財産というものの重さ/「自分の手にあまるものは持たない」ということ

Posted at 10/03/01

昨日は疲れがどっと出た。昨日も書いたけれども、散髪をするとその日は疲れて動けなくなることが多いのだけど、昨日もそうだった。でも夕方に出かけて本を買ったりノートを買ったりはした。昨日買ったのは水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』(文春新書、2009)。

謎の渡来人 秦氏 (文春新書)
水谷 千秋
文藝春秋

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秦氏という古代豪族は、弓月の君という始祖伝説を持ち、秦の始皇帝の子孫を名乗り、現在の京都市周辺に本拠を持っていて、聖徳太子時代の秦河勝などの著名人物がいることは知っていたが、あまり表に出てこない、名前は知っていてもどういう氏族だったのか具体的なイメージがつかめない不思議な存在だった。

今のところ120/235まで読んだが、秦氏がどうやら商業を担っていた存在であったということ、いや、貨幣流通前だから交易を担っていたとでも言うべきか。それからいろいろと神祇に関わりがあったということに印象を持った。

印象的なエピソードは秦河勝が「常世虫」を祀る奇妙な「道教系新興宗教」を討った、という話だ。これは大化の改新前のエピソードとして日本書紀に記されている。読んでみるとこの「大生部多」という人物によるこの宗教は道教系というか、確かに五斗米道などに似ている感じもするが、ある種原始共産社会的な感じやポトラッチ的な感じもあり、何だか不思議なものだと思った。

何というか、「財産というものの重さ」に疑問を感じた人々がそれを投げ出すことによるカタルシスみたいなものを宗教的熱狂に結びつかせ、蚕のような虫を「常世虫」として崇め奉る、という感じの宗教だが、財産を投げ出させるというのは現在でもよく見られるいわゆる「カルト」の特色だといえるだろう。「財産」というものはある意味確かに不思議なもので、人間はそれに振り回されて生きているとも言え、それに対する「欲を断つ」ことが悟りを開いたり自由になったりするための条件とされるような宗教は、カルト系だけでなく珍しくはない。しかし、一般社会の側、あるいは既成秩序の側から言えばこれは危険思想であることは間違いないし、また一次の宗教的熱狂から冷めれば財産を投げ出したこと自体が苦く大きな絶望的後悔となって本人に降りかかってくることが多いだろうと思うから、ここでは秦河勝は常識人の側、近代的文明人の側に立ってこうした「邪教」を討滅する側に立っているといえる。

わたしも長男なので、こういう「財産」のようなものを継承する立場にあるのだけど、何というかこの「財産」というものは自分の中でよく分からないもので、どう対処していいのか分からないところがある。自分が作ったものならともかく、「ご先祖様」から受け継いだものをどう考えるか、ということを、自分の中の「自分」というものとどう折り合いをつけたらいいのか、いまだにあまりはっきりしない。

自然に生じた「責任」のようなものを、回避しようとは思わないけれども、やはりどこか「重さ」を感じるところがあって、そういう部分がこういう不思議な現象に関心を寄せさせるんだろうなと思う。いや、たいしたものではないからこんなことを書くのもアレで、まあ匿名だからこそ書くという類のものなのだけど。山林も畑もただ所有者の最低限の責任を相続する以上のことが自分に出来るのかといえば、疑問だなあと思うわけなのだが。まあ定期的に戦乱があったりこういう変なことが流行ったりして、きれいさっぱりなくなったりするのが財産というものだろうし、ウチがそういうものがあるからといって300年以上遡れるわけでもないので、それ以前はもう曖昧模糊としていて、そういう「財産」てなんだろうという気もする。まあ、ちゃんと相続したら、その由来のようなものも一度調べてみるといいのかもしれないなあと思う。そうすれば自分の中の疑問も決着がつくところもあるかもしれない。

***

私はものが捨てられない傾向が強く、「1000個捨てる」というような企画にはわりと興味を持っているのだけど、現実にはもう既に使えなくなっているものとかもかなりたくさん持っていて、そういうものをどういうふうに考えて処分していくべきなのか、ということを考えたりしていた。

思ったのは、「自分の手にあまるものは持たない」という考え方だ。私は冷蔵庫の中などは大体いつも空に近い。女性などで、いつも冷蔵庫が一杯でないと安心できないという話を聞くことがあるが、わたしは逆で、冷蔵庫に物が入っていると落ち着かない。いつも使いきれるだろうか、とある意味不安に思ってしまうからだ。ものを無駄にするのは罪悪だ、という気持ちはわりとあって、期限の切れた調味料などを捨てるときにはわりと忸怩たるものがあるから、なるべく買わないようにブレーキがかかるし、大目に買ってしまうといつもつい食べ過ぎてしまう。

