村上春樹『1Q84』Book3を読んで感じたこと。
Posted at 10/04/17 PermaLink» Comment(2)» Tweet
今朝は朝から雪かき。四月も後半になって、雪が10センチも積るなんて、だれが予想しただろうか。でも今日は暖かくなるという予報だったので、とりあえず歩ける程度に雪をかいておけば、あとは融けるだろうといういい加減な方向性でかいた。それでも普段していない運動は体にこたえるらしく、左右の腕が重くてキーボードに向かってもなかなか指が動かないし、ミスタッチが多い。まあ、それは腕が動かないということだけではなく、自分の頭がろくに動いていないような感じがする、ということもある。
今朝はもう一つ仕事をした。来週の日曜に父の納骨があるのでそのための連絡を7、8件。色々懸案になっていたことを話をしたりして、現時点ではまあこんなものかという線が出てきたので少し安堵。まあそういうこともあって疲れが出たということもある。
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村上春樹『1Q84』Book3、午前11時現在で214/602ページ。大体三分の一は読んだか。少しずつ話が動き始めて、天吾も青豆も牛河もある方向に向かい、求心力を持って動き始めているように思う。しかし、その方向はまだまだ謎めいていて、青豆が言うように、1Q84年を生き抜くためのバイブルである『空気さなぎ』がその謎の中心にあるだろうということくらいしかよくわからない。
そういえば、Book1、Book2を読んだときは、出てくる団体が実在の何をモデルにしているのかとか、そういうことに結構関心を持ったのだけど、今回はそういう関心はほとんど掘り起こされない。作中で起こる事件や、すでに起こった事件についての、物語が提供する枠の中での展開がしずしずと、あるいは窮迫的に、進んでいる。こういう小説って、レビューを書けるのかなあ。
天吾から見る世界と、青豆から見る世界と、そして牛河から見る世界が案外似ている、というのは面白いと思う。そしてどれかののぞき窓から、自分の見ている世界ものぞけるような気が、多くの読者にはするだろう。世界からの軽い疎外感。そこで生きていかなければならないという自立心。私の中にあるものもあるし、ないものもある。
いままでのところでいいなあと思ったのは、朗読の場面だ。朗読を取り上げた小説でいままで印象に残っているのは、文字通りのドイツ小説の『朗読者』とイシグロの『わたしを離さないで』だけれども、この二作は具体的に何かを朗読して引用しているということはない。『朗読者』の方はナチスの戦犯というより重いテーマの方にどうしても引っ張られてしまうのだけど、『わたしを離さないで』の方は臓器移植用に育てられたクローン人間というテーマの重さよりも朗読の場面の幸福感の方が強く印象に残っている。
『1Q84』がいいのは、朗読した文章を引用しているところだ。Book2で引用されたチェーホフの『サハリン島』は岩波文庫から復刻され、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』もずいぶんたくさんのCDが出たけれども、今回引用されているのは内田百閒の『東京日記』とディーネセンの『アフリカの日々』だ。ディーネセンは先日読んだばかり(『アフリカの日々』ではないが)なのでわりと盛り上がった。朗読というものの持つ幸福感というのは、本の魅力と、読む人の声の魅力、そしてそこに流れるゆっくりとした時間、というものを感じるからだろう。この三作における朗読はみなベッドサイドで(意味は違うこともあるが)行われていることも、聞く人と読む人の距離感というものを感じさせ、暖かい感じがする。
そんなに早く読み切りたいわけではないけれども、そのうち雑念が出てきて一気に読んでしまうだろう。いまのところ村上春樹の小説で一番評価が高いのは私の中では『ねじまき鳥クロニクル』なのだが、『1Q84』になるかもしれない。読み終えてみないと分からないけど。
昨日も書いたが、『1Q84』を読んでいて一番感じるのは、自分自身の変化だ。Book1・2を読んだときは、天吾や青豆、あるいはふかえりにかなり感情移入しながら読んだ。というのは、自分が育ってきた環境がかなり作中の設定に似ていた部分があったからだ。しかし、今はそういうことを感じない。もう設定についての話は出てこないから、ということはあるけれども、彼らに感情移入するというよりは、もっとたゆたう人生の波みたいなものを外から見ている感じがする。何が自分の中で変わったのか、はっきりとは分らないが、やはり父の死というものを境にした自分の中の変化が、同じ小説の続きを読んでいる中で自分の変化として自分自身に感じ取らせているのだと思う。
ストーリーに緩急が出てきたので、同時並行で小説を書くというのは難しいかもしれない。
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"村上春樹『1Q84』Book3を読んで感じたこと。"へのコメント
CommentData » Posted by shakti at 10/04/18
こんにちは。
>いままでのところでいいなあと思ったのは、朗読の場面だ。朗読を取り上げた小説でいままで印象に残っているのは、
僕は「復習」をしているので、まだBook3はほとんど読んでいません。しかし、上の点について一言二言かかせてください。Book2の426頁でテンゴが、「ここは小説の世界なのだろうか」と自問するところがあります。これはこの作品に対する我々の感覚ではないかと思えるのです。というのは、村上の他の長編小説と比べると、『1Q84』ほど小説のリアリティが大きくなってきたものはなく、小説が確実にリアルな世界を構築してしまったように見えという感想です。(短編作品はある意味でリアルだと思えるが)。
ふつう小説や漫画、映画を読んだり、それを批評することは絵空事をどれだけ面白く書いてくれたのかという議論になるわけです。ところが村上については、もはや作り話ではなくなってしまったんじゃないのでしょうか。一つの世界だから、皆さん、1Q84を論じなくては成らなくなる。そんな感想です。
余談ですが、多くのポストコロニアル・インド系作家が、その小説の内部にキプリングの朗読シーンを設けたりする(『イングリッシュ・ペイシェント』とかです)のは、キプリングの作品が単なる作り話ではなくなってしまったからなんだなあと思います。
CommentData » Posted by kous37 at 10/04/18
こんばんは。コメントどうも。
確かに、『1Q84』は今までの村上の作品に類例がないほど細かく丹念に、リアルに書かれていますね。
ただ、教団内部の話とかタマルとか坊主頭の言動などを読んでいると、やはり007をみているようなアンリアルさというのはどうしてもあると思います。いや、『ねじまき鳥』なんかに比べるとリアルなはずの部分が強引な展開をすることによって幻想的になってしまっているような部分はごくわずかになっていると思いますが。
私はブログ本文にも書きましたが、古典的な大団円を持ったよく出来たストーリーだと思うんですよ、Book3の終わりまで読めば。まあ、『ねじまき鳥』にはふんだんに出てきた加納クレタだとかマルタだとかちょっと現実にはいそうもないキャラクターは、「ふかえり」くらいですかね。まあ「ふかえり」がいなければこのストーリーは成立のしようがないのでそこだけは仕方ないのだと思いますが。
朗読とリアリティの関係、ちょっとよく分かりませんが、ただ、朗読という行為をその文章込みで描写することによって、読者に「耳をそばだたせる」ことを強いて、感覚を研ぎ澄まさせる感じがあります。「サハリン島」も、Book3に出てくる百閒もディーネセンも厳密なフィクションではないが、さりとてノンフィクションとも言い切れない感じのする文章で、小説と現実の虚実皮膜をその引用が支えているのかなという気がします。ちょっとまだそのへんは私にはぴんときませんが。