『西の魔女が死んだ』/弱さと自立/「弱さは罪であり苦しみはその罰である」/自分の扱いが上手になるための方法
Posted at 10/02/17 PermaLink» Comment(3)» Tweet
一日一日が過ぎていくのが早い。今日は2月17日。2月はもうあと11日しかない。「2月は逃げる、3月は去る」というが、本当に一目散に走っている感じだ。昨日は朝早く起きて散歩し、いろいろと用事を片付けていたが、案外片付いて、出かける前には少し余裕ができた。いきがけに団地の中の「ラ・パレット」でエビかつバーガーと苺のスイーツを買う。自動販売機で午後ティーのミルクを買ったが、考えてみれば新宿で買ったほうが温かかった。12時の特急に乗車。ツイッターで政治のことをいろいろ考えながら帰郷。今回持ち帰った本は昨日触れた本だが、主に梨木香歩『西の魔女が死んだ』(新潮文庫、2001)を読んでいる。携帯でつぶやいていたら思いのほか時間がかかり、お昼にしたのは1時半頃だったか。先週も感じたが、エビかつバーガーが以前に比べてボリューム感が出て、どっしりしてきた。先週はパンを三つ買ったら少し多かったので、今回は二つだけにしたけれども、それでも十分な感じだった。パン自体がしっかりした感じのものに変わったらしい。
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駅について自宅に戻り、母といろいろ打ち合わせ。やることがたくさんあり、銀行に行ったりコンビニでお金を払ったり、郵便を出したり。そういうときに限っていろいろ細かい雑用が発生し、庭に落ちていた空き缶を拾ったり駐車場に勝手に止めていた車に注意したり。職場に出てさらに銀行の仕事をしてこようとしたらまた人が来て対応していたら時間がなくなった。それでも出かけて銀行に行ったらカードと通帳が一致してなくて仕事を片付けられず。脱力して職場に戻り、連絡したらカードを持ってきてくれたのでさらに出かけたり。諸連絡、諸事務。零細企業は一人何役なんだ一体。本来の仕事も昨日は相談が多く、時間いっぱい忙しかった。出かけている間に職場の方にCameron, "The Artist's way", Penguin, 1994 が届いた。水曜に来るはずだったから、少し早い。今値段を見たら16ドル95セントだが、払ったのは1300円弱だったので、レートは80円行かない。これでは普通の洋書屋がかなうはずないなあと思う。
序文をちらほらと読んでいったが、思ったのと違う感じのことが書いてあったりして、かなり訳文は意訳とか要約とかがあることに気がつく。それによって分りやすくなっている面もあれば、かえって原文の方が意味が伝わってくる場合もあり、こういうものの翻訳は難しいんだなあと思う。
10時まで仕事をし、帰宅。『プロフェッショナル』を見る。体内時計は時計遺伝子の働き、ということははじめて知ったが面白かった。世の中には優秀な人がいるものだと思う。私より一回り若い。夕食、入浴、就寝。
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今朝は6時半起き。少し散歩して7時過ぎ。モーニングページを書きながら、梨木香歩『西の魔女が死んだ』について考える。
この小説は面白い。中学生になったばかりの主人公の少女、まいの心の動きに、いやに共感してしまう。自分の少年時代の心の動き、つまり、今でもどこかにある少年の心の動きに共振してしまうものがある。自分が少年なのか、少女なのかわからなくなる心の境目があって、ときどき無意識にそれを越えている感じがする。少年と少女の間には何か本人たちにしかわからない共通の場所のようなものがあり、いつのまにか入れ替わってしまうこともあるのではないかと思う。昔からとりかえばや的な話が多いのはそういうことかもしれない。
人の心の動きには、もともと少年的なものも少女的なものもあるんだろうと思う。そういう意味では雌雄同体なんではないかという気がする。その中で普通は自分の性に適ったものを自分のものとして意識していくけれども、人によっては反対側のものにアイデンティティがおかれることもあるんだろうと思う。だから男性の中には未発達のままの少女性のようなものがあり、女性の中には未発達の少年性のようなものがあるのではないかという気がする。何かストレス的な負荷がかかったりしたとき、その未発達な部分が突然目覚めてしまうこともあるのではないかという気がする。時にアイデンティティがそちらに移行することも。最初は逃避であっても、それこそが現実になってしまうような。
この話、とても面白いのだけど、何故面白いのかということを考えていて、これが不登校の物語だからだ、ということに気がついた。私もまさに中一の一時期、不登校だったからだ。私はこのような面白い体験はできなかったけれども、あの不登校をきっかけにして自分の世界が広がっていった感じがする。そうか、と思ったが、その不登校こそが自分の「自立」の始まりだったのだ、と思う。
