挫折というもの/楽な方を選ぶ、という心の姿勢
Posted at 10/02/06 PermaLink» Tweet
昨日。少し長引いて、夜10時半まで仕事。というか、電話での打ち合わせが思いがけず30分以上かかってしまったために、終わるのが遅くなったのだ。帰宅して食事を終えたらもう11時過ぎていて、それから入浴。寝たのは12時半過ぎだったかと思う。今朝は7時過ぎに目を覚まして、昨日の懸案について考える。いろいろ考えているうちに、実はけっこう発展性のある問題だということが分ってきた。
『宇宙兄弟』など読む。
挫折、ということについて考えていて、自分が今まで挫折を感じたことを列挙してみたりしていたのだが、考えれば考えるほど出て来るので当たり前だがこんなにたくさんあるんだなあと思う。その中には真剣に考えると今でも身を切るような気持ちがよみがえってくることもいくつかある。やはり裏切られた、利用された、というような記憶は今でも悔しくて涙の味を思い出す。挫折にそういうものがついてくると憤りが蘇る。
自分でトライしてだめだった、というのは詰めが甘かったり動機があやふやだったりしたことが多い。人との別れに関することでは至らないところが自分にあったからだろうとは思ってもまあよくわからないことも多い。
ただ、多くの失敗の中で、「楽な方」を選んだために起こった、ということがかなりあるということに気がついた。楽な方と面倒なほうと二つあれば、楽な方を選ぶ、ということが私の場合は多い。なぜそうなるのかよく分らないのだが、楽な方を選ぶ、というのはかなり自分にとって強力な原則になっている。それが自分の本来の性格なのか、何か理由があってそうなっているのかもあまりよくわからないが、とにかくそうなってるということに気がついた。
こういう自分の欠点に関することというのは、考えていると思い当たることはでてきたりするのだが、筆を持って書くとなかなか書けない、出て来ない。こうしてキーボードで打っていると出てこないことはないのだが。キーボードで打つほうが、書くよりも思考のスピードに近い速さで書けるから、ということが関係しているのだろうと思う。
考えて楽しいことでもないし、まして書いて楽しいことでもない。楽じゃない。キーボードならまだ楽だから、書けるのだろうと思う。
しかし、書くのをやめて別のことをしていると、ふとそれに関連することを思いついたりする。私は、楽な方を選ばないのを、バカだと感じているところがあるなと。
楽なほうを選ぶ、という心理はよく分るのだが、楽でない方を選ぶ、という心理がうまく想像できない。私もそういうことを心がけてみたこともあったけど、大概無理をしている感じになって、続かなくなった。
楽な方を選ぶ、要領のいい方を選ぶ、という選択は、それは本当に私に幸せとか喜びとかを与えてくれるのだろうかとふと思ったのだ。確かにうまく行くとすっきりするし嬉しくもあるのだが、それはどうも表面的な部分にとどまり、心のそこから嬉しいと感じる、ことはないよなあと思う。
ということは、これはもともとの自分の性質というよりも、何かが自分にそれを選ばせているということじゃないかと思った。しかしそこのところをよく考えていてもよく分らないなあと思いながら歩いていたら、要領のよさ、楽をするということというのはどうしても必要なことではなく、砂糖の味のようなものではないかと思ったのだった。
一度禁糖というのをやろうとして驚いたのだが、世の中の加工食品はほとんどのものに砂糖が使われている。煮物や揚げ物だけでなく納豆のタレやふりかけにも砂糖が使われているので、本当に砂糖を断とうと思ったら出来合いのものはほとんど使えない。自分で自炊する覚悟があればもちろん可能なのだが、それにしても食品の隅々まで砂糖が使われていることを知って驚いたことがあった。
私は甘いもの(特に和菓子、餡子系)が好きなので、砂糖をかなり摂取している。砂糖を断ったときは実は私は気分を転換するのに非常に甘いものに頼っているということがわかって、それで結局続かなくなった。甘いものを食べるとなんとなく悩んでいることから離れられて、次のことにトライできる。「差し入れ」というものに甘いものが多いのは、それが気分転換をもたらす作用があるからなんだなと思ったし、何か話をしに出かけて喫茶店で甘いものを食べるのも、それが心を和ますからなんだなと思う。精神的な部分で生きているようでいて、人間というものはかなり身体的な部分、物質的な部分に左右されているんだということに、そういうことをやってみると気がつく。
ただ、砂糖というものは一時的に気分を調整するのにはいいが、本当は必要不可欠なものではないような気がする。麻薬のようなもの、といったら少々言い過ぎかもしれないが、素材の味を必ずしも生かすものではないと思うし、なかなかどう付き合えばいいのか難しいものだなと思う。
「楽な方を取る」「要領のいいほうを選ぶ」というのは、そういうことに似ている気がする。だから、砂糖が素材の本当の味を隠してしまうように、楽な方を選ぶという姿勢が、自分が本当にやりたいこと、自分が本当にほしいものを見えなくしているということがあるのではないかと思ったのだ。
