中沢祐二。二人とも直前の試合で結果を出せなかったから、仕方ないとは思うんだけど。俊輔が代表引退を口にしたのは、藤川がダルビッシュに日本代表のストッパーの役を奪われて、「次回はもう出ない」といったのと同じプライドの問題なんだろうと思う。ただ、俊輔はそんなこと忘れて、また次回を目指したらいいんじゃないかと思うな。中田だって前回辞めなくてよかったのに。まあ今回、中田が出ていたらこれだけ勝てたかどうかは分からないけどね。団結力で勝負、なんてやっぱりあんまり中田に似合わないし。中沢のキャプテン交代は、どうもやむを得なかったみたいだな。長谷部のそつのないマスコミへの対応を見ていると、試合の前日や試合の直後に表に立たなければならない役目は、明らかに向いている男と向いていない男がいると思う。それにキャプテンはディフェンダーじゃなきゃいけないということはないと思う。長谷部はいいキャプテンだった。

色々不満はあっても、それを日本勝利のためのエネルギーに変えて行った選手たちは、本当に称賛されるべきだと思う。そろそろ帰国するころだろうか。トゥーリオのお父さんが倒れて彼はブラジルへ回ったらしい。いずれにしろ、彼らは歓迎されるべきだ。よい大会をプレゼントしてくれてありがとうと言いたい。

「宇宙兄弟」はアクシデント発生。ムッタの技術屋魂が炸裂、ということになるらしいが、これもまた来週送り。そのほかの作品については明日以降、書く気になったらまた書こうと思う。

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『クォンタム・ファミリーズ』、現在72ページ。色々なことを考えさせられる。一番大きいのは世界認識の問題かな。結局、現在の世界の現状認識のスタンダードは、「帝国」=「グローバル資本主義」VS「広義のテロリズム」ということなんだろうか。エコロジーとかオーガニックとか反グローバリズムとかまあそのほかいろいろなものが「帝国」の補完運動なのか、あるいは「広義のテロリズム」なのかはよく分からないが、まあ「広義の」と付けられても「テロリズム」と言われたらそれは肯定しにくいだろうなと思う。確かにグローバル資本主義による一方的なスタンダードの押し付けという問題は、実際どうかと思う局面が多い。相撲協会に対する批判も多くは「そういう時代じゃない」という言い方だが、要するにそれは煎じつめて行けば「グローバルスタンダードじゃない」ということになってしまうんじゃないかと思う。

私のそういうことに対するスタンスは、まあ適当にそういうものにも付き合いつつ、なるべくそういう問題に直面したくない、避けていたいというのが正直なところだ。一線で勝負したいという望みはあっても、グローバルスタンダードにのっかることだけが一線にいるということではないだろう。自分は基本的には「広義のテロリズム」――やはりあまり語感が良くないな。「広義の反グローバル主義」ぐらいにしておくか――の側に立つんだろうなとは思う。まあ日和見的な姿勢だから「お前のような姿勢が体制内反体制としてガス抜き的にグローバル資本主義を補完するのだ」と批判されても「へえへえ」としか言いようがないんだけど。

まあたとえば、「中国にしてやられないように日本も自主的に軍備をもう少しは考えた方がいい」という意味ではある種の、つまり軍事的なグローバルスタンダードを前提としているわけだし、またサッカー日本代表が勝ちあがれ日本、もとい勝ちあがって世界を驚かせてほしいという意味ではサッカーというグローバルスタンダード競技において日本にそれなりの存在感を見せてほしいと思っているわけだし、これもまたグローバル的な基準を前提にはしている。まあつまり、好むと好まざるとにかかわらず国家的には日本はグローバリズムにすでに飲み込まれていてそれを否定することは物理的に不可能だということは私にとっても前提となっている。

東浩紀や村上隆が日本の文壇や美術界の閉鎖的な体質にいらいらするのも、現実にグローバル化にさらされている日本でぬるま湯につかっていて今後の展望を持っていない上の世代に対するいら立ちだという点では全くよく理解できるし、相撲協会を批判する人たちの多くも相撲協会だけが前近代性を保っていることにいら立っているという面もあるのだと思う。ただ、その処方箋がグローバルスタンダードの導入、ということしかないのはさすがに貧しいのではないかという気がするな。結局、日本代表のサッカーを見ても、パスを回してボール支配率を高めるというグローバルスタンダードの戦術ではうまくいかないから「日本らしいサッカー」を模索せざるを得ず、苦悩の末の岡田監督の選択が当って好結果を得たように、その場にはその場にふさわしい方策があり、それは単純にあるイズムを押しつければ済むというものではない。

政治の世界でも、菅直人は財政健全化というグローバルスタンダードへの舵を切ろうとしたが、消費税で人気を落とすと貧しい人には全額還付というまたバラマキ路線を言いだしたりしている。何というか落とし所を見つけるのは難しいとは思うけど、もっともっと政策的に官僚も政治家も学者も現場も大動員して日本らしい団結力によって方策を見出して行くことを考えてもいいのではないかと思う。こういうことってすぐ非現実的だと冷笑されて終わりになるのだけど、結局そのぐらいしか、本当の意味での日本の強みというのはないのではないか、ということが私にとってのワールドカップの教訓であった。

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話がだいぶでかくなったが、まあ要するに2010年現在の、21世紀初頭における世界構造は「グローバル資本主義」対「広義の反グローバリズム」あるいは「広義のテロリズム」である、という認識がもっぱらなんだろうと思う。これは我々が生まれ育った20世紀後半が「資本主義=自由主義諸国」対「社会主義=共産主義諸国」の冷戦構造であったことのある意味での焼き直しなんだろう。20世紀後半の核状況下で育った私たちにとって、「世界はいつか滅びる」ということはある種の前提であり、それゆえに逆説的にだがある種の希望でもあった。だからこそ「ノストラダムスの大予言」のような荒唐無稽がある種の真実味を帯びて考えられたのだし、ソ連の崩壊は「死ななくてすんだ」「滅亡しなくてすんだ」ことでもあった。

