まともであること/高貴なる者の義務

Posted at 10/03/13

昨日。10時まで仕事し、帰宅して夕食、入浴、就寝。体温は一日ずっと36度台。副鼻腔系は安定はしてきているけどこれでいい、という感じにはなかなかならない。泌尿器系に移行しそうな感じが少しあったけど、今のところそういうこともなく。鼻に関しては中学生のころから問題があるし、この風邪で一気にそれが治ればいいけど少なくとも少しかかりそう。考えてみたら、私のいろいろな持病的なものというのは全部中学生のころ以来、というものばかりだ。中学生のころにだいぶ悩んでいたせいか、体の中のいろいろなところにいろいろなものが出た。登校拒否的になっていたのは自律神経失調症という診断をもらったけれども、今考えてみたら全部体がしなやかでなく、硬くなっていたために起こった症状だなと思う。それだけあのころは、毎日強度のプレッシャーや沈んだ思い、やりきれないものを抱えながら生きてたんだなと思う。そういうものが少しでも蘇る気配がすると、体の中のいろいろなところがむかしのようにおかしくなる。きちんと治しきっていないままになっているところがたくさんあるということなんだろう。風邪を引くことでそういうものが調整されていくことを望んでいるのだけど、まあ全部が全部はどうなんだろうか。しっかり活元運動もやっていかないとなあと思う。

昨日も今日も、新しいものは読めず。キューブラー・ロスも、読み直してるキャメロンも、『葬送』も、ほとんど読んでいない。繰り返し読んでいるのは『ランドリオール』と、久しぶりに読んでいる『ピアノの森』。『ピアノの森』はいつ読んでもたましいに灯がともるような感じがするんだけど、逆にあんまり安売りというか毎日読むものではないというところもあって、最近は少し読まなかったのだけど、こういうときには道を間違えないためには読むといいなと思う。「ピアノは俺のいのちなんだ」というセリフとか、こんないわばベタなセリフでこれだけ感動させるのは、それだけ物語がしっかりできているし、作者の中にぶれないものがあるからだと思う。いつも感動させられる。

私が私であることってどういうことなんだろう、というようなことを考えていたのだが、私が私であることとは、「まとも」であることだ、という結論が出た。

「まとも」であるということは、私にとって信念でもあり、強迫観念でもある、なと思う。それが自分を制限するものであっては面白くない。「まとも」であるということは、私を生かし、私を自由にしてくれるものであると同時に、私を抑え、私を苦しめるものでもある。正気であろうとすること、ノーマルな人間であることを望むこと、言葉にしてみればいろいろな表現になるが、「まとも」とか「正気」という言葉が一番しっくり来るような気がする。

「狂」というものに、私は憧れるところがあるが、私自身が「狂」になることは、どうも出来ない。それが結局自分を生かすことにはつながらない、と感じる。「狂」になれる人は羨ましい。自分がそれをやろうとすると、まわりもなぎ倒し、全てを崩壊させるのに自分は全然満足できていないし、不自然だし、という感じになる。「無」になることはできても、「狂」になることは出来ない、というたちの人間なんだなと思うし、だからこそ「狂」には憧れるのだけど、人には向き不向きというものがある。私の場合は、打ち込めば打ち込むほど正気になるタイプだ。まあ「正気」という名の「狂」だ、ということはいえないことはないかもしれないけど。

からだが野口整体や自然食を求めるのは、私のからだがそうした考え方、そうした食べ物が「まとも」であると判定しているからで、「体質」からしてまともなんだなと思う。「まとも」であるかどうかというのは社会的な常識や習慣によって決まることではない。結局自分自身の感覚のみが私にとっては絶対的な判定者なのだ。

そうかんがえてみると、結局自分の今までのさまざまな蹉跌も、結局は自分が下した判断によるものだということがわかって来る。高校教育の現場を止めたのも、やはりどうしてもまともでないものがそこにあり、それに耐えられないということだったのは明らかだし、ある集団にいても極端主義に走りそうな傾向が出て来るとやはりそこにはいられないなという気がしてくる。人間関係も、まあ相手が私の「まともさ」に強い窮屈さを感じたり、自分が相手に対してそういう部分での違いを感じたりすると、続けていけなくなりがちなのだ。

