「大人になる」という方向性

Posted at 10/03/07

昨日帰京。昨日は概して仕事は暇だったのでよかったのだが、咳き込みすぎて声が出ないという状態だった。7時前の特急で上京したときには大丈夫かなと思う面もあったのだが、割りと順調に帰宅。警戒しているときは大体そんなに障害は起こらないものではある。

今朝も声はあまり出るとはいえないが、咳はだいぶ少なくなってきている。ときどき本当に痰が絡むと咳き込むときはあるが、それ以外は大体穏やかだ。寝る前から一時間おきに熱を測っているが、ここ数時間はずっと36度台後半で安定している。自分の平熱がどれくらい河からないのでなんともいえないが、平熱以下の時期は経過したのかどうか分からない。一度夜明けに36度2分というときがあったが、そのときだろうか。

昨日は帰りに駅の文教堂で『風邪の効用』と『ひばりくんコンプリート』第3巻を買おうと思ったが両方ともなかった。『バーテンダー』の16巻が出ていたので買って帰ったが、連載時にも少し退屈だと思っていたところで、ちょっといまいちだった。あとで考えてみたら昨日は『ダヴィンチ』の発売日で、「テレプシコーラ」の続きが気になってしまったが、思い出せなかったのは迂闊だった。

成長、競争、分配という三つのテーマをそれぞれ心、頭、体、というふうに分けて割り当ててみると、自分の中でとてもすっきりするものがある。体が自然の恵みを求めている、というか肉体としての人間は自然の分配を受けなければ生きていけないわけだし、いくら食べても限界はあり、また割合少なくても生きていけることも分かっているから、本当は肉体にはあまり欲望は関係ない、と思う。心理学的には本能的に欲しいものが欲求で、社会的に欲しがらせられるようになったものが欲望だというわけ方があるとどこかで読んだが、欲求というのは生理的な限界があるからある意味たいしたことはない。どんな男でも一晩で千人の女性と寝ることは出来ないのだし。そう考えてみると、ある意味人間の輪郭というのは割合すっきりと見えてくる感じがする。

頭で考えることは無限で、考えるだけならどんなことでも泉のようにいろいろなアイディアがわいてくるし、いろいろなものについての見かたなどもいくらでもでてくる。頭で考えることというのはゲームのようなもので、いつでも何かと競争している。自分自身との競争の場合もあるし、自分の想定した「社会」との競争の場合もあり、また実際に誰かとの競争の場合も多い。コンピューター相手に競争することも多いわけだし、とにかく知識を増やしたいとかとにかく技量を身につけたいと競争せずにはいられないのは人間性のひとつの性(さが)かもしれないと思う。

私はやはりこういう競争に夢中になってしまうところがあり、それで我を忘れて自分がなにをしているのか分からなくなってしまうところがある。それはある意味、競馬にのめりこんで財産も人生も台無しにしてしまうのと本質的には変わらないのかもしれない。こういう競争の中で身につけてきた知識や経験は確かに身過ぎ世過ぎに役に立ちはするのだけど、それはただたまたまそうなっただけに過ぎず、それによってたましいが満たされるかというとそういうわけでもない。何かに打ち込むことは悪いことではないけれども、競争にとらわれてしまうとそれはある種の無間地獄でもある。

自分はこの当たりの、何かに打ち込むことと何かと競争することの境目がいつも不鮮明で、いつの間にか何かとの競争になってしまっていたんだなと思う。というか、何かをしようとするときに、いつもどういうふうにそれを設定すれば自分の競争心が煽られてやる気が出るだろう、というふうに無意識に考えていた気がする。だから確かにそういうものに打ち込めはするのだが、打ち込んだあとで充実感が残らず、いつも虚しい思いが残った。一体それがなぜそうなのかということもよく分からなかった。

満たされるか満たされないかというのは心の問題、あるいはたましいの問題であって頭の問題ではない。頭というのはそういう意味では道具である。でも自分などは自分の人間構造が頭が中心になっている部分があって、心や体が置き去りになっているなと自分でも感じる部分が大きかった。そうかんじていてもどこに問題があるのか分からなくて、そういう部分を修正することが出来なかったなあと思う。

競争は楽しいが、それは娯楽の部分に留めておいた方がいいだろう。いつでもリタイアできるというポジションを取っていた方がいい。下りられないレースになったときに、心やからだを相当犠牲にせざるを得ないときがでてくる。それに十分耐えられる心とからだであるように鍛えていればいいけれども、少なくとも自分の鍛え方は不足していると思う。

問題は、心なんだなと思う。心が何を求めているのか、といえば、最終的には「成長」なんだろうと思う。成長ばかり強調するとどうかと思うところもあるし、心を型にはめるのは今更したいと思わない。ただ、好きなことをする、嫌なものを避ける、そのこと自体が自分を成長させ、自分を守ることなんだと思う。もちろん成長するために乗り越えなければいけない障害はあるけれども、それは「嫌だ」と本能的に感じるものとは違うだろう。やはり人間には「それは受け入れられない」というものがあるし、あるのが当然、あるべきなんだと思う。それを我慢しなければいけないというのは、成長のために必要な忍耐とは違い、無益な消耗だ。その当たりをきちんと見分けられないと、自分をきちんと守れない。

