子ども時代の自分を教えるとしたら、自分はどんな先生でありたいか

Posted at 10/03/20

昨日。10時過ぎまで仕事をし、帰宅して夕食、入浴。自室に戻って少し横になったら寝てしまい、ちゃんと布団を敷いて寝たのは2時半ごろになってしまった。最近毎日うたた寝をしてしまっているが、どうしたものか。ちゃんと着替えて早く寝ればいいのだが、それをする前に少し休みたいと思ってしまう。そんな風にしているから次の日に疲れが残ってしまうのかなあと思う。

昨日少し読んだ『碧厳録』の中の言葉を頭の中で矯めつ眇めつしていて、いい言葉だなあと思う。梁の武帝に「いかなるか聖諦第一義」(仏教の聖なる教えのうちで、一番大事なものは何でしょうか)ときかれて、達磨は「廓然無聖」(広々としていて、聖なるものと聖でないものの区別などないことです)と答えている。「廓然無聖」、いい言葉だ。「真理」などという枠のないことが真理なのだ、と言ってもいい。しかしまあ無理もないが武帝は混乱して「それでは私の前にいるあなたは誰なんですか。聖者ではないんですか。」と尋ねている。達磨はそう聞かれて赤面したのだろう。「不識」(知りません)と答えている。達磨が「私が聖者です」と言うとでも思ったのだろうか。自分を皇帝に売り込もうという俗物ならば当然そう言っただろうし、中国の伝統からしてそういう徒輩しかいなかったことは十分わかるので武帝がそう考えたのも無理はないかもしれないのだが、これで達磨は「この国には共に語るに足りるものはいない」と決め込み、「面壁九年」に入ったというわけだ。

「至道無難、唯嫌揀択」という言葉もいい。「道に至るのは難しいことは何もない、ただ、ことばであれこれ考え、良いと悪いを対立的に考えて取捨選択してはいけない。説明することによって道に至らせることは出来ない」という言葉もいい。これも簡単なことで、自転車に乗るのは簡単なことだが、口で説明するだけで自転車に乗れるかというとそうではない。乗ろうとする人がまず自転車に乗るという手続きが決定的に重要なのである。そのときに、倒れるから恐いとか補助輪がないと出来ないとかあれこれ取捨選択しても邪魔になるだけだ、ということだ。絵を描けるようになるためには絵筆を持たなければならないし、バイオリンを弾けるようになるためにはバイオリンを持たなければならない。基礎的な練習をするのにえり好みをしてはいけない。禅の真理を知るためには禅の真理を知るための修行をすればいい。禅の修業のえり好みをしてはいけない。単純なことだ、というわけだ。

勉強が出来るようになるには勉強をすればいいのだが、「正しい勉強」をしなければならない。正しい勉強と言っても別に方法はいくらでもあるからその中から好きなのを選べばいいのだけど、目の前のことを地道にやっていれば出来るとは限らない。目の前のことの理解の目標設定が間違っていたら勉強の意味がないからだ。たとえば英語の学習、とくにリーディングの学習の根本的な意味は英文の構造を理解しその構造に沿ってその文の意味を把握することだが、私などは高校時代、そのことが理解できておらずに、文の構造の把握も全然不十分なままよくわからなくなると結局知っている単語、調べた単語の意味をつなぎ合わせて和訳をでっちあげる、ということを予習と称していた。それでは全く意味がないのだが、文法や文の構造などというものは人間が真理を追究するうえでは取るに足りない瑣末な問題だという意識がどうしても抜けず、語学を真理追究の道具にすることに失敗してしまったのだ。考えてみれば文の構造をつかむというようなことができずにものごとの構造などつかめるはずがないのだが。

最終的にある程度自分なりに英文を読めると思えるようになったのは、もう40前後になってからだ。高校時代にもっと素直に英語に取り組む心構えと機会があったら、人生の成り立ちも全く変わっていただろうと思う。まあしかしそれも人生だ。だからアドバイスを求められると、「勉強の仕方を間違えないように」ということはいつも口を酸っぱくして言う。ただあんまりそういうことも本当には伝わらないなと思う。自分のことを本当に客観的に見られればいいのだけど、「心の中心に重心を置くこと」が出来ず、恥ずかしいとかばかばかしいとか嫌だとかやらなくても大丈夫なんじゃないかとかいろいろな気持ちに心を乱されて、なかなか勉強をやり直す機会が持てない。私などは本当に、信頼するに足る懐の広い、学識も見識も高く指導力も兼ね備えた本当の「師」が必要なタイプだったなあと思う。そういうものを求めてはいたけれども、結局そういう人に出会うことはなかった。まあそんな風に書くぐらいだから「師」に対する要求が高すぎたのだと思うけれども。でもだから、自分自身が、もし子供の頃の自分を教える機会に恵まれたとしたらこういう「師」でありたい、というような師の在り方を無意識に求めているということはあるのかもしれないと思う。

そしてそれにふさわしい「弟子」をもまたおそらく無意識に求めているのだが、そんなことを書くくらいだからやはり「弟子」に対する要求が高すぎるわけで、まあなかなか難しいものだなと思う。

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