蒸し暑い/東京の女子中学生を見ていて思うこと/書くことと食べること

Posted at 10/06/29

東西線のダイヤが混乱しているらしい。(9時半現在)ちょっと早めに出かけて動いた方がいいのだろうか。いざとなったらタクシーかバス。雨の日にそういう展開はちょっととほほだが。

毎日同じ時間にブログを書いていると、大体毎日同じようなことを書いて、毎日同じようなことをして、という感じになるのだけど、少しペースをゆったりしにしたらさて何を書こうかと考え込む。それがいいことか今ひとつなことなのか、それもよくわからない。

それにしても東京は蒸し暑い。今朝は6時の気温が25度だったから熱帯夜だったんだろう。サッシをあけたまま、外気が少し通るようにして寝たせいか寝苦しいということはなかったのだけど、熱いシャワーを浴びたらだらだらと汗が止まらなくなった。逆に言えば、湿気で汗が出にくくなっているということなんだろうな。だから一度出だすと際限なくでてくる。何度もシャツを着替えて、洗濯も大変だ。

今外をみると、雨は上がっている。このまま上がっていてくれるといいのだけど。ただ少し降ってた方が涼しくていいという面もある。まあいろいろだ。

サッカー、昨日はオランダ・スロバキア戦とブラジル・チリ戦。オランダの試合を見ていたけど途中で眠くなったので消音にしてつけたまま寝た。気がついたら6時前でブラジルの試合も終わっていて、朝のニュースで結果を知った。オランダはロッベンが決めた一点目は見ていたが二点目はシュナイデルが決めたのか。ブラジルは二点目をルイス・ファビアーノが決めて3-0。やはり強いな。8強は6チームが決まり、ガーナとウルグアイ、ドイツとアルゼンチン、オランダとブラジルの組み合わせが決まった。今日パラグアイ戦。今日勝てばスペインとポルトガルの勝者との組み合わせになる。4強まであと2勝。

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一昨日は昼頃アリオ北砂に出かけて昼食の買い物などし、福家書店をのぞく。夕方日本橋に出かけて、丸善で本を物色したりしたけど、結局夕食の買い物だけして帰宅。昨日は昼頃西友に出かけてパンを二つとゼロサムの最新号を買い、夕方銀座に出て山野楽器でユンディ・リのショパン、スケルツォと即興曲のアルバムを買った。このユンディ・リのピアノ、私はとても好きだった。スケルツォの弾き方も正攻法なんだと思うけど、表情が明確に表現されていて、私が持ってるポゴレリッチやアシュケナージの演奏よりも好きだなと思った。

ショパン:スケルツォ第1~4番
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教文館をのぞき、銀座を離れる。三越前で乗り換えて神保町に出、マザーズをのぞき、ブックマートを物色して三省堂の店頭で古書を見ていたら雨が激しく降ってきた。がいあプロジェクトまで歩いて弁当を買おうと思ったら売り切れ。パンを二つ買って新御茶ノ水に出る。地元で降りて文教堂でコミック乱を買い、デイリーにいって弁当と牛乳を買って帰った。自然食の弁当を買い損なったらコンビニ弁当というのも我ながらちょっとどうかと思うんだが。

ゼロサムをちょっとまじめに読んでみる。私が今まで読んでいるのはランドリとか拝み屋横丁とか四コマものとか大体決まっていて、雑誌自体がプッシュしているマンガはどこが面白いのかよくわからないのだけど、最遊記リロードとかラブレスとかあまつきとかも読んでみた。まあよくわかったとはいえないけど、買い始めた頃の拒否反応は薄れてきている。ラノベというのもこういう感じなんだろうな。なんか、読めるようになったきっかけというのは、書泉グランデの地下のコミックコーナーで、ゼロサムの話題をしている女子高生の二人組を目撃したことが大きい気がする。一体どういう人がこのマンガを読んでいるのかという、具体像が少しはわかったからだ。教員をしているときの生徒に高河ゆんの読者はいたが、ちょっと特殊な感じがした。まあグランデの地下で見かける女子高生もやや特殊かもしれないという気はしないでもないが、自分が神保町に通う人種なのでまあある種の親近感もあるということなんだろう。なんだかんだ言っても出版文化の消費層も女子中高生がかなりの割合を占めているんだろうし、そういう部分が感覚的に少しでも理解できると言うことは多分自分にとってもプラスなんだと思う。

しかしそれにしても、地下鉄の中で東京のお洒落な女子小学生とか女子中学生とか見ていると、なんか違うだろうという気がしてくる。この年代は正直言って、もっと地味なものを着ていたほうがそれに見合った魅力が出てくるものだ。まあ本人たちがお洒落をしたい気持ちはわからないでもないし、まあ地方の子と違ってセンスもそうわるいわけではないが、やはりどこかイタイ気がする。厨房とか中二病というのは何もイタタ感満載の男子中学生だけではないんだと思う。ああいうのをみていると何の変哲もない洒落っ気のないものを着ている地方の子どもを見ているほうがむしろ魅力的に見えてくる。

しかしそれが、高校生になると全然そういう気配のない子はやはり問題があるなあと見えてくるのが不思議だ。高校生はやはり、自分の感覚に責任を持った服を着るようになっているからだろう。中学生はまだまだ子どもなんだろうな。

しばらく、書くということの意味について考えていたのだが、書くということは少なくとも私にとっては本能だといっていいのではないかと思えてきた。本能であるならば、食べるということと同じように、「どう書くか」ということが問題になっても、「なぜ書くか」ということは通常は問題にならない。どう食べるかということについて考えている人は山のようにいるが、なぜ食べるかということについて考えている人はそう多くはないだろう。食べなきゃ死んでしまうのだから、物凄く本質的には人間は生きるために食べているのだ。生きるために人は食べたいという欲望を起こし、食べる。まあよりよく生きるためにはその欲望をコントロールしなければならないけど、なぜ食べるのか考えた挙句食べるのが面倒くさくなって食べなくなる、という人はそんなに多くはない。書くということも、私にとっては多分同じで、生命を維持するのに必要な行動なんだと思う。書くのはある意味大変なんだけど、書いているとすごく楽になってくる部分がある。まあそういう、いわば生理的な必要性に私の場合は直結している部分がある気がする。

しかし、食べ方が人において基本的な品位であるように、書き方というのも大事なことなんだろうなと思う。ブログにおいては、書き始めの頃はともかく、最近では特に戦略を持って書いているわけではない。こういうことは書いてこういうことは書かない、という漠然とした指針はあるけど、よりフリーハンドに、つまり生理的な必要の赴くままに書いているというのが正直なところだ。世の中にはお喋りしていないと我慢できな人がたくさんいるということと同じことで、(私もそういう人に属しはするのだが)書いていないと我慢できない人もいるということだ。

フィクションを書くということは、その生理的な必要性をもう少し洗練し、もう少し集中させ、もう少し次元を上げたものを書くということで、ブログとは違うレベルの集中力を要する。ただ、生理的なバズーカの発砲のような衝動みたいなものもやはり創作には必要だと思う。それが最終的にどういう形で作品に残るかは別として、生理的なものが全く残っていない作品というのは面白くもなんともないと思う。ありすぎるのもちょっとやだなと思ったが。

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