個性と普遍性/近代文学が終わる理由

Posted at 10/01/28

今日はわりあい暖かい朝だった。しかし時間の割には暗いので何でだろうと思ってカーテンを開けたら一面の雪!やられた。今日は朝一で松本に出かけるのに、これは高速を使った方がいいな、と思ったり、しかしチェーン規制になっていたらどうしよう、と思ったり。しかし今日は燃えないゴミの日なので、職場に出て空き缶やペットボトルの整理。前回、腰の調子が悪いのと寒いのとでサボってしまったためにほぼ一月分溜まっているから、今日はさすがにやらざるを得ない。こういう日に限って雪、というのもなんだかなあとは思うがまあそんなものだろう。

戻ってきて朝食。朝のうちはモーニングページを書く余裕がなかった。余裕を見て8時過ぎに家を出る。国道が大渋滞。仕方ないので抜け道から湖畔に出て、湖畔の道をしばらく行く。国道が見えるところまで来たらようやく流れているようだったので国道に戻った。塩尻峠はきつそうなので高速に乗る。ゆっくりゆっくり。ずっと80キロで松本まで行った。でも予定どおり到着。しかし塩尻峠のトンネルを越えたら全く雪がない。強い雨。国境(じゃないけど)の長いトンネルを抜けるとそこは雨国だった。昼の底が茶色くなった。体を見てもらって帰る。おなかの調子が悪く、食べ過ぎているとのこと。たしかに、食べないと落ち着かない気がしてつい食べてしまっていた。きのうあたりから意志でセーブできるようになったが、食べないと持たない、落ち着かないという恐怖心に打ち克つのはけっこう大変だ。機嫌は悪くなるし、気力も萎える。慣れてくるとそうでもなくなる、時もあるけど、やはり食を意識して減らすのは大変だ。

ただ、昨日野口晴哉『体運動の構造Ⅰ』を読んでて体を弛めるのに少量の酒、それもブランデーがいいというのを読んで、ほんの少しだけもらいもののヘネシーをゆっくり飲んで寝たら、目覚めがとてもすっきりした。これはけっこういいかもしれないと思った。

午前中に遠出するとまとまったことができないので、ということはまとまったことも考えないからブログに書くことがなかなかなかったりする。そういう時はほんの思いつきでいろいろなことを書くのだが、今日は昨日の夜『自分の仕事をつくる』を読んでいて思ったことを書いてみよう。それは、「自分」てなんだろう、ということだ。

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)
西村 佳哲
筑摩書房

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いいものを作るのに、自分の好みというのはあまり関係ない、という話が出て来る。自分の好みよりも本当にいいもの、本当に大事なものを作ることに専念するということ。個性を越えた仕事、と言おうか。前近代的な、作家の名前の出ない頃の陶磁器とかは全くそういうものだったと思うが、現代だといいなと思うものはやはり作家の名前の出ているものだ。それもデパートとかで売っている高価なものというより、九段下の花田で売っているような、知る人ぞ知るという作品の方がいい。作者の言葉で言えば、「こんなもんでいいでしょ」感がない。そんなに高いものは買えないが、その値段なりの精いっぱいを感じる。そういう器を使っていると、やはり気持ちが豊かになる。

作家の名前はともかく、その作家がその値段でできる一番いいものを、と思って作ったものはやはりいい。何がいいのかうまく説明できないが、普遍性があるのだ。大量生産物のニセの普遍性とは違い、誰が使ってもこれはいい、と思ってもらえるのではないかという気がする。このよさというのは個性ではなく、自分の好みを越えたものなんだろうと思う。

こういうものを作りたい、というものがないといいものは作れないし、またその思いは作家その人自身のものなのだが、そうやってできたものはその人の存在を越えた普遍性を持つ。そういうものが「いいもの」なんだろうと思う。

それでは、その人の個性というのはどういうものなのか、ということになるが、本来はそれは味付けの部分で、お好みに合わせて胡椒を入れたりラー油を入れたり、という程度のことなんだろうと思う。受け手のアレンジを全く許さないつくり手もあるが、それもまたその人の個性というか、個性を踏まえた上での普遍性の提示なんだろう。

