来年の手帳を買った/迷走する一生/オフ会/怒りと悲しみ

Posted at 09/12/13

今日は一日、自分とじっくり向き合うことが出来た。11月7日に父が危篤状態に陥って以来、初めてのことだ。結局12月4日に父が亡くなり、葬儀やその後始末が続いた。東京に帰ることが一月あまりほとんど出来なかった。もともとじっくり自分と向き合わないと自分をすぐ見失ってしまう人間なので、この状態はだいぶきつかったが、丸一日積極的には何もせずにただひたすらボーっとしていたので、だいぶ自分自身に戻ってきた気がする。しかしこれだけのリハビリがいるというのは本当に厄介な人間だと思う。

父が生きている間は、意識を失ってからずっと、ひたすら愉気をすることに専念していて、何とか一度回復してもらいたいと思っていたので、亡くなったときは、生きている人間が少しずつ死の領域に入っていくのを感じて、なんだか不思議な気持ちになっていた。生命体としての人間としては確かに生きているのだけど、意識としての人間はどこにいるのか、もうあまりよくはわからなくなっていた。人間が生命を失っていく、その場に立ち会うのは祖父が亡くなった10年前に続いて二度目のことだ。ただ今度は、周りにいる人も少なく、手を握ったり頭や胸に触れていたのもはじめてのことだったので、人が死ぬということがどういうことなのか、祖父のときよりもずっと感じていた。

祖父の死のときは、息を引き取るというけれども、最後に息を吸って、結局吐かずに終わった。父のときは、息を吐いて終わった。どちらもあるんだろうか。また、整体では人が死ぬときには四日前に禁点の硬結が出るというのだけど、それがどれなのか結局判然としなかった。しかし、これはもう確実に死ぬな、ということは死亡の確認の20分ほど前にはわかった。死へのプロセスがもう確実に動いている、ということは。本当はもっと前から始まっていたのだろうけど、結局それを知ることは出来なかった。

話がつい詳しくなってしまったけれども、言いたかったのは、死ぬまで自分としては努力していたので、亡くなったということにずいぶんがっかりした、ということなのだ。しかしそれがどうもあまりよくわかっていなかったみたいで、「がっかりしている」ということを今朝、ローソンに朝食を買いに歩いているときに始めて言葉でなく体の感覚として気がついた。ああ、がっかりしてるんだな、自分は、と。

午前中は、サンデープロジェクトで民主党政権の迷走ぶりについての討論を見ていたり。「天皇の政治利用」については、民主党を含む各党すべてが鳩山内閣の対応を批判していて、ちょっと拍子抜けだった。だからといって、こういう対応をした禍根が消えたわけではない。総理大臣の辞任くらいはしたほうがいい。まあでもやめないだろうな、この人は。どんな失策をしてもやめないのだ。これだけやめないのは東條英機に近いけれども、この対応の優柔不断ぶりと頓珍漢さは日本を破滅に追い込んだ近衛文麿並と言っていい。この絵という人は人間として面白い人だとは思うのだけど、政治家としては本当にどうにもならない。そういう人があの決定的な時期に日本の中枢に座ったということ自体が日本の不幸だったと思う。鳩山由紀夫という人物も、そういう役回りを担うことにならなければいいのだがと思うのだけど、もうなってしまっているのかもしれない。

午後遅くまで、なんとなくテレビを見たりなんとなくツイッターをしたり、なんとなくウェブを見たりして過ごしていたが、どうも自分を動かすきっかけがつかめないので出かけることにした。神保町に出るか銀座に出るか、それとも日本橋や大手町で済ませるか迷ったのだが、結局まず大手町にいって、丸の内丸善で手帳を買った。去年と同じ、Mark'sのスケジュール帳。去年はネイビーブルーだったけど、今年はサーモンピンク。そういえば2008年はホワイト、2007年はオレンジで、この4年間ずっとMark'sの手帳の色違いを使い続けている。飽きっぽい私にしては珍しいことだ。よっぽど使いやすいんだなと思う。


そのまえはQuoVadisだった。もともとQuoVadisしかアジェンダプランニング、つまり一日のスケジュールを上から下に書くタイプはなかったのでこれを知ったときすぐに飛びついたのだが、2005年はブルーグリーン、2006年はネイビーのQuoVadisを使っていた。しかしフランス製のためか、朝8時から夜9時までしか予定をかけないのに不便を感じていた。Mark'sは朝7時から夜12時まで書けるのでちょっと便利なのだ。24時間書けるタイプもあるにはあるが、デザイン的にいいと思えるものではない。2004年以前のスケジュール帳を見ると、結局あまり書きこんでなくて、うまく使いこなせていない。アジェンダプランニングの手帳は私自身にとって画期的なものだったんだなと思う。