相手に窮屈さを感じさせるようなまともさであるのは、私の至らなさであって、本来のまともさというのはそういうものではなく、もっと包容力のあるものだと思うけど、私も迷いがあってわりとすぐテンパってしまい、あるべき意味でのまともさを失ってしまいがちで、そうなると変に教条主義的になってしまう傾向があったから、まあイヤになられても仕方なかったなと思う。

「まとも」であるために重要なのは、「柔軟さ」だと思う。野口整体の考えでいっても、弛む時に弛み、引締るときに引締まるからだが「いいからだ」で、そういう身体には柔軟さがあり、こわばりが少ない。身体がこわばってくると弛むべきときに弛まないので引締まるべきときにも力が入らず、いつもくたびれた感じが抜けない、ということになる。精神もそういう柔軟さがいるわけだ。

私の場合は、まともな立ち位置をまず、しっかりと定める必要がある、と思う。まともであることで、私は世界を曇りない眼で見ることが出来る、と思う。まともであることは不自由なことである気がしてしまうけれどもそうではなく、本当は無限に自由なことなんだということを示さないといけないと思う。

まとも=Sane、正気。四柱推命だと私は「正官」というのになるが、多分この言葉と正気であることとは関係があると思う。正官は基本的に世の中の要石の役割をすべき星回りなのだけど、そういう人間が真ん中に座っているだけで自然と世の中が治まるという、そういう幸福な時代では現代はない。ただどんな活動をするにしても、「まとも」であること、つまり「自分が自分であること」を離れては本末転倒だということを忘れないようにしないといけない。まあ大体そういうことに関しては神経質すぎるほどなのであんまり心配はないが。

漢和辞典で調べると、「官」とは「師」の家だ。白川静の字典でも調べてみたいが。そうなると、正官とは「正しき師の家」ということになる。また、「官」という字は感覚器官の働きやつかさどる、のっとるという動詞的な意味もある。「官能」の官でもある。官能とは「快さを受け取る働き」だそうだが、アートや音楽に感動できること自体が正しくそうした官能が働いていることを意味しているのだろう。もちろんそれ以外の肉体的な快さについてもだが。

正官は、別の読み方をすれば「官を正す」ということにもなる。政治にも関心があるのは結局そういうことなんだろうと思う。

しかし国家や世の中を正す前に、まず自分を正さないとと思う。自分の身体を正し、自分の心を正し、自分の頭や行いを正す。正すという働きは、理論的なことというより、応用的/実践的なことだろうと思う。仏教で四諦八正道というが、四つの真理を抑えた上で正しい瞑想/正しい思考等八つの正しい道を実践するのが仏教の修行だ。

何が自分にとっての真理なのか、まだ全部わかっているわけではないが、少しずつ見えてきてはいる。分ってきたところから少しずつ実行していけばいいのだと思う。

***

というようなことを考えていて思った。西洋近代文明というのは、「ノブレスオブリッジ」が作った部分が大きいと思う。「高貴なるものの義務」だ。それが拡大すると「白人の重荷」になる。傲慢になって主客転倒すると「マニュフェスト・デスティニー」になる。しかしそうした考え方はもう限界にきているのではないかと思う。シーシェパードやグリンピースの活動はその暴力面が問題になっているけれども、その根本になる彼らの傲慢さが西洋的な「ノブレスオブリッジ」になるのではないかと思った。それはエリート主義といってもいい。EUの官僚が一般にあまり評判がよくないのはそうした面であるようだし、また国連や国際機関、あるいは国際会議でも米英や「先進国」が会議を仕切ろうとするところは世界を善導しようという彼らの義務意識を強く感じる。

言葉を変えて言えば、彼らの思考には貴族性、寡頭制が本質的に染み付いているといっていいのだと思う。そういう意味で、西洋近代文明の本質は民主制ではなく寡頭制なのではないかという気がする。

アメリカには大衆資本主義を導入することでそうしたものを乗り越えようとするところがあるが、それもまた盲目の龍がわけもわからず暴れているような恐さがある。

賢者が世界を指導するという東洋的・あるいはプラトン的な行きかたはどうかと思えば、賢者による独裁に傾く危険が常にある。

政治には君主制・貴族制・民主制の三つがあり、それぞれ堕落すると僭主(独裁)政治、寡頭政治、衆愚政治に陥るという言葉があったが、それをうまく混合したローマが生き残ったというのだけど、どうしたらいいかはともかく、ヨーロッパの伝統の寡頭制的な性質が日本との不協和音を生んでいるということは確かだなと思ったのだった。メモ。

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