しかしこの冷戦構造は、逆に言えばある種の「ワクワク感」があった、と今にして思う。スパイ映画の隆盛とか、社会主義への希望とか、「反対側の世界」への憧れのようなものがあった。私の生まれた1962年は冷戦の真っただ中で、(何しろキューバ危機の年だ)米ソの対立というのは本当に暴力的な影響力があり、ラテンアメリカでも東南アジアでもアフリカでも米ソの政権の奪い合いは熾烈を極め、アメリカによる独裁政権の援助で多くの民主主義政権が倒れたり、ベトナムのように局地戦争が泥沼化したりしていた。私の生まれた日の新聞の一面はソ連の人工衛星打ち上げ成功の記事なのだが、ソ連当局からは一切発表がなく、新聞に載っているのも推測記事ばかりだった。全く今昔の感がある。それが長期化するにつれて両側にある種の非現実味というか、なれあいというか、が生じてきたように思う。

私が大学生だった80年代には何というか奇妙な楽観意識が生まれていて、そういう非現実的な状況の中で遊び倒す、みたいな感じになっていた。何しろどっちみちどっかの国の原爆が落ちて死ぬんだったらこの世は楽しまなきゃ損だ、みたいなところがあった。不思議なワクワク感というのはそういうものだったのだと思う。

90年代になって冷戦構造が崩壊すると、世界は本気で自由で幸福になるのではないかという多幸感が一時的に支配したけれども、何というかそれは新たなる中世の開始という感じで、二大帝国に支配された世界が中世的な分裂へと向かっているようなイメージがあった。それが90年代後半のグローバル資本主義のショウケツと2001年の同時多発テロによって一気に「帝国対テロリズム」という構造が出来てしまったのだけど、どうも何という過去の世界認識というものが、自分にとってはウソ臭いというか、少なくとも面白くもなんともない、と感じられてならない。少なくとも米ソの冷戦のようなワクワク感は、この世界認識からは全然出てこない。何だかちっとも面白くないし、こういう世界認識の啓蒙にも全然乗る気がしない。この認識は、どうも冷戦という世界認識の焼き直し、それもマイナーな、縮小再生産されたつまらない世界認識だと思われてならない。

社会主義国の核によっていつか我々は滅ぼされる、という認識と、無差別テロによって我々はいつ殺されるかわからない、という認識は、決して同じではない。少なくとも私の感覚では、前者は粛々と受け入れることが可能な気がするが、(昔のマンガなんか、そういう感覚の作品がけっこうたくさんあった。高橋葉介の「墓掘りサム」なんか。「気分はもう戦争」なんかも広い意味でそういう作品だろう。)後者はどうも唯イライラするだけで、異常にストレスフルな感覚だ。日本は今のところそうした無差別テロにさらされてないからあまりそういう意識は顕在化はしていないけれども、ストレスフルな感覚が支配的だという点においてはどこの国とも同じだろう。

結局、冷戦における死というのは分かりやすく、それだけに日本人などにとっては運命論的に受け入れやすい死だったのだと思うのだが、帝国対テロリズムという構造における死というものは根本的に理不尽極まりないからなんだろう。「危険地帯に行って死ぬのは自己責任」と喚くのは、日本が今のところ危険地帯でないからにすぎない。

で、これはけっこう実は根本的なことなんじゃないかと思うのは、世界的に見たら「広義のテロリスト」にとって日本は「けっこう味方」だと認識されてるんじゃないかということだ。軍事的にも政治的にもアメリカにしてやられている「気の毒な国」であり、なおかつクジラさん大好きなグローバリズム諸国に妙にその一点だけ強硬に抵抗していたり、わけのわからないことを妄想的に語る総理大臣が出たり、神話につながる王制をいまだに維持していたり、中国人にホイホイ大事な技術を教えて経済的に中国にしてやられていたり、なんていうか日本て言う国は基本的に「グローバル資本主義的な素質が足りない国」なんだと思われてるんじゃないかという気がするんだよな。まあ、テロリズムの味方をするような自爆的なことをするほどナイーブではないにしても(でも友達の友達がテロリストだと発言するような大臣がいたりはしたけど)、少なくとも「ほほえましい馬鹿キャラ」くらいな感じではあるんだろうと思う。

で、私なんかにとっては、そういうところが結局は日本に「いやすい」理由なんだと思う。いずれにしても不徹底なところがね。いつまでそれでやってけるのかどうかは謎だけど、完全に徹底するということはないんじゃないかなと思う。国民のバランス感覚としては。これもまあわからないけどね。

まあそういうわけで、自分はそういう「帝国対テロリズム」みたいな「大きな物語」を描きたいとは思わないし、まあそういう枠組みとして、物語としては全然「冷戦」という枠組みの方がよくできてたと思う。でもなんというか、壁と卵の例ではないけど、村上春樹とか東浩紀とかそういう「時代の空気」に「敏感」な人たちはそういうテーマに近づいて行ってしまうんだろうなという気はしないではない。私にしても、そういう時代である、ということを認識はしておいた方がいいなということは思う。

冷戦構造の中では「遊ぶ」という選択をした我々(一緒にされたくないかもしれないけど)は、今の片肺的な対立構造の中でどういう選択をするべきなんだろうか。まあそういうことは考えて行かざるを得ないとは思うけどね。

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