あれから6日/自分の感情がよく分らない人間

Posted at 09/12/09

気がついてみたら、父が亡くなって今日でもう6日目。明日は初七日ということになる。私の郷里の地方では初七日の法要は葬儀のあとに同時にやってしまうので、初七日という実感はないのだけれども、もうそんなになるかと思う。仕事の方は金曜と土曜を休み、火曜日に復帰した。日曜と月曜がもともと休みなので、まあ最低限で済んだかなと思う。そういうところ、父はずいぶん気を使う人だった。最後まで、みんなの都合を考えてくれたのかなと思う。もちろん全部OKというわけには行かなかったけれども。

なくなる前の日に、問題になっていた集金が無事済んだり、いろいろそういう現象があって、金曜日には心に引っかかっていることがほとんどなかった。それは父が片付けてくれたのかもしれないと思う。病気になってからわかったが、父はなんだか淋しがり屋なところがあったんだなと思う。私と母が心置きなく見送れるようにしてくれたのではないかと。兄弟が間に合わなかったのは残念だが、木曜日には下の妹が、前の日曜日には弟と上の妹も来ていたから、十分見送れたんじゃないかなと思う。

今日は病院にお礼に行ったり、ビデオを撮ってくれた親戚にお礼に行ったり、会計事務所にいろいろなことを相談しに行ったりしてから職場。これからやることは山のようにあるのだが、まあぼちぼちやって行きたい。久しぶりに病院に行って山を眺めて、「山は青きふるさと」だなと思った。水は清きふるさとだ。もうしばらく見たくない景色でもあるのだけれども。

入院しているときには考えないようにしていたが、やはり病院に対してはちょっとした不満がいろいろあるし、葬儀も滞りなく終わったけれども、葬儀屋に対してもちょっとした不満がいろいろとある。そういうことは今さらどうにもならないことだし、またそれぞれによくやってくれたんだろうとは思うけれども、そういう思いはどうにもならない。また感情の整理がついてきたらもっと客観的に見られるようになるんだろうとは思うのだけど、自分が本質的には感情的な人間なんだということは今回本当によくわかった。

自分の中に、どうにもならない「怒り」みたいなものがある。あまり今まで意識したことはなかったのだけど。怒りというものは、まああんまりいいものではないんだろうけど、「頭に来る」というのとは違う、もっと深いところにあるものとして、「怒り」というものが自分の中にある。いつからかはわからないけど、おそらく90年代のどこかでそれが自分の中に棲みついて、なんだか自分の行動をかなり制約している気がする。それは結婚していた当時、教員生活をしていた当時の何かの後遺症的なものかもしれない。はっきりと、自分の中にそういうものがいるんだということが、今回よくわかった。そしてそれが、いろいろな感情と結びついていることも。ある意味、怒りというのは、人間の核になるもののひとつなのかもしれないと思う。

公憤と私憤、というけれども、まあどちらだって怒りは怒りなんだけど、より本質的なのは、というか、より大事なのは私憤の方なんじゃないかと思う。ただ、今言っている怒りというのは、何か理由のある怒りではなくて、なんだかよくわからないけれども感じているものだ。よくわからないけど感じている不安とか、よくわからないけど感じてしまう喜びとか、たぶんそういうものと近いものなんだと思う。どれがリアルかというと怒りが一番強烈ではあるのだけど、それがリアルかというとなんだかそれも夢の中の話のような気もしないではない。

怒りというのは、というか感情というもの全般がそうだけど、本当にその人だけのものなんだなと思う。私が感じているわけのわからない怒りというものを、誰かと共有することは出来ない。それは痛みとかも同じだ。緩和ケアとか痛み止めとかいうけれども、誰かの痛みを他の人が感じることも、その痛みの強さを測ることも出来ないのだ。(間接的に何か測るものがあった気もするが)自分自身にとっては何よりも強烈なのに、人には何にも伝わらない。「個人」というのがどこに存在するかというと、そう言う怒りのようなものにこそ存在するのかもしれないと思った。

私は本当に自分の感情には鈍感な方なのだけど、本当はすごく強烈な感情の動きがある人間なんだと思う。そういえばそれは、20数年間に付き合っていた人に言われたことがあった。その感情を押さえさせている存在がある、ということをその人は批判していたのだけど、でもそれは自分と言う人間の、たぶんありのままの姿で、こういうことでもなければ自分の感情というものが自分にうまく認識できない人間なんだろうと思った。

今回、喪主をやったり後継ぎの立場でいろいろ話したり動いたりしながら、感情的になるなとか、あわてるなとかよく言われた。それは、ふだん自分のペースで仕事をしていて、こういう時は回りに急かされたり自分が本当に納得しないうちに見切り発車させられたりして非常に不満が溜まるため、そう言う感じになっていたという面も非常にあるのだけど、普段普通に感情をセーブしているために、こういうときに感情の動きがセーブできなくてそういうふうになったという面もあるなあと思う。ふだんから感情豊かに暮らしていたら、こういう時はこういう時として感情を変に剥き出しにしたりしないで済んだのではないかという気もする。

まあ少しずつ人間の形に戻っていくんだろうと思う。ひょっとしたら、以前とは同じ形の人間には戻らないかもしれないけど、人間が経験をするということは、たぶんそういうことなんだろうなあと思う。

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