「常にベストである」のは「当然」か/「褒めて育てる」は正しいか
Posted at 10/04/10 PermaLink» Tweet
今朝はいい天気だ。朝からよく晴れている。昨日は仕事がわりあい暇で、9時半に終えて帰り、早目に夕食、入浴。寝たのもいつもより早かった。そのせいか、朝は6時過ぎにすっきりと起きられた。少し寒かったけれど。
毎日いくつかの物語というか小説の、短いのを書いている。断片でなく、短いなりにも完結した作品なので、「少女タイラント」の方には掲載していないけれども。
「ピアノの森」のことを少し考える。今週号で、「英雄ポロネーズ」の中間部を、普通ならばピアノからフォルテに弾くところを、フォルテからそのままフォルティッシッシモに持って行き、アダムスキが「おいおい、なんてパワーだよ」とつぶやく場面があるのだけど、こんなに指に力を入れすぎたら腱鞘炎になるよなあと丸山誉子のエピソードを思い出しながら思っていたのだが、考えてみたら最初からカイの弱点は「強く弾きすぎる」というところにある、それはもともと重めに設定した阿字野のピアノが森に捨てられていた「森のピアノ」を子どものころから弾いて育ったから、普通のピアノが弾けない、というところにあることをようやく思い出した。少年時代の設定そのものがちゃんとまだ生きているわけで、油断しちゃいけないと思った。
また2010年の7号で雨宮の二次のピアノを聴いた阿字野とセローのこんな会話がある。
「いいピアノだったね!父親のピアノとはまた違った…」
「ええ、これからが本当に楽しみです」
「日本の未来は明るいね!カイといいジュニアといい、若手が芸術家ぞろいだ!」
「カイは自分のことを芸術家だなんてまるで思ってませんよ」
「じゃあ何?」
「カイはプロの職人を目指しているんです」
「はは。そんなの僕からしたら同義語だよ!」
この会話、ストーリーの中からするとやや唐突な感があるので心に引っ掛かっていたのだけど、ふと、これは作者の「主張」なんじゃないかという気がした。私は芸術家でなく、「プロの職人」を目指す、あるいはプロの職人であると。一色まことのスタンスは、いろいろな作品を見ても絶対そうだと思う。彼女はアーチストであることを目指しているわけではない。多分、こういうことを書いたのは、このマンガを書いているせいで一色自体がアーチストのように見られることが増えたからなのではないかという気がする。まあ、「バカボンド」の井上雄彦のように芸術家といってもいいようなタイプのマンガ家はいるけれども、一色はそういう線のマンガ家ではない。実にウェルメイドな、よくできた作品を、非妥協的に作り出していく、いい意味での職人だと思う。クライアントの求めに応じて適当に作品をでっちあげる、悪い意味での職人ではなく。
そしてもう一つ言いたいのは、本当はその両者は同じものなのだということ。小器用に注文に応じる職人をありがたがり、重宝に使いながら使えなくなったら切り捨てる今の日本のやり方にやはり抗議の意思があるのではないかということだと思う。作品というのは人が作るものだから、人間は常にベストの状態でベストのものを作れるわけではない。ベストのものを作れなければ不十分なものでも出せばいいというのはやはり堕落だろう。ベストのものが作れる状態を取り戻してベストのものを作ってもらいたい。
また、クライアントがベストのものを要求するのは当然であるけれども、どんなコンディションでも常にベストであるのを当然のこととして要求することには問題があると思う。これは野球選手のことを考えてみればわかる。今から数十年前は、稲尾のように年間42勝するピッチャーがいた。まさに鉄腕だが、それがどれだけピッチャーの肉体を酷使することだったか想像に難くない。今では合理的に常にベストを維持し、何年も選手生活を続けられるような方向に野球界のマインドが動いているのはいいことだと思うし、当然のことだと思う。
マンガにしても、昔は毎週連載が当たり前で、休載というのは異常事態で、それで連載を追われることも珍しくなかったが、今ではモーニングなどでも週刊誌なのに隔週掲載とか、月一掲載とか、多様な連載形式が行われるようになっていて、予告による休載も当然のことになっているのは、もちろん読者としてはもっと読みたいという気持ちはあるけれども、作家にずっと書き続けてもらうためには当然のことだと思う。一色まことは完全主義の作家で、よく原稿を落としたそうだが、最近は確実に隔週連載のペースを守っていて、すごいなと思う。単行本で相当手直しがあるからそれでもずいぶん大変な書き方をしているのだとは思うけれども、何というかそういう作品を読めて幸せだ。
