『1Q84』Book3・感想/都心の道路/賭けてもらえるもの

Posted at 10/04/19

『1Q84』Book3。感想を書こうという気に日曜日の深夜になったのだが、あまり勢いがつかなくて、結局一番寝かせることになった。他のサイトを読んだり他の人の話を聞いたりしていると、案外みんなBook1から読み直していて、みんな熱心だなと感心してしまうのだけど、私もきっとBook1から読み直したらまた違う感想が改めて出てくるかもしれないなとは思う。しかし今日のところは、Book2までの話を思い出しながら読んだBook3の感想ということで書いてみたいと思う。尚ネタバレの部分があるので、これから読もうという人はお読みにならないほうがいいかもしれない。ネタバレでもかまわないと言う方は、どうぞ続きを。


1Q84 BOOK 3
村上春樹
新潮社

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p.228で、ゲイで屈強でインテリジェンスに溢れた用心棒、タマルが青豆に、「いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない。よく覚えておいたほうがいい」という。これはヴィトゲンシュタインの言葉なのだそうだ。彼らは傷つけられた子どもに対しては、自分の経験から人一倍気を使う。青豆が妊娠している子どもに対して、青豆がどのような意思を持っているのかをタマルは確かめた。そして青豆はその意思を忠告として受け止めつつも、自分の求めている愛はこの子どもと関わりを持っている、という直感による確信を持っている。

「いったん自我がこの世界に生まれれば、それは倫理の担い手として生きる以外にない」、ということはつまり、「どんな自我でもその人なりの倫理の担い手として生きている」ということだ。まあ、言葉にしてしまえば箸にも棒にもかからないような倫理かもしれないし、また一見市井に埋没した人間がきらめくような輝きを放つ硬くて強くて美しい倫理を持って生きているかもしれない。この世に生きる人たちが、自分の倫理を言葉にして持っている人がどれくらいいるかと言ったら分からないが、言葉にならないにしてもみなそれなりの倫理を持っていることは、言われてみればその通りだなあと思った。自我が倫理の担い手という言葉を言い換えれば、すべての人間は「たましい」を持っている、と言い換えてもいいかもしれない。日本人にはそういう曖昧な言い方のほうがぴったり来るだろう。でも言っていることは、クリアーなのか曖昧なのかの違いだけで、あまり違うわけではないなと思った。タマルも青豆も、「倫理の担い手」という言葉のほうがぴったり来るたちの人間だと思う。

p.232で天吾は思う。「窓の外に見えるのは、いつもと変わりのない光景だ。目新しいものは何もない。世界は前に進まなくてはならないから、一応前に進んでいる。安物の目覚まし時計みたいに、与えられた役割を無難にこなしているだけだ。」物事が進行しないとき、あるいは自分が動く気持ちにならないときというのはそういうふうにかんじることがあるなあと思う。ただ、この前後で青豆に思いがけない妊娠という事態が発生したように、天吾の側にも安達という看護婦を通して「ここはあなたのいるところではない」というメッセージを伝えられる。その前当たりまで、物語は淡々と進み、牛河を通してBook1と2を復習している感が強かったのだが、160-70ページ前後から急に動き始める。

村上の小説には巫女的な、媒介者(おそらくは「世界」との)としての女性、のような存在がときどき出てくる。『1Q84』で代表的なのは勿論ふかえりなのだが、焼肉を食べに行った三人の看護婦、とりわけ安達クミはそういう性質が強い。

村上の小説の女性は意志的で、世界から「自立」しているタイプの女性が多い一方で、主人公の男性はこころ優しい、どちらかというと受身な、意志で世界を動かそうとするのではないタイプの存在が多い。だから、「世界は前に進まなくてはならないから、一応前に進んでいる」というような傍観者的な感想を持ったりする。しかし安達クミの出現で彼は正しい道、つまり「猫の町から帰る列車」に乗る。もともとふかえりは世界との媒介者だが、安達クミはさらにその代理のような感じだ。

同じページに、「一羽のかもめが風に乗り、両脚を端正に折り畳み、松の防風林の上を滑空していった。雀の群が不揃いに電線にとまり、音符を書き換えるみたいにその位置を絶えず変化させていた。くちばしの大きなカラスが一羽、水銀灯にとまって、あたりを用心深く見回しながら、さてこれから何をしようかと思案していた。幾筋かの雲がとても高いところに浮かんでいた。それはあまりにも遠く、あまりにも高く、人間の営みとは関わりを持たないきわめて抽象的な考察のようにも見えた。」という記述がある。こういうハイブロウっぽい描写が昔はやはり村上世界をつくる重要な要素のように見えたが、最近はあまり魅力を感じなくなってきたなと思う。ただ、その描写の仕方はともかく、かもめや雀やカラスが「思う」ように、雲もまた「思って」いる、世界は多分、人間に分からないだけでその秘密をいつも開示している、という感じがなんだかよく書かれているような気がした。

