平安時代の犬の法事/物語論の陳腐化/意志か必然か偶然か

Posted at 10/01/04

昨日。夜中に更新し、寝る前に入浴し活元運動などして1時に就寝。今朝は5時起床。いろいろやって6時に出発。7時の特急に乗る。起きてから活元運動をしたり体をほぐすようなことをしていると時間が無限にかかるし、なんだかうまく活動に移れないので、さっと起きてさっと活動に移れるようにしてみようと思う。起きてから布団を畳んだりしてすぐ着替えて、モーニングページだけ書いてコーヒーを飲んで、風呂場と洗面所を少し掃除して、ゴミを袋に詰めて出かけた。集合ゴミ置き場は正月の間施錠されていて置けなくなっていて、周りにゴミが山積みになっている。あまり意味ない。正月中もちゃんとおけるようにしておくべきではないかと思う。

現代語訳 大鏡 (現代語訳学燈文庫)

學燈社

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新宿駅でサンドイッチと午後ティーを買って乗車。車内では『大鏡』を読んだ。道長の時代のいろいろな出来事を読む。息子の顕信の出家など、彼の身の回りにもそれなりに出来事がある。大鏡の作者は誰かとか、読んでいるといろいろと面白い。

『大鏡』の中に、犬のために法事をやるひとの話が出てきて、平安時代もそんな人がいただと思って可笑しかった。

9時半過ぎに実家着。少し前の知り合いが線香をあげにきてくれた。ちょうどそういう時間にいられてよかった。

手足が冷えるとどうも腹具合が下ってくるという関係があるようだ。

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昼前に松本に出かける。最近は高速を使っていたが、今日はそう急ぐ理由もないので下の道で峠を越えていく。それにしても信州は寒い。10分前から暖機していたのに、走り出してから相当長い間、室内が暖まらなかった。操法を受ける。腰と背中で一箇所ずつ、ずれていたところを直してもらったようだ。「いいですよ」と言われたのでいいんだなと思う。次の操法は28日だが今月は14日の活元の会も20日の愉気の会も出られそうだ。

帰りに国道沿いのラーメン屋に入る。以前日本橋で食べたような、鰹節のだしが利いた味。少し濃すぎるかもしれない。醤油にしたが、塩のほうがよかったかな。まあでも美味しかった。家に帰って3時。それから葬儀屋に連絡を取ったり、寒中見舞いを印刷したり、通帳を記帳しに出かけたりしていたらあっという間に5時半になった。時間がたつのが早い。

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小林秀雄をこえて―対談評論 (1979年)
柄谷 行人,中上 健次
河出書房新社

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「小林秀雄をこえて」。物語の「主人公の条件」と言った話。何かピュアなものを持っていること、とか。そういう話は、今からみればなんだかもう語り尽くされたというか、特に目新しいものでもないけれども、あるいは物語の構造論とか、そう言うのもさんざんいわれてきているけれども、たぶん70年代後半のこの時期には目新しい、みなが夢中になるようなものだったんだろうなと思う。私がそういう構造的なものが面白いと思ったのは諸星大二郎の『マッドメン』だったけど、これもたぶん同じような時期だ。もともと諸星は『孔子暗黒伝』とか『暗黒神話』とかでも神話の再解釈のようなテーマをずっとやっている。『妖怪ハンター』シリーズもそうだ。そういう意味では私もまた意識せずに時代のテーマのようなものに触れていたんだなと思う。

マッドメン 1―オンゴロの仮面 (ジャンプスーパーコミックス)
諸星 大二郎
集英社

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しかし、今になってみればそういうのももう色褪せたというか、それはそれでいいけどだから?みたいな感じになってる気がする。中上健次が死んだころから、メタ物語論みたいなものはもう陳腐になってきている気がする。むしろ小林秀雄のような「人生」に対する関心のほうが戻ってきてるのではないか。私が小林や白洲正子に惹かれたのも、90年代後半、ポストモダンが終わりつつあるころだった。ポストモダンの絶頂というのは私の中では「オウム真理教」などのキワモノとほぼパラレルにある感じがあって、やはり1995年の衝撃、阪神大震災と地下鉄サリン事件によって日本のポストモダンは終わったのだと思う。諸星大二郎も物語論の再解釈のような意欲的なものからは離れてしまっている。

小林秀雄は因果関係を肯定し、中上健次は肯定しない、という。中上は、歴史というのは転倒の累積なのだ、という主張なのだ。偶然の偏差を必然だと正当化してきたのが歴史なのだ、というわけだ。だから見かけの因果関係などはただ説明によって正当化された意味に過ぎない、すごく平たく言えば「歴史は勝者が作る」ということを言っている。偶然に起こったことも、全て結果的に勝ち残ってきた人にとっては必然だったのだ、と書き入れていくというわけだ。

これは、正直言って両方ともありえると思う。全てが偶然、結果的にそうなったに過ぎない、ということだけで歴史が成り立っているとも思えないし、逆に、「なるべくしてなった」ことだけで歴史が成り立っているとも思えない。個人の意志が運命を変えられるか、という問題でもある。意志と偶然と必然。全ては運命論的に決定されているのか、あるいはすべては人間の意志によって変え得るのか。あるいは全ては偶然なのか。まあどの一つの結論も極端すぎる、というのがわたしにとっては正直なところだ。

ただ、私はここのところ必然論がずっと強くなっていたのを意志論にちょっと乗り換えようという感じにはなっている。まあ、その意志もまた一つの歴史的必然によって持たされたものだ、という考え方もある。いずれにしても、自分の手触りのある真実を追っかけていくことしか、人間にはないんだろうと思うけれども。

親と子の闘争というのも、親は子供の教育において親の考えを必然として押し付け、子供はそれを親の意志(あるいは偶然的な気まぐれ)を転倒させて正当化しているだけだと受け止めて反発する、ということを言っている。小林は、「おれを信じろ」と言っている、しかし全て職人の親方とか古典芸能の伝習者はまずそこにいる「師」を信じなければ何も始まらないことは確かで、これもまたどうかと思う。こういう理屈は、確かに自分が子どものころは不条理に感じていたことなのだけど、自分が親とか教師になったら「そういうものだ」として与えるしかない、ということはけっこうある、ということもわかる。それは必ずしも大人の恣意ではなく、世の中そのものの持つ不条理性だったりする。だから親や教師を通して与えられたものに対する反発というものが、世の中の不条理性に対する反発にもなるわけだし、しかしそれもまたメタなレベルで人間が共存していくための「知恵」のようなものである場合もある、ということもあって、とにかくそんなに単純ではない。中上や柄谷の議論はそのあたりのところがちょっとシンプルすぎる気はする。ただ、こういうテーゼ――68年世代的なテーゼだが――も改めて提示されるとそういう考え方も一つの極端としてはありえるんだなと、一つの座標軸的に意識はすることになるなと思う。

現在100ページあたりを読み返している。

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