面白い仕事が、いつの間にかヤバイ仕事に

Posted at 09/12/27

調子が悪いのだが、それを書こうとすると、キーボードに向かうとなんだか論理的に書かなければいけない感じがしてしまって、どうも話が変な方向に行ってしまう。書きながら思ったが、本当はそんなに調子は悪くないのかもしれない。どこかで自家中毒を起こしているんだろう。

有馬記念を見ていたら、ドリームジャーニーという馬が勝って、池添という騎手が泣いていた。競馬は時々見るけれども、騎手は見分けられても、馬を一頭一頭見分けられるかといわれたら、ちょっと無理だなと思う。競馬ファンは、写真を見ればどの馬かすぐわかるんだろうか。名前の出ていない、ゼッケンもつけていない馬を見て、これはミスターシービーだとか、これはテンポイントだとか、わかったらすごいとは思うんだが。

『夕凪の街・桜の国』をぱらっと読んで、また泣けそうになった。こういう作品を一つも書けていないことに情けなく思う。

ホリエモンの発言をツイッターで読んでいて、どういうことに違和感を感じるかということを考えてみる。この人の発言、多分知的なレベルでいえば結構面白いんだと思う。ある意味フロンティアを切り開いていく、そういう楽しみに取り憑かれた人だ。山岸涼子『日出処の天子』をぱらぱら見ながら、山岸涼子のどこかでのインタビューを思い出した。聖徳太子はいなかった、という説が最近出てきているけれども、山岸がそれを面白いと感じているということをどこかで言っていた。それは、定説を否定する、新しい知のフロンティアを切り開く刺激的な発言だということでそれを面白いと感じたんだろうと思う。その点、ホリエモンと同じだ。

私も、学生時代にはそういう定説を覆すような新しい言説を知的な好奇心を多いに刺激されながら読んでいた。そういう仕事を将来できたらいいなあと漠然と思っていた。しかしどこかからか、いつの頃からか、それは本当はやばい仕事なんじゃないかという気がしてきた。

うまく言葉にはならなかったのだけど、知のフロンティアみたいに見える仕事が、実は政治的な野心と連動している、ということにうすうす気がついてきたからだ。聖徳太子の件にしても、日本には国家の起源説話に等しい聖徳太子を否定することで、日本という国家を否定したいという人たちがアカデミズムを中心に大勢いるということ。知的に面白いというだけでは、容易に政治利用されてしまうということ。いつの間にかそういう勢力の中に取り込まれてしまっているということ。

これは考えてみたら、核開発だとか遺伝子研究とか宇宙開発とかの科学技術の研究と同じで、本人たちは知的好奇心を満たすために全力で取り組んでいても、それは軍事技術や倫理的に問題がある政治的あるいは商業的な目的に容易に転用されるということ。昔は宇宙開発とかももっとシンプルに面白がっていたが、最近はなかなかそうも思えない。

ホリエモンのいっていることというのはそういう事業の新しい工夫として知的には面白いことなんだろうと思うのだけど、それがどういう破壊的な結果を文化にもたらすかということには無関心というか意図的に無視しているところがあって、そこがイヤなんだろうと思う。

そんなことを考えてしまうから、何だか何も勉強したくなくなるし、何も書きたくなくなるという感じに引っ張られてしまっているんだなと思う。

最先端というのはいったいなんなんだろうと思う。

そういうことを考えず、知的好奇心で次々と世界を解明していくことが人類の進歩につながる、という楽観的な世界観が持てない。というか、以前なら古い知の殿堂を破壊して、新しい知の殿堂を打ち立てることを楽しいと思ったと思うのだけど、今はとてもそう思えない感じがする。今の知的世界をリードしている人たちがやっていることというのは、ローマの神殿を破壊してその石材を奪って粗末な家を建てたゲルマン人たちと同じようなことをやっているようにしか感じられないからだ。それならば破壊などせず、ただ維持だけしていたほうが人類に貢献できるとすら思う。

うーんそうだな。前向きに何かに取り組むということの意味が、信じられなくなっているといえばいいのだろうか。

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上手く言葉にはならないけど、あるいは多分出来てもここには書けないと思うのだけど、今私は何か非常に根本的な岩盤のようなところに突き当たっている感じがする。

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結局自分を信じることが出来るのか、この世界を信じることが出来るのか、ということだろうか。

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ブログをアップしようと思ってネットに接続し、その間にコーヒーを沸かしにいった。ネルドリップをセットして、考える。結局、何かを信じて突っ走る、ということは私にはもう出来ないということだろうか。すべてをバランスを考えながらやるしかない、ということだろうか。

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だいたい、私は「何かを信じて」突っ走ったことなどあるのだろうか。「信じてはいないけど」突っ走ったことはいくらでもあるけれども。

もともと、「何かを信じる」ということ自体が向いていないのか。

でもそれだけに、何かを信じたいという欲求は深いところからあると思う。

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でも、それはお預けにするべきなんだろうか。毎日の生活や仕事を、バランスを考えながらやっている間に、何か本質が見えてくるということなんだろうか。

結局、自分自身のバランス感覚というか、つまりは自分自身を信じなければいけないという風に考えればいいんだろうか。

信じるものがなくて、何かやっていて楽しいだろうか。楽しくないから、自分を探す旅に出たのではなかったのか。

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潮時という言葉について考えると、いろいろなことで私はいつも潮時を間違えるなということは思う。

それはひとつには、私は世界を信用できない、どうしても信用できないと思っているところがあるから、世界が指し示す「何か」も信じられないと思っているからなんだろうと思う。

楽しいことも、やりたいという気持ちも見出せないまま、バランス感覚の世界にもどってしまっていいのだろうか。今見えている「潮時」のフラグは、一体私をどこに導いていこうとしているのだろう。

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自分の知的な喜びが信じられない、というのはやはり困ったことなんだろうと思う。信じたことを押し通して何かを壊してしまったことも少なからずあるから、そういう自分を怖いと思う気持ちもあるんだろう。

「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」というのは吉田拓郎の言葉だが、それはなんだか傲慢なような気もする。古い水夫は確実に死んで、結局は動かせなくなっていくのだけど。いま古い日本家屋を立てられる人材が枯渇してきているのと同じように。田舎にいると、ツーバイフォーの家ばかりが増えていって痛ましい気持ちになるばかりなのだ。

古いものが大事されている土地に行きたいと思う。

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新しいものは信じられない。古いものは信じられる。どうも今は、そういう心性になっている。だからと行って田舎の古い地縁などには耐えられない自分もいるのだが。

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