Book3で天吾と青豆に加え、牛河の章が現れたのは読み始めて30秒で気がついた衝撃だった。牛河は新興宗教団体のエージェントとして天吾の前に現れ、また青豆の調査をし、二人を追いかけながらいつしか自分も「二つの月が見える世界」に引きずり込まれる。天吾と青豆が孤独な子ども時代を送ったのと別な意味で、牛河も孤独だった。そのため、この三人は、子供のころからそれぞれの仕方で「自立」している。なんというか、この小説の本当のテーマが何であるかはさておき、私はこの「自立」というテーマがすごく惹かれるものがあった。

青豆は宗教団体の両親の元を離れてソフトボールを足がかりにスポーツインストラクターになる。天吾はNHKの集金人の父親から離れて有り余る才能の片鱗を時折見せながら、予備校教師をしながら作家を目指している。天吾のメンターは小松という編集者であるが、青豆はより対等な感じでセーフハウスのオーナーの老婦人と、タマルというプロと付き合っている。そういう意味で、より強い自立感を青豆のほうに感じる。

牛河は恵まれた医者の家庭で一人醜く生まれ、弁護士になり幸せな家庭を築くものの「魔がさして」転落し、家庭も仕事も失って闇の世界に蠢く存在の一人になる。彼は執念深い調査によって青豆と天吾の関係を知り、天吾を調べることで青豆を補足する可能性を探るが、ふかえりが現れて牛河の自我を混乱させ、天吾の見た二つの月を自分も見ることによって「魔がさして」無防備な姿を青豆に晒す。青豆はその牛河を追跡することで天吾の居場所を知る。追うものが逆に追われて事態は急展開する。ああ、この展開を書くことは蛇足だ。

この三人に共通するのは、子どものころに「世界」に、あるいは世界に等しい両親や周囲の人間に拒絶されて成長したということだ。だから皆ともに世界に対する不信を持っている。その中でも青豆は女性ということもあるのだろう、とにかく生き残るためには世界を一切信じず、自分の力だけで乗り切っていくすべを身につけ、また世界をいい方に変えようとする意思を持つ老婦人に共鳴して暗殺をも実行していく。天吾は事態を面白くしたい編集者にゴーストライター的なリライトの仕事を請け負わされ、そして彼が作り出していく『空気さなぎ』の世界にいつの間にか巻き込まれ、「猫の町」にいることに気づく。三人が三人とも、自分がいるべきでない世界にいることに気がついてしまう。

天吾と青豆には「愛」という戻るべき、あるいは到達すべき場所があったから非常階段を上ってこの「1Q84年」、あるいは「猫の町」を脱出していく――猫の町とは鄙びた町の療養所のことだと思っていたので、世界全体を指している、つまり「1Q84年」と同義のものとして作者が扱っていることが最後に明らかにされてちょっと驚いた――が、牛河は戻るべき場所というのは、転落した先の、さらにその底、ということになる。しかし彼のたましいの一部はリトルピープルによって空気さなぎとして再生する。その先は分からないが、そこから「さきがけ」の新たなリーダーが生まれてくるのかもしれない。彼は月が二つある世界から、逃れられないまま転生していく、のだろう。

241ページに、ふかえりのことを「自立心の強い猫と同じだ」と描写するところがある。そこに、私は村上の自立への憧れ、あるいは尊重、というものを強く見出す。話は飛ぶが、『モーニング』の「エンゼルバンク」で、ある女性がかっこいいのはなぜか、それは何者にも頼らず、自立しているからだ、というのがあった。私は、自立して行動している人を見てもまあ中にはかっこいいと思う人ももちろんいるのだけど、あまりその美徳が自分に必要な感じがしない。若いころはむしろ必死になって自立したいと思っていたのだけど、今にして思えば、どうも何か自立というものをはきちがえていたような気がする。

自立というのは、依存を失うところからはじまる。ただ私はどうも長男体質で、受け継ぐべきものを受け継がなければならない、ということの方がどうも強い。受け継ぐというのは自立するよりもさらに大変な部分がある。親、という相手で考えてみても、親から自立するということと親から何かを受け継ぐということは単純に考えればかなり矛盾する部分がある。その矛盾・葛藤を乗り越えて行かなければならない。私など、昨年の暮れに父が亡くなったけれども、まだその当たりは自分の中で手探り状態だ。自立ということもある意味血を流して達成せざるを得ないことがあるのは作中で書かれている通りだが、受け継ぐということも現代において生易しいことではない。

自立というのは結局、経済的な、精神的な自立だけではなく、一個の人間であると周囲に、あるいは世界に認めさせることでなければならない。それは自然に達成されていく部分もあるし、大きな葛藤を要する場合もある。大きな組織に属してそこに依存することで親からは自立するという場合もあるが、それは本当の自立ではない気がする。まあ、「エンゼルバンク」の女性社長の格好よさはそこから飛び出したことにあるわけだが。