ローマで語る
塩野 七生,アントニオ シモーネ
集英社インターナショナル

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またつい手帳について語ってしまったが、丸善でいろいろ本やマンガを見て、結局ふと目に付いた塩野七生×アントニオ・シモーネ『ローマで語る』(集英社、2009)を買った。これは塩野と彼女の息子との会話で、映画の話を主に語っているようだ。『戦火の彼方』という映画の話が最初に出てくるのだが、これはイタリアが第二次世界大戦末期に南から連合軍が北上し、北にドイツ軍が撤退していくことで、全土が戦火に見舞われた、その当時のことを描いた映画なのだという。ヨーロッパでの戦いについてはあまりよく知らなかったのだが、オンダーチェ『イギリス人の患者』(新潮文庫、1999)を読んでそういうことを始めて知った。全土が戦場になった、というのは日本では想像がつかない。そういう話を親子でできるというところがいいなと思った。

イギリス人の患者 (新潮文庫)
マイケル オンダーチェ
新潮社

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それだけ買って帰ろうかと思ったのだが思いなおし、東京駅で山手線に乗って有楽町に出て、銀座まで歩いた。教文館や銀座の裏道を歩き、松屋の地下で夕食を買って、銀座線に乗ろうと思ったが思いなおし、日本橋まで歩く。日本橋で丸善に入って、別に何も買うつもりではなかったのだが、立ち読みしてぱらぱら読んだ内田樹『日本辺境論』(新潮新書、2009)をちゃんと読んで見る気になって買った。内田は日本は辺境であり、中心を必要とする、というようなことをいっている。その表現は自虐史観的過ぎるとは思うが、川喜田二郎のいう「素朴と文明」とか、梅棹忠夫の「文明の生態史観」などと共通する観点があるようにも思う。基本的に、やはり日本の文明は中国やヨーロッパとは違うところがあるというのは私も思うので、もう一度そういう見方は考えて見るに値すると思ったのだった。

日本辺境論 (新潮新書)
内田 樹
新潮社

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家に帰ってきて、それでもぐだぐだしていたのだけど、なんとなくテレビをつけてなんとなく「坂の上の雲」を見ていたら面白い。秋山兄弟もいいが、伊藤博文とか川上操六とかの地味なあたりが魅力的だ。陸奥宗光についてはもっと顔の長い俳優を使って欲しかった。あの陸奥の顔だけは特徴がありすぎる。

そのあとN響アワーでアンドレ・プレヴィン指揮のモーツァルトの交響曲を聞き、その流れでETV特集の藤沢秀行特集を見た。これがすごい。藤沢は最後の無頼派の碁打ちとして知られているが、坂田栄男との確執は知らなかったので、興味深かった。最後に入院当時の写真が出てくるのだけど、それが父の入院時の様子に重なって、なんだかしみじみした。父もある意味とんでもない人だったので、藤沢の一生と重なるところを感じながら見ていた。父が自宅を担保にして3000万借りようとしていたときには必死で止めたが、結局貸す方がかさなかったのでそういう借金はしないですんだ。とはいえ、数百万程度の借金は今でも残っているのだけど。しかし藤沢の借金は億単位だから、話が全然違う。すごいことだと思う。

晩年に藤沢は書を残しているのだが、「迷走」という字がすごいと思った。迷走というと鳩山内閣のようなどうにもならない様子を表していると思うけれども、碁というもの、人生というものをいくら極めても極めてもわからない、まだまだ迷い、まだまだその先を求め続けている、そういう心境を表しているんだなと思って感動した。結局人間には、その謙虚さが必要なんだと思う。人間は自分が信じたことをやるしかないのだけど、結局はやりたいことをやって生きるのが幸せなのだけど、でも本当はそれが正しいのかどうかは誰にもわからない。人間というのは迷走するしかない生き物なのかもしれない。

***

ここ数日、テキスト庵主催のオフ会が催されたためにそれ関連の記事が目に付くが、私は父の死と重なったことと、なんとなくそういう気持ちになれないこととで参加は見送った。レポートを読んでいると、私が読んでいる人も来ているが読んでいない人も来ているようで、参加したらしたで楽しかったとは思うが、でも参加することはなかっただろうと思う。

しかし私もオフ会というものに一切参加したことがないわけではない。以前詩のサイトをやっていたときは、二度ほどネット上で詩を書いている人たちのオフ会に参加した。また、経済学者系の人たちが出たオフ会に私も参加させてもらって、それは楽しかった。だから私は実は柿柳氏と会っている。それが密かな自慢である。

何というか、ここ数年心に屈託があるせいか、飲むと荒れるというパターンを同窓会などで繰り返して友達をなくしているので飲み会自体をけっこう自重しているというところもある。まああんまり荒れない自信が出てきたらまた参加させてもらおうと思う。

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前も書いたが、私の心の深いところに、怒りと悲しみがあるということを最近はっきりと自覚してきている。もっと若いころは、もっと深い不安、無力感のようなものだったのだけど、それが年を取ってきて怒りとか悲しみというものに変化してきたのかもしれない。心の屈託というものと、それはもちろん関係しているのだろうけど、昔はそれ自体がとても罪深いことのように感じて、自分がそんなものを持っているということを見ないように、あるいは考えないようにしていた。しかし何かことがあるとそのやりきれない事実に気づいて深い無力感に囚われる、ということが若いころはよくあった。今回、父の看病と死に際して、私が本当には物凄く感情的な人間であること、そしてその大きな部分を怒りとか悲しみが占めていることに気がついた。しかしまあ、それを認めるところからしか自己認識は始まらないので、とに書くそれに向かい合おうと思っている。

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