少年と少女の共通項は、「弱い」ということだ。その弱さが少年少女を連帯させる。相応に強くなっていくと、少年少女の頃の関係は希薄になっていくのはある意味当然のことなんだろう。しかし少年も少女も弱いまま、「自立」が始まる。強いから自立するのではない。強くなってからでないと自立できないのでもない。大人はそういうけれども、もちろん経済的な自立、完全な個人としての独立はもっと時間がかかるにしても、一番肝心な精神の自立は、むしろ自分の弱さを自覚したときに始まるんだろうと思った。弱さは自覚することで、強さへの成長の起点になる。一番弱くて、どうしようもなくちっぽけで、吹かれたら飛ばされてしまうような頼りない感覚こそが、自立のための絶対条件なのかもしれない。
自立とは苦しく辛いものだ。あの不登校の時期、あの中学生の時期は本当に一番苦しくて辛かった。でもあの時期に染みとおるように読んだ本や、見た画集、見た映画が、自分が自分であるための輪郭を形づくって行ったんだなと思う。あの頃はただ苦しく辛いだけだったのだけど、そしてそういう自分をとても責めていたのだけど、本当に自分が自分らしく生きることの追求は、あのときに始まっていたんだと思う。
中三のときに見た『旅の重さ』という映画にあれだけ感動したのは、あれが家出の話だったからだ。マグリットが好きだったのも、あのシュールレアリズムが現実からの家出の旅を見たからなのだ。
家出―不登校―超現実、全てそれは自分が自分の自我、自分の家を形成しようとする、強烈な、妥協できない、後戻りのきかない心の働き、いのちの働きだったのだと思う。
だから、それでよかったのだ。
あの頃はずっと、そして今までずっと、現実に順応できない自分を責めていたけれども、あれは自分にとって必要な手続きだったのだと思う。
***
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こういう風に自分の苦しさを肯定的に見ることが出来るようになるということが、創造性にとって大事なことなんだろうと思う。「小さな肯定的な声」(『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』p.126)がささやく、というのはこういうことかと思う。苦しんでいることが自分の自立の証拠であり、自分自身の創造性がもたらす試練であるなら、怖いこと、罪悪感を感じるべきことは何もないではないか。苦しむ人は、苦しんでいるというそのこと自体を苦しく思う。そのこと自体を罰せられていると感じる。しかし本当は違うんだ。苦しむのはただ、弱いからなのだ。倫理的な罰ではない。自分を肯定し、強くならなければならない。誰かの苦しみに罪悪感を上乗せしようとするのはやめるべきだ。
***
隣で家屋の解体工事が行われていて、重機でどんどんやっている。低周波がごんごん来る。『西の魔女が死んだ』ただいま68/226ページ。とりあえず出かけて、用事を済ませてこようと思う。
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出かけて、車を運転しながら、苦しみのことについて考える。苦しむのは弱いからで、力が足りないか、力はあるのにさぼっているかのどちらかだ、と考えれば、力が足りなければ伸ばすように努力すればいいし、さぼっているなら根性を入れなおして気合を入れればいい。しかし、どうも私はそういうふうに考えず、苦しむのは何者かが自分を罰しているからだ、と考える傾向があった。というか今でも、無意識のうちにそういうふうに考えがちな傾向がある、と思った。
苦しみが、その人個人のもの、その人だけのものだ、というのも大切なことだなと思う。つまり、苦しみが他の人に理解されることは、原理的にはありえない。共感されることはあったとしても、その人はその人の自分の苦しみの経験に基づいて共振するか想像するかしているに過ぎない。自分の苦しみをその人が分担してくれるわけではない。
しかし、自分が苦しいのに他の人がそれを分かち合ってくれないというのは、理不尽なことのように思われる。理不尽なことについて、人は何か理由を求めようとするだろう。苦しいのが自分だけで、他の人は苦しくない、それは何故だろうかと考えれば、何ものかによって罰せられているという発想はそう突飛ではない。というか、「弱いことは罪」であり、「苦しみはその罰」である、という発想はかなり深刻に叩き込まれている気がする。少年の場合は、「弱い=男らしくない」、ということであり、自分が男というアイデンティティを強く持っている場合、これはかなり深刻な罪として、自分の「原罪」として叩き込まれている部分がある気がする。そうなると、自分が自分であること自体が罪である、ということになる。