何というか、私はどうも一人相撲をとる傾向があって、やりたいことをやるために自立する、というよりは自立してからやりたいことをやる、という感じになった。というよりも、そういうことを考えるときの私の「やりたいこと」というのが、自由気ままにやりたい、ということで、それを世界にどういう形でか働きかけていくものとしてとらえてなかったなと思う。世界は、私を拘束する、不自由にする意志を持ったものとして私にはとらえられていたんだなと思う。そうした世界への不信に基づく自立への意志というものは、どうも間違った方向に流れてしまうんだなと思った。

本当に自立するためには、世界を信頼しなければならない。このメッセージは、私が生きてきた中で何度も受信してきたのだけど、どうもまだ本当に自分のたましいの中に染みとおっていない気がする。

そして本当の自立は、自分のためなのではなく、誰か別の人間のためなのだ、ということを、この小説はいっている。

271ページ、「もし神なんてものがこの世界に存在しなければ、私の人生はもっと明るい光に満ちて、もっと自然で豊かなものであったに違いない。青豆はよくそう思った。絶え間のない怒りや怯えに心を苛まれることなく、ごく当たり前の子供として数多くの美しい思い出を作ることが出来たはずだ。そして今ある私の人生は、今あるよりずっと前向きで心安らかで、充実したものになっていただろう。」この青豆の呪詛、あるいは恨みは、とてもよく理解できる。神、というものとは違うけれども、似たようなものが私を苦しめたからだ。しかし、彼女は「心のいちばん底の部分で」神を信じている。それもまた、よくわかる。

青豆の、世界に対する拒絶。彼女の自立は、神への、あるいは世界への拒絶からはじまっている。しかし、それももう終わりは近づいた。「青豆はわからない。彼女にわかるのは、自分の中にいる小さなものがなんとしても護られなくてはならないということであり、そのためにはどこかで神を信じる必要があるということだ。あるいは自分が神を信じているという事実を認める必要があるということだ。」青豆は世界を受け入れる。その「小さなもの」は天吾への、あるいは天吾との「愛」そのものであり、「愛」の存在を護るためには、世界を認め、信頼しなければならないのだ。もちろん、この世界が一方で危険に満ちたものであることを認めた上で。

彼らは自らの歪みのゆえに世界の歪みを引き受け、歪んだ世界に入り、そこで自らの生きる意味を再び見出して、その世界を脱出していく。その危うい綱渡りを抜け出すために必要な資格は「愛」だけで、それを持たない牛河は物語の底に沈んでいかざるを得ず、そこで解脱の輪は閉じられ、空気さなぎとして転生する。

まあ何というか、感想でもなければ解釈でもないし、自分の思考、だけでもないし、とにもかくにも感想を書こうとしながら思ったこと、考えたことを書いたとしか言いようのない文章になった。まあ読んだ方に何らか示唆するものが感じられたらお慰み、というところだろうか。

***

昨夜は夜遅くまでうだうだし、今朝は6時過ぎに起きた。朝、カーシェアの車を借りて靖国神社に行こうと思っていたので、モーニングページも書かず活元運動もする前に出かける。6時45分乗車、7時45分返却の1時間の予定。6時台までは30分500円、7時台からは30分800円なのであわせて1300円になった。

葛西橋通りから永代通りに入り、まっすぐ大手町で皇居にぶつかって右折。近代美術館を右折して九段下交差点を左折。20数分でついた。もう少し早く起きてでればよかったのだが、車もけっこう多く、信号の待ち時間もけっこう長かった。駐車場がまだ開いてなかったので、「下乗」の立て札の近くに車を止め、路上から拝殿に向かって拝礼。簡略だが、一応それで参拝を済ませて帰還。しかし帰りは適当な道がよくわからず、永代通りに出るまでに少し苦労した。とりあえず、7時45分ちょうどに戻ってきた。コンビニで使用料を払おうとスイカを出したら、電子マネー適用外ということで現金で払った。30分だと車に乗ったという爽快感があまりないが、1時間乗るとさすがに爽快感がある。しかしそれにしても都内の道は大変だ。よく把握していないとわけがわからなくなる。まだナビもうまく使いこなせてないし。

午前中はどうもボーっとしていたら、友人から電話がかかってきて話す。具体的な小説の脱稿の話しなどする。私が疲れているのは、出すべき本を出していないからだ、という意見。確かに、そのハードルをとにかく越えなければ、前に進めないという感じはよくわかる。本を出すことの意味。その本に賭けてくれる編集者を見つけること。ということは、賭けてもらうに値する、最低限の礼儀を尽くしたものに仕上げなければならない。ああ、なるほどそういうイメージか、と思う。そういうものを書こうと思う。

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