そういう作家たちに対して、なんかの拍子で休載になったときに、「プロなら休むな!」というのはちょっと心ないことなんじゃないかと思う。プロ野球選手がけがをして休むのは仕方ないと思うのに、なぜマンガ家が諸事情で休載するのは許さないのか、と思う。野球選手は肉体で表現する仕事だから、そのけがは目に見えることなので仕方ないと思うのだろうが、マンガ家のそういう事情は漫画家の肉体がそこにあるわけではないし、大体職人気質の人は自分自身を表に出すことを極端に嫌う人が多いから、余計それが分からず、無理な注文をファンはしたがるという傾向があるんだろうと思う。余計なことを思わずに諸事情を乗り越えることを黙って待つ理解というものを持つことが、マンガのファンのコンセンサスになればいいんだけどなあと思う。
というようなことを一色まことも考えているかどうかは分からないが、ちょっとこの台詞には珍しく彼女自身が現れているんじゃないかなという気がした。本人は否定するかもしれないけど。
***
よく、「褒めて育てる」とか、「褒めて伸ばす」というけれども、それは実は危険な部分があるんじゃないかということを最近思っている。もちろんそれは、「叱って育てればいい」ということとは違う。その子の悪いところばかり指摘していれば萎縮してしまい、自分のよさが見えなくなって自分に自信が持てなくなり、自己評価が極端に低い子どもたちが多くなる、という問題点は確かにある。というか、そういうことどもたちがとても多いことが現代の教育の一つの問題点だと思う。
しかし、だったら叱らないで褒めればいい、というのは短絡的過ぎる。意識しなければいけないのは、「言葉の力」ということなのだ。「叱る」、という行為で使われる否定的な言葉の力が子どもを委縮させるということは理解しやすいと思うが、「褒める」言葉にも実際にはいろいろな問題がある。
というのは、「褒める」側の立場を考えてみればよくわかるけれども、そこに「打算」が働くことが多いからだ。本当に感心して褒めるならともかく、「よく勉強して偉いねえ」などと褒めるときは、その気持ちの裏に「褒めて勉強するなら安いもの」という打算があることが多いだろう。褒められた方は単純にうれしいから勉強するだろうけど、でも多分何かが引っ掛かる。そしてその打算に気付くと、やはり褒める人間を、そして褒めことば自体を信用しなくなる。こういうことは少し考えれば気がつくことだと思う。
しかし、褒めことばの問題はそれだけではない。
これは、私の子どもの頃のことを思い出しながら書いているのだけど、また、野口晴哉の色々な著作に書いてあったことでもあるのだけど、子どもは絵を書くのも本を読むのも何かを作るのもただ単にやりたいから、やると楽しいからやっているのだ。大体本を読んだり勉強したり絵を書いたりすることは、いたずらをしてものを壊したり火遊びをしたり友達と喧嘩をしたりすることと違って、あまり叱られることがない。子どもは何でも好きで打ち込むから、遊んでいるうちに勢い余ってガラスを割ったりして叱られつつやっていいことと悪いことを覚えていくけれども、あまり叱られないことに熱中するタイプの子どもは「手がかからない」と言って重宝がられ、(それもある意味不干渉という名の虐待なのかもしれない)算数に熱中したり上手に絵を書いたりしたりすると褒められたりする。
まあ、そこで算数に熱中していたら「算数なんかやるな!」と怒られたりしたらあまり勉強しない子どもが育つということはあるだろうけど、「算数やって偉いね」と言われたらどうなるか。これは野口が書いていて、最近ようやくその意味がピンとくるようになったことなのだけど、せっかく自分が楽しくて算数をやっていたのに、算数をやることの意味が、「自分がやりたいから、楽しいからやる」ことではなく、「褒められるからやる」ということに変えられてしまうのだ。
つまり、今まで無心に楽しいからやっていたことが、無心ではできなくなる。「褒められたい」という打算が働くようになり、「褒められるからやる」ということに変わってしまう。大人は、褒められるからうれしいだろうと思って無神経に褒めるけれども、その心ない大人の行為が、子どもを傷つけ、子どもの楽しみを奪うことになるのだ。
人間には承認欲求というものがあって、これは生きていく上で最も重要な、とくに大人に守られないと生きていけない子どもにとっては「大人に承認させる能力」というのは最も必要な能力だ。だから子どもは全力で大人に認められたいと思う。叱られないようにするのもそのための行為だし、逆に叱られるようなことをするのも認められたい、叱ってほしいという行為だったりする。
だから、いいことをしても悪いことをしてもどんな状態であっても無条件に親は子どもを認めなければならないし、それを子どもが心の底から感じられて初めて、安定した落ち着いた子供になる。しかし、自分のことで一生懸命な大人は往々にして子どもへの関心が足りなくなりがちだ。そうなると子どもは大人に認められようとしていろいろなことをするようになる。