「人間には二種類いる、強くて活動的な人と、あまり強くなくて本でも読んでる方が好きな人と」、ということを私は中学生の頃誰か大人に言ったことがあるが、それはもちろん自分の存在を認めさせようとして行ったことながら、自分でもとても弱いメッセージであり、なんだか自分が間違ったことを言っているような気がしながら言っていたことを思い出す。自分でもなんだか、自分のあり方が、人間として間違っているような気がしてしまっていたからだ。子どもは元気な方がいいとか、男の子はやんちゃな方がいいというようなメッセージしか自分の耳に入ってこなかった。だから不登校というのは、「たとえ自分が人間として間違っていようとも、自分は自分でありたい」という自分の魂の叫びというか、死に物狂いの抗議行動だったのだなと今にして思う。
高校、大学と進むにつれ、別に自分のようなタイプが珍しくも何ともないし、誰もそんなことについて罪意識を持っていないということが分るにつれて、自分はずいぶん楽になって行ったことは確かだ。そういう意味では、高校・大学の時代はある種の温室のような時代だった。もうあのような、野蛮な体力が支配する世界とは縁が切れたのだ、と錯覚していた。
しかし、高校とか大学とかが、そういう意味で特殊な空間であることは社会に出たらすぐに分った。何が大変だったって、「弱さは罪であり、苦しみはその罰である」という自分の持っていた観念が結局は自分を一番苦しめたのだと思う。実際のところ、自分はそんなに弱くないし、やる気にさえなれば生きる場所を変えることもできなくはなかった。しかしそういう罪意識こそが自分が自分に適合しない場所で生きることに自分を縛り付けていたのだなと思う。罪がある以上、罰は受けなければならないのだ。
人間は悪いことをするから罪を得るのでなく、罪意識があるから自分を悪いものとみなし、悪の範疇に近づいてしまうという面もあるのではないかと思う。さすがにそういうことは馬鹿らしいからやらなかったが、犯罪者の話などを読んでいると、自分はそうしないだけで紙一重だなと感じることがよくあった。そういうことを馬鹿らしいと感じるだけの理性の強さが自分にあったとは思うが、そこで「罪を重ねて罰を受ける」ことができない自分を「意気地なし」と感じる倒錯にぎりぎりのところにいたことは否定できない。
まあしかし、そんなことはいくらいっても無駄で、よけいなお喋りだ。大体「弱いことが罪」だなんてこと自体が幻想なのだから。弱さにとどまらず強さを目指すことはいいことだし、また気合を入れなおして強い自分に戻ることもいいことなのだけど、でも弱さからなかなか脱出できないこともある。しかしそれだって、それ以下に落ち込まないようにぎりぎりに耐えている、ということでもあるのだし、弱さに耐えるということはすごいことなのだ。
大事なのは否定することではなく、肯定することなのだ。子どもの頃はどうして、あんなにも自分を肯定する声を出すことができなかったのだろう。子どもの頃だけではない、つい最近までずっとそうだったけれども。自分がやってきた仕事が仕事だから、他人のことは肯定することが仕事のようなものだから、ずっとそうやってきたのだけど、自分に対しては別の基準があったようだ。人のことはよく分るのに自分のことだけは分らないとよく言われたものだが、内側の自分を見る目と外側の他人を見る目が基準が違ったということで、内側の自分を見る基準が善悪とか正邪とか罪と罰というような形而上的な基準になっていて、外側の他人を見る基準が仕事としての、教育的観点の基準、自分を責めるのは意味がないことだ、弱ければ強くなるように努力すればいい、どうしたらそうなるかだけを考えればいい、できなければできるようになるためにはどうすればいいか、それを手助けしてあげればいい、一緒に考えてあげればいいと思っていた。
どうしてそのダブルスタンダードが解消できなかったのか。人に対していえることを自分に対して言えば良かっただけなのだけど、人に対しては「肯定する大きな声」になれても、自分に対しては「肯定する小さな声」にもなれなかったのだなと思う。
そういうのはまあ、解釈の問題で、どんなことでも教育的というか人を育てようという観点で解釈すればいいわけだが、自分に対して教育的であるということが出来なかったんだなと思う。自分を育てるということは、自分を肯定するということだ。自分が納得するように自分を肯定するというのは、自分にとっては大変なことだったのだ。
自分を肯定するなんて恥知らずのやることだ、という思いもあったし、自分を肯定することに照れや羞恥心を覚えるということもある。自分のことに関しては論理的に、冷静になりにくく、感情的になりやすい。私の場合、強い自負心があるだけに、逆に自己肯定がしにくかった。冷静に考えて自分がスゴイ、なんて言えるものだろうかと思う。「脱いでもすごいんです」ってコマーシャルはあっけに取られたが、本当は、自分でもびっくりするくらいできるとか、「スゴイじゃん俺」、みたいなことはもちろんないわけではなかった。しかしそのあとが、いい気になりっぱなしになった自分をそのまま放置したり、いい気になるなと自分で自分を凹ませたりとか、とかく自分の扱いがぞんざいであったなあと思う。自分というものを上手に暖かく扱うことが本気で下手だったなあと思う。