私はそういう見分け方が基本的に下手で、というのはそれを頭でやろうとしてきたからだ。心が受け入れられないというのは、そのときは言葉で説明できなくても、あとになれば割合はっきりとこういうことだといえるもので、私などはずっとそういう後付けの説明ばかりに気持ちを取られてきていたのだけど、そんなことは本当はどのくらい有益なのかよく分からない。

創造性の問題というのも、頭の問題でも体の問題でもなく、というかもちろん関連性がないわけではないけれども、根本的には心の問題で、創造性が回復し、開発されていくということは、心が成長するということだと思う。創造性のみが心の成長のすべてではないけれども。だから創造性の回復とは何か知識を身につけることではなく、自分がいかに心の声を聞き、育て、間違っているものを拒絶し、不必要なものを回避するか、そういう多くの経験を積むことそれ自体にある。創造性の回復訓練そのものが心の成長の始まりだし、それはそうであることが意識されなければならない。だからそういうものはあまり主知主義的であってはならないのだと思う。

もちろん心は体とも関連している。どこか体調が悪いだけで心が暗くなったりする。また心は頭とも関連している。心が必要なものを実際に調達してくるのは頭による思考であることが多いだろう。しかし心をぽかんとさせ、心を自由にし、また心を活発に、エネルギッシュにすることで、決して競争ではなく、自分がやりたいからやる、自分がそうしたいからそうする前向きの力を生み出していくことは大切なことだ。

自分がこうしたいことが出来ている、こうなりたい人間になっていることが、その人間が魅力的であることの条件だろうと思うし、大人であるというのもそういうことが満たされてないといけないと思う。欲求不満を抱えている人を見て、この人は大人だなと思うことはあまりないだろう。

大人であることってなんだろう。昨日つらつら考えて、いろいろ書き出してみた。書き出して見るとかなり膨大になったのでちょっと驚いた。

社会性、創造性、自立性(自律性、経済的にも精神的にも)、関係性。経営力、統率力、教育力。分のわきまえ―自分を知っていること。TPOのわきまえ、礼儀作法、たしなみ、身ぎれいさ。自発性、客観性―感情にとらわれないこと、偏見にとらわれないこと。共感性、包容力、判断力、審美眼を含む。決断力、忍耐力、回復力、切り替えの早さ、動揺しないこと。説明力、教養、仕事の遂行能力、待つ力、諦めない力、信じる力。ユーモア、相手に緊張感を強いずリラックスさせる能力、相手を緊張させる能力、威圧感も使えること。信念、人を追い詰めないこと。全力で遊べること、没入しすぎないこと。チャレンジ精神、持続力、集中力。洞察力。

ちょっといれるべきか考えたのは、覚悟と責任感。全然なくても困るが、少なくとも表に出すのはあまりいい感じがしない。威圧感とかもそうだけど、必要なときに出れば十分。責任感とかも、あまり「責任感が強い」感じの人は、一緒にいると疲れるし、余裕がない感じがする。そういうものを感じさせずにやるべきことがちゃんとできる人や、部下が何かしでかしてもぱっと責任が取れればいいわけで、普段から責任感の強さを感じさせる人とはまた違う気がする。覚悟、というのも、白刃を飲んだ、という感じの人は「大人」という印象とは異なる。あと書いてみて思ったのは、公平性とか公正性とかそういうこともあるなと思うけれども、そういう政治的な感覚というのはまあいろいろ微妙な感じもする。公平とは思わないけれども納得はさせるという人もあれば、公平な扱いかもしれないけど納得行かない扱いを受けた、みたいなことはわりと誰でも経験があるのではないかという気がする。

まあこう考えてみると、大人になるというのはすごく大変なことだ。自分の中でチェックしてみて満足の行くものがどれだけあるかというとお恥ずかしい次第だが、子供のころは大人ってそういうものだと無意識のうちに思っていた。昔の大人が本当にそれだけすごかったかというとまあ百点ではないだろうけど、今の大人に比べればだいぶ点数は高かっただろうと思う。

創造性は、その中でもけっこう大事なことだと思う。創造性があれば大人だ、というわけではないけれども、創造性が発揮されることで実現して行く徳目が、つまり創造性がなければ実現しないだろうと思われる徳目がけっこうある気がする。

昨日読了した西村佳哲『自分をいかして生きる』には、「自分」というのは、内なる「自分自身」とも接し、外なる「社会」とも接する境界にある存在だけれども、社会に適応していくだけでなく、内なる自分自身との付き合いも大切にしないといけないということを言っていた。そのことをキャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』では、内なる「自分自身の声」を聞くための工夫を徹底的にやっていて、外からそのことにたいして批判されるのをいかにシャットアウトするか、というところに相当力を注いでいる。『孤独な群集』の用語で言えば徹底的に内部志向性を追及し、他人志向性を根絶やしにするくらいの勢いがあって、その当たりのところがどうなんだろうと思うところもないわけではないのだけど、まあ言いたいことは分かる。

創造性が何のために必要なのか、ということも、一度全体的に考え直してみないといけないなあと思っていたので、まあこの思考はけっこう役に立った。別に偏屈な芸術家がいたっていいのだけど、偏屈でなければ芸術家ではない、というのもおかしいと思う。人間、円満になろうと思ったって完全に円満になることは無理だし、いつまでも解決されない何かを持ち続けるのも人間だろうと思う。ただ、全体的に人間がどこかに向かって進歩していくとするならば、「大人になる」というのはそう悪い方向性ではないと思う。

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