しかしそれは冷蔵庫の中だけで、部屋の中にはこれは使わないだろうと思うようなものがわりと溢れている。雑誌もなかなか捨てられない。その中に一つか二つ、「またあとで読みたい記事」があるからということもあるが、捨てると二度と戻って来ないという強迫観念もある。以前捨てた『文藝春秋』に昭和天皇の記事があったり北一輝の日記が掲載された号があって、後で使いたかったと思ったことがあってから、捨てるということが妙にプレッシャーになってきたのだ。しかしそのために、おそらくは二度と読まないような本や雑誌がかなり山積みになっているわけで、これは何とかしたいと以前から思っていた。

物を捨てようと思っても捨てられない、というのは、「捨てない理由」というのがいくらでもつくからだ。捨てるのでなくリサイクルに回せば資源がムダにならない、というのもひとつの理由だが、だいたいリサイクルにまわすには捨てるよりはるかに手間もお金もかかることが多く、また本当に引き取って欲しいものをいらないと断られたりして業が沸いたりしてもういいやと思ったりして、そのまま放置して場所塞ぎになっているというものがかなりある。

他には先に書いたように、一度捨ててしまえばもう戻ってこないということ。一度、あまりに膨大にTシャツがあったのでまだ使えるのにまとめて捨てたら、そのあとでぼろぼろになったTシャツの新しいのを買うのにすごく抵抗を感じるようになった。あれはまあ、変な思い出があったものを敢えて捨てたという面もあったのだけど、捨てたものを買いなおすということへの抵抗というのはどうも相当強いのだなと思った。

それから本や雑誌、資料などを捨てられないのは、いつかみたい、いつかまとめたいと思うものがたくさんあるということもある。今はもう関心を失っていても、またそのことについて関心を持つのではないかと思ってしまうのだ。これも先に描いた文藝春秋の例のように、一度捨てたらあとで必要になったという経験があるからだ。

今日寝床の中でいろいろ考えていて思ったのは、「『今の自分には手にあまる』ものは原則持たない」ということだ。持つ=所有するということもある意味「能力」だと思うし、能力をこえて持っているとやはり常世虫ではないがだんだんすべて投げ出したくなる感じがある。このあいだ新しいPCを買って思ったが、それなりに額の高いものを買うのは最近けっこう抵抗がある。なんか、自分の持っているものを使い切れていない、コントロールできていないという思いが強いからだなと思う。

まあ具体的な解決策はまだ考え中だが、雑誌に関してはぱらぱら見直してみて読みたいきじがあったらそれを切り取っておくということで解決することにした。そうすれば圧倒的に分量が減らせる。10ページ以上の記事や連載漫画を切り取るのはそれなりに切り取り方に工夫がいるが、なるべく記事自体を傷つけないように、雑誌を解体したりホチキスの反対側の記事を切り取ってホチキス部分は取っておくようにするとか、いろいろ工夫しながらやればいいかもしれないと思う。図書の整理は一応ついている(あくまで一応だが)ので、雑誌の量が減らせれば部屋もだいぶ片付くと思う。

抽象的に考えると、『今の自分の手に余る』というのは、夢とか目標とかそういうものもあるなあと思う。日本古代史の本など読んでいると面白いなあとは思うが、これを本格的に研究して、みたいなことはもう私の手には負えないなあと思う。ときどき思い出して読んで楽しむ、くらいがせいぜいだろう。だから時々思い出したら読めるくらいに図書や記事は整理しておきたいが、それ以上のことはあまり想像を膨らませないほうがいい。そういうところの折り合いのつけ方が私はあまり上手くないので、もっとちゃんとやっていかないといけないなあと思う。

図書は基本的には処分せずに全部取ってあるけど、本当はもっと整理して使えるようにしておかないといけないと思う。けっこうまだまだやることはあるなあ。

『手に余る』ことと『出来そうだし、やりたい』と思うことの仕分けというのが結局いちばん難しい。人間に与えられた時間は無限ではないし、今いちばんやりたいことをやっていかないとすぐ持ち時間はなくなるから、そのへんのところの上手いやりかたを見つけていきたいと思う。「持つ=所有する」ということはいろいろ難しいものだ。

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