そういうことをやらなければならないということが分ったら、後はやるだけのことだ。自分による自分の扱いのまずさを発見し、自分の扱い方が上手になるための方法を徹底的に身につけることが結局、「アーチスツ・ウェイ」のアルファでありオメガなんだなと思う。梨木香歩はうまくそのための補助教材になったようだ。
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"『西の魔女が死んだ』/弱さと自立/「弱さは罪であり苦しみはその罰である」/自分の扱いが上手になるための方法"へのコメント
CommentData » Posted by OWL at 10/09/21
時々、山岸凉子さんのことなどでコメントさしあげています
OWLといいます。
『西の魔女が死んだ』は大好きな作品なので、興味を持って
読ませていただきました。私も学生時代不登校だったんですが
ずっとそのことを否定的に考えてきました。
実際不登校をしている自分が嫌でたまりませんでした。
私の不登校中にはまいのおばあちゃんの家でのような
すてきな体験はなかったですし。
>自分が自分らしく生きることの追求は、あのときに始まっていたんだと思う。
私はまだ上記のように、ポジティブには自分の不登校は
とらえることはできませんが、
不登校をポジティブにとらえてみよう、と
考え直すきっかけになりました。
私にとってこれはもしかしたらすごく大切なこと
かもしれません。本当にどうもありがとうございました。
CommentData » Posted by kous37 at 10/09/21
>OWLさん
久しぶりに自分で読み返してみて、このあたりずいぶんたましいの深いところで道を探しながら歩いていたんだなあと思います。
>苦しみが、その人個人のもの、その人だけのものだ、というのも大切なことだなと思う。つまり、苦しみが他の人に理解されることは、原理的にはありえない。共感されることはあったとしても、その人はその人の自分の苦しみの経験に基づいて共振するか想像するかしているに過ぎない。自分の苦しみをその人が分担してくれるわけではない。
どこかに書きましたが、ギンズバーグという詩人が「魂の飢餓の叫びは誰の耳にも届かない」と言っていて、まあそんなことだなと思います。
不登校の経験、やはり面白いものではありません。思い出しても不愉快です。やはり何かが欠けていてうまく動かない。何が必要なのかもわからない。うまくいかない、挫折の経験というのはなぜか人に罪の意識を持たせるようで、よけい思考が内向きになっていきます。
ただ、今その経験をポジティブにとらえられるとしたら、中学時代の環境に自分が妥協できたはずはない、と大人の自分の目から見て思うからです。中学時代の同窓会に出たとき、彼らにわだかまりがあるわけじゃないなと思いました。上級生にはちょっとあるかもしれないけど。でももう30年以上前の話ですし。人は環境はなかなか選べない、特に中学や高校では選ぶ力を持っていません。あう環境にいられなかったことが罪なわけではないので、ただ運が悪かっただけです。
不登校は、要するに自分に適合しない環境を拒絶するということですから、ある意味自立そのものです。まあ弱々しい自立形態ではあるのですが、免疫機能の働きのようなもので異物を拒絶するのは生命体として当然です。
まあ私はその後もしょっちゅう不適応症状を噴出させて大学時代もサークルを出たり入ったりし、仕事も辞めたし、離婚もしました。もちろん反省すべき点もあるんだろうけど、おおむね仕方なかったな、と思います。
まあ一つの業かもしれないけど、自分が自分である、ということだけは譲れないんですね。
そういうことをポジティブに考えることがいいことなのかどうかもよくわからないんですけど、仕方ない、これしかできない、という一点で自分を肯定しています。「急いで結婚して、ゆっくり後悔しろ」という言葉がありますが、人間とにかく行動せざるを得ないときはある。学校を拒絶するというのも人間らしい行動の一つだと思います。
社会に対し、あるいは周囲に対し、適応できればいいんだけど、無理して適応したふりしたりしていると疲れてしまって反動が怖いですしね。私などは、どんどん自分が好き勝手にできる環境に自分を持って行っていますがその是非もまたいつか考えてみなければなあと思っています。
なんか返答になっているかどうかわかりませんが、みんな人間らしく、自分らしく、生き生きとやりたいことを思いきりやって、生きてくれたらいいなあと思います。私もまだまだこれからですけどね。
CommentData » Posted by OWL at 10/09/22
ゆっくり返信さしあげたいのですが、今まとまった時間がなく
このパソコンも借り物なので、いつ返信できるかわかりません。
真摯なお返事をいただいて感謝しています。
とりいそぎ。