ただ、近代においては「個性」というものが強く重視されてきた。それはつまり、物を作る上での「主体」というものが重要だと考えられたからだろう。しっかりした思想を持った人間が、その思想に基づいて、しっかりしたものを作る。しっかりした社会を作る。そういう考え方が近代という時代を形作ってきたのだと思う。

だから、「しっかりした考え方」とか「主体性」というものをいかに確立するか、ということが近代社会の課題になる。そういう要請に基づいて生まれたのが「近代文学」だった、ということなのではないか。つまり、近代文学は最終的に何を作品として生み出すかというと、読み手の中にしっかりとした主体、しっかりとした思想、しっかりとした考え方を作り出すこと、その作り出された主体、思想、考え方こそが近代文学という仕事の最終的な「作品」だ、ということになる。近代文学は、書き手と読者がいてはじめて成立するものづくりであり、その「もの」とは主体だ、というところにこのもの作りの特徴と特殊性がある、ということになるのではないかと思う。

だから、日本のような非西欧圏の後発近代国家では、「自分」というものをいかに確立するかということが最大の文学のテーマになった。「個性」というのは芸術におけるそのバリエーションだといっていいだろう。しかしそれは文字で書かれるものではない分だけ、やや曖昧になったといえるのではないか。

近代国家、あるいは近代民主主義というものは本来、そいう主体的な自分、つまり「個人」が自己の責任において討議し、決定を下していくことによって成立する。つまり、「民主主義をやれる」ためには、「確立した自己」が必要なのだ。近代的な意味での「大人の集団」でなければ、本当の意味での民主主義は成り立たない。そして近代の人びとは、自分がちゃんとした大人になることを人生におけるまず最初の目標として設定し、その実現のために人格の陶冶に励んだ。文学はその過程での苦しみや挫折、あるいはその末の光明、もっと幅広い人間観、といったものを考え、身につけるための手段だったのだ。

そうした意味での成長が、現代では無意味になったというわけではないけれども、大人にならなければならない、自己を確立しなければならない、という強迫観念は以前に比べればずっと力を失ってきているように思う。文学が成り立ちにくくなってきたのはそのためで、今では小説というものは楽しみのため、あるいは慰安のために読まれる、という以上のことについて、あまり語られなくなってきている。楽しければよい、安らげればよい、というものが不必要なわけではないし、そういうもののは本当に珠玉の作品というものもあるけれども、それは近代的な意味での文学ではないし、むしろ職人的な仕事になってくるだろう。文学が成り立たなくなってきたのは作る側の問題というよりは読む側の問題だ、と柄谷行人が言っていたのは、そういうことなんだろうと思う。

近代が過ぎていくということは、ある意味ではそういう強迫観念がなくなっていくということでもあるし、そういう意味では抑圧から解放される、ということでもある。しかし逆に言えば抑圧に耐えたものだけが得られる強烈な自負心、というものもまた得にくくなっているともいえる。ハングリーでない、という問題は、単に経済的なものだけではないのだと思う。その良し悪しは議論が分かれるにしても、流れとしては現在のところそうなっているだろう。

ただ、これからのものづくりというものは、自我というものを越えた、個性というものを越えた普遍性を目指すものになっていくのではないか、という気はする。それは創意工夫を制限する江戸時代的なものではなく、むしろ創意工夫を重ねた末にのみ到達できる普遍性だろう。その創意工夫の中に自我も個性も込められて、それが最終的に出来上がったときにはもっと普遍的なものに昇華している、そういうやり方がこれからのものづくりではないかと思う。

いいもの、というのは自ずから芳香を漂わすもので、その芳香というのはいろいろな香りがあるわけで、よいもの一つ一つは一つ一つ全く似ていないもので、個性というものがもしあったとしたらそういう形で現れてくるのだろうと思う。個性を確立しようとして確立するのではなく、いいものを作ろうとしたら自然にそういうものができてしまった、というような方向がいい方向であり、これからの方向なのではないかという気がする。

というようなことを、読みながら考えたわけだ。

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