褒められたいというのもその一つだ。「やりたいことを、楽しいからやる」というのは、人間が生きていく上で、つまり人間が自立して生きていくために、一番必要な能力だと思う。守られている子どもは、無心にやりたいことがやれる。そして守られながら、自立の能力を自ら育んでいく。しかし、自分が守られているということに少しでも不安を感じている子どもは、どうにかして大人に振り返らせるために、いろいろな手段を講じる。もし、自分のやっていることで褒められたとしたら、「やりたいことを、楽しいからやる」という人間として最も必要なことを売り渡してまで、褒められたい、認められたいと思うようになってしまう。
小さいころに、自分の魂を売り渡してしまった子どもは、やはり幸せとは言えないだろう。それは、とても気がつかれにくいことだ。なぜならそういう子どもは、ある意味社会に順応している。手がかからない子どもとして重宝がられ、褒められたいという原動力で「いい子」になり、周りにびくびくした視線を飛ばしながら、人から褒められるすべを身につけ、磨き上げて「立派な社会人」になる。そして、すべてのことはできるが自分のやりたいことだけはできない、という悲しい大人になれる。子どもの頃、好きなことをやっていて褒められるということには、それだけの危険性がある。
褒める、という行為は難しいのは諸刃の剣だからで、善意で褒める場合でもそれがあらぬ結果を招くこともある、ということもあるし、打算や策略によって褒める場合でもかなり確実に求める効果が得られるということでもある。
現代はあまりにそうしたやり方での人間コントロールが研究されすぎていて、やはり嫌な感じがするところがある。まあしかし、それが究極において人類が幸せになるためなら、まあいいんだろうと思うところもある。
努力しない生き方 (集英社新書)桜井 章一集英社このアイテムの詳細を見る |
桜井章一『努力しない生き方』に、「我慢しない ― 「我慢すれば報われる」は錯覚である」という項がある。我慢をすれば親に褒められるので我慢をプラスのものだと思うようになり、そうやって我慢を重ねていくと自分の存在感を感じるという喜びが生まれるけれども、そうした自覚の仕方はいびつなものだし、精神的ダメージは大きいし、必ず報われるわけでもない、という話だ。ここでもやはり、「褒める」という行為が他者をコントロールする手段として使われている例が挙げられているわけだ。
まあ、何というかいろいろ難しい。じゃあ「褒める」ことはよくないことかと言われれば、そんなことはない。褒めるつもりじゃなくても思わず賞賛してしまうということは人間にはよくあることだし、そういう真情の吐露であればどんな褒めことばでもいいとも思う。しかし世の中には「褒めすぎ」という言葉もあるように、結構その程度が難しいものでもある。
かくれ里 (講談社文芸文庫)白洲 正子講談社このアイテムの詳細を見る |
しかし、全然次元の違う「褒め」もある。「国褒め」という言葉がある。万葉集や古事記などで、大和の国の美しさをうたう歌がたくさん出てくるが、それが国褒めだ。いかにこの国が美しいか。いかに素晴らしいか。そういうことをうたうことで、この国の素晴らしさにはさらに魂がこもる。白洲正子も『隠れ里』か何かで、この国の仏たちというのは信仰され、大事にされることでその素晴らしさに磨きをかけてきた、というようなことを言っている。讃美歌という言葉もあるように、神は称賛されることでますます神々しくなる。神もまた、人間の力を、本当は必要としているのだ。為政者が、称賛を必要とするのは自分が気分良くなりたいからでも、自分の権力基盤を固めたいからでもない。もちろんそういう面もないとは言えないが、それだけしか意識できないとしたら、権力者としてはいいかもしれないが、真の為政者としては不足だろう。為政者は称賛されることでより威厳が加わり、より権威が高くなり、そしてより国を安定させる力を持つ。そしてその為政者の言葉は魔法の力を持つようになる。何かこのあたりは「ランドリオール」にも通じていくな。
まあそんなこんなを考えていくと、「褒める」という行為には、また「褒めことば」という言葉には、人間存在にとって、また世界そのものにとって本質的に大事な働きがあるということが分かってくる。言葉の使い方一つで一人の人間を良くも悪くも、幸福にも不幸にもできるように、言葉の使い方一つで世界を良くも悪くも、繁栄させることも滅亡させることもできるんだと思う。
まあちょっと話がでかくなり過ぎたが、褒めるという行為にはそれだけの力がある、ということを自覚したうえで、心して子どもにも対した方がいいのではないか?ということだ。
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