まあどちらが楽か、という選択肢が自分の中で生じたときに、どちらが本当にしたいことなのか、というふうに問いを置き換えてみるということはしてみてもいいかもしれない。それが一つの教訓かなあと思う。
挫折、というものに、どうも今まであまりまともに向き合ったことがなかったなあと思う。挫折、というのはつまり、失敗から立ち直れなかった、ということだ。失敗しても、それから教訓を引き出し、自分の補強すべき弱点を見出してそれを克服するために努力することに使えば、それは失敗ではなく成功のための一つのステップに過ぎなくなる。野口晴哉の言葉にも、失敗を生かせる人に挫折はない、というようなものがあって、まあそういうことだよなと思う。
だから、挫折とか失敗の体験というのは、実は自分の気づきのためには宝庫のようなものなのだ、と思う。私は面倒くさい(楽な方を選んでしまう)からそういうものを生かそうとしてこなかったのだけど、そういうものを生かさないのは実は本当にもったいないことなのだ。
そうは言っても、いろいろなことを経験していくうちに、あのときのあの失敗は実はこういうことから起こったのだ、ということに気がつき、それを物にしていくということはしばしば起こる。それは、そういう失敗体験があるから気がつくことが出来るので、そういう意味では無駄ではない。ただ、自分からそれを生かそうとするのに比べてスピードが遅いことは確かだ。
まあ私は基本的に面倒なことが嫌いなので(出た)、いろいろないやな経験でも適当に割り切ってあまり感じないように自分の心を持っていっているということもあって、いろいろな人に話を聞いた限りでは、コンプレックスというものは少ない方だろうとは思う。挫折の身を焼くような苦しみや悲しみを感じた経験のある人の話を聞いても、大概のことは「仕方ないんじゃないか」という思いが先に立つ。自分の身を焼くような思いの経験に対しては、「仕方ない」とはあまり思わないのだが。ただ、歳月の中で風化したりしていることは多い。
しかしここ10年ほど体調がいまいちなのも、本当は大きな挫折体験が尾を引いているからだとは私自身感じている。同じような体験、つまり離婚や離職、挫折と思われる大きなことを体験した人でも、わりと簡単に割り切って次に進む人が多い中で、なぜ自分がそうは行かないのかは自分ではまだよく分っていない。
おそらくは、その経験がまだ客観視できない部分があり、自分はこういうところがまずかったとか、こういう部分で自分の考えとは相容れないところがあったとか、そうした整理ができればよかったのだろうと思うけれども、何かいろいろなことが一度に重なり、その中には自分で事態をややこしくしてしまった部分も相当含まれていて、何がなんだかもつれてごちゃごちゃになってしまっているということなのかなと思う。
だから、そういうところをもう少し解きほぐしていくことが必要なんだろうと思う。問題を敢えて複雑化させすぎているところが合って、しまいには多分変な破滅願望まで出てきてしまったんじゃないかなという気がする。
コンプレックスがないとか挫折体験がないとか言われやすいのはそういう意味では心外なのだが、実際には昔の友人と飲んでいて、特に自分が相手を「成功している」と意識してしまうと、自分でも自制心が利かないくらい荒れて、友達を減らすということをしばしばおこしている。
挫折体験ときちんと向き合っていないから、自分の今やっていることに自信がもてない、プライドが持てないということがあるのかなと思ったりもした。
確かにプライドというもの、誇りというものは、ある種の挫折体験と関係が深い気がする。本当の意味で挫折を知らない人たちには、そういう感じの気負いはあまりないことが多い。もっとスースーしている。努力を努力と思わないでできるような、ある種の天才の人たちとか、本当に悟りの境地に近づいたような人とかは、一見平々凡々として、よけいな気負いやプライドや誇りみたいなものを感じさせない。
ただ資本主義社会の商売の上では、多分しっかりとしたプライドを持ったひとの方が成功するような気がする。ということは、一度は大きな挫折を何かしら経験したことがある人でなければ、資本主義社会では勝ち残れないということかもしれない。
プライドというのは、挫折から這い上がることによって生まれるものだということなんだろう。
まあ、いろいろな社会の強制力の中で、自分の心を守るのはなかなか容易なことではない。新しい価値観による押し付けもあれば、伝統的な価値観による強制もある。それらは互に矛盾していることも珍しくない。そういうさまざまな押し付けの中で、自分がどの考え方と同化し、どの考え方と対立していくのか、そう簡単に選べないことも多い。心を病んでいく人が増えるのは、そういう意味では必然的なところがあるよなあと思う。
楽な方を選ぶのではなく、やりたい方を選ぶ、という心の姿勢が、何かを変えてくれる